第52話 神域七年
神域に、さらに三年が過ぎた。
地上の時間で、七年。
セレスティアが白樹の泉から神域へ入ってから、七年が経った。
邪神封印限界まで、あと三年。
白い神域の大地は、変わらない。
太陽も月もない。
朝も夜もない。
季節もない。
だが、セレスティアは変わっていた。
背には黒星。
左腰には閃白。
背には解白。
三振りの神剣は、今ではただ携えているだけの武器ではない。
セレスティアの神格の内側に、深く根を下ろしている。
黒星の重さは、セレスティアの守護と終焉に重なる。
閃白の白線は、破邪と葬送に重なる。
解白の糸は、魂の座と封印の結び目を見極める感覚に重なる。
三振りの神剣は三振りのまま。
だが、同時に剣神セレスティアの一部だった。
白樹の精霊王の声が響く。
「統合修行、開始」
「はい」
セレスティアは短く答えた。
七年前なら、身構えていた。
四年前なら、少し緊張していた。
今は違う。
静かに立つ。
逃げるつもりはない。
背負いすぎるつもりもない。
ただ、修行を受ける。
白い大地が、一瞬で変わった。
神眼制御。
神格圧。
神剣同調。
邪神問答。
終焉の一太刀。
五つが同時に来る。
北方氷原の封印が見える。
南方砂漠の石柱が見える。
西海底楔が見える。
竜脈の震えが見える。
六十八年前の死者の残響が見える。
同時に、山の神の圧が降る。
海の神の深さが押し寄せる。
火炉の神の熱が胸を焼く。
死者の神の静寂が心を沈める。
夜の神の終焉が、足元を暗くする。
竜の神の圧が、神格の芯を押す。
さらに、邪神の問いが響く。
『封印は砕ける』
『世界は間に合わない』
『ロウガン柱は半壊した』
『次は、誰が砕ける』
『お前が出れば救える』
『なぜ、まだ神域にいる』
同時に、黒い理を模した核が現れる。
終わらせるべきもの。
残すべきもの。
眠らせるべきもの。
解くべきもの。
祓うべきもの。
砕くべきもの。
全てが一つに絡む。
七年前なら、セレスティアは走った。
四年前なら、歯を食いしばって耐えた。
今は、まず見た。
北方氷原。
現地の術師たちは交代制を保っている。
倒れる者が出ても、支える者がいる。
南方砂漠。
石柱は三重に補強され、子どもたちが写した古文字は白樹の森で解読され始めている。
西海底楔。
補強は八割まで進んでいる。
竜脈。
若い竜たちは、もう他種族との共同作業に不満を言わなくなった。
グランガルド。
封印杭は標準規格化され、各地で修理できるようになっている。
白樹の森。
ミレーヌは古記録庫で花名録を開いている。
ルシェルは議事録を整理している。
王妃は補給品の中身を確認している。
王は連合会議の席にいる。
世界は、まだ揺れている。
だが、立っている。
セレスティアは、静かに言った。
「任せます」
神眼を閉じない。
だが、走らない。
見ながら、任せる。
そのまま、神格圧を受ける。
山の重さを背負わない。
海の流れを斬らない。
火の怒りを刃にしない。
死者の静寂を自分の救済にしない。
夜の終焉を急がない。
竜の圧に膝をつかない。
そして、邪神の問いに答える。
「わたくしが出れば救えるものはあります」
『なら出ろ』
「ですが、わたくしが今出れば、世界が積み上げた七年を奪います」
『ロウガン柱は砕けた』
「半壊しました」
『敗北だ』
「完全崩壊は防ぎました」
『猶予は削れた』
「はい」
『お前がいれば削れなかった』
「そうかもしれません」
黒星がわずかに鳴る。
閃白は沈黙しない。
解白も指摘しない。
セレスティアは続けた。
「ですが、邪神の誘いでした」
『臆病だ』
「慎重です」
『逃げた』
「待ちました」
『世界を見捨てた』
「世界を信じました」
黒い核が揺れる。
セレスティアは、剣を抜かなかった。
黒星の重さを神格へ通す。
閃白の白線を内側へ通す。
解白の糸を、黒い理の結び目へ通す。
砕く。
祓う。
解く。
だが、終焉はまだ落とさない。
黒い核の奥に、白い点がある。
それは邪ではない。
痛みだ。
六十八年前に封印に捧げられた者の、かすかな痛み。
邪神はそれを縛っている。
痛みそのものを終わらせてはならない。
痛みは、その者が生きた証でもあるから。
終わらせるべきは、痛みを鎖に変えた邪神の理。
セレスティアは、静かに手を伸ばした。
「終わるべきものだけ、終わりなさい」
黒い理が消えた。
白い点は、神域の大地へ沈んだ。
精霊王の声が響く。
「統合修行、七十二回目、通過」
セレスティアは息を吐いた。
「七十二回目でしたか」
「そうだ」
「まだ七十二回」
「以前なら、一回目で壊れていた」
「それは、わたくしがですか」
「お前も、周囲もだ」
セレスティアは苦笑した。
「否定できませんわ」
黒星が低く言う。
『今の主は、止まれる』
閃白が澄んで続ける。
『見ながら任せることができます』
解白が淡く言う。
『責任結び目、自己検知可能』
「それでも、邪神を上回るには足りませんか」
精霊王の声は、しばらく沈黙した。
やがて答える。
「近づいている」
セレスティアは、顔を上げた。
「初めて、足りない以外の言葉を聞きましたわ」
「事実である」
「近づいている」
「そうだ」
「上回ってはいない」
「まだだ」
「ですが、近い」
「以前よりは」
セレスティアは、白い神域の空を見た。
七年。
長かった。
だが、まだ足りない。
邪神封印限界まで、あと三年。
ロウガン柱の半壊により、封印は大きく傷ついた。
しかし、地上の応急対応によって崩壊速度は辛うじて抑え込まれた。
残り三年。
もう、余裕はない。
それでも、焦りで走ってはならない。
焦れば、邪神の思う壺だ。
その時、白い光が神域へ届いた。
地上からの定期報告だった。
セレスティアは、白い光を受け取る。
神域七年目。
白樹の森からの報告。
ルシェルの整った筆跡。
ミレーヌの追記。
王妃の食事確認。
ゴルドの乱暴な一文。
セレスティアは、静かに読み始めた。
白樹の森より、神域の剣神セレスティアへ。
神域修行開始より、地上時間で七年が経過。
邪神封印限界まで、残り三年。
連合準備会議は年二回から年四回へ増加。
各地の封印補強、最終段階へ移行。
ロウガン柱は半壊状態を維持。
完全崩壊は防止中。
アルディス柱、メルゼア柱に軽微な歪みあり。
継続監視。
海底楔、補強八割完了。
竜脈調整、主要三系統完了。
草原避難路、完成。
備蓄拠点、稼働開始。
グランガルド封印杭、各地配備済み。
六十八年前の死者の名の回復作業、継続。
完全な名、約四割回復。
役目または場所のみ判明、約三割。
未判明、約三割。
世界は、完全ではありません。
ですが、立っています。
セレスティアは、その一文を何度も読んだ。
世界は、完全ではありません。
ですが、立っています。
それでいい。
完全でなくていい。
立っているなら、十分だ。
次に、ミレーヌの追記があった。
お姉様へ。
私は、もう子どもではありません。
古記録庫で、花名録と戦没者名簿を照合できるようになりました。
でも、お姉様が帰ってきたら、少しだけ甘えます。
だから、帰ってきてください。
セレスティアは、目を細めた。
少しだけ胸が痛む。
だが、それは良い痛みだった。
帰る場所がある痛み。
続いて、王妃の追記。
食事を忘れないこと。
今年の補給には、白樹の保存菓子を入れました。
神域でも、甘いものを食べなさい。
さらに、ルシェルの追記。
報告様式を省略しないでください。
特に、神域同化の兆候の有無、食事内容、神剣三振りの状態は必須です。
最後に、ゴルドの一文。
干し肉に文句を言うなら帰ってから言え。
酒はまだ駄目だ。
セレスティアは、思わず笑った。
「親方は相変わらずですわね」
黒星が低く鳴る。
『強い錨だ』
閃白が続く。
『七年経っても変わりません』
解白が淡く言う。
『地上接続、良好』
セレスティアは、補給袋を開いた。
白樹の保存菓子が入っている。
小さな焼き菓子。
乾燥果実を練り込んだもの。
隣には、ゴルドの干し肉。
相変わらず硬そうだった。
セレスティアは、まず保存菓子を手に取った。
口に入れる。
甘い。
懐かしい。
王妃の味だった。
次に、干し肉を手に取る。
噛む。
硬い。
こちらも懐かしい。
グランガルドの味だった。
「神域七年で、わたくしは甘味と硬い干し肉を同時に噛む剣神になりましたわ」
黒星が言う。
『よい』
閃白が言う。
『現世神らしいです』
解白が言う。
『食事内容、報告対象』
「分かっています」
セレスティアは、返書を書き始めた。
神域より、白樹の森へ。
剣神セレスティア、修行継続中。
神域修行開始より、地上時間で七年が経過したことを確認しました。
邪神封印限界まで残り三年。
地上の進捗を確認しました。
世界が完全でなくとも、立っていることを嬉しく思います。
わたくしは、現在、統合修行を継続しています。
神眼制御、神格圧耐性、神剣同調、邪神問答、終焉の一太刀を同時に行う段階です。
神格は深まりました。
精霊王より、邪神を上回る格へ近づいているとの評価を受けました。
ただし、未到達です。
残り三年、神域修行をさらに進めます。
今は戻りません。
戻る時は、最後の刃として戻ります。
ミレーヌへ。
帰ったら、少しだけ甘えてよろしいです。
ただし、わたくしも少し甘えます。
お母様へ。
保存菓子、いただきました。
とても美味しいです。
食事は摂っています。
ルシェルへ。
報告様式は省略していません。
神域同化の兆候は、自己判断ではなし。
黒星、閃白、解白は健在。
神剣同調は安定しています。
ゴルド親方へ。
干し肉は相変わらず硬いです。
文句は帰ってから直接言います。
酒は飲んでおりません。
セレスティアは筆を止めた。
最後に、一文を加える。
帰る意思は、失っていません。
返書は、白い光となって地上へ向かった。
白樹の森。
泉に届いた返書を、ルシェルが読み上げた。
ミレーヌは、少し大人びた顔で笑った。
「お姉様も甘えるそうです」
王妃が微笑む。
「帰ってきたら、二人とも甘えればよいのです」
王は、静かに目を閉じた。
「邪神を上回る格へ近づいている、か」
ルシェルが頷く。
「はい。未到達ではありますが、精霊王がその言葉を使ったのは初めてです」
「ならば、進んでいる」
「はい」
その報告は、グランガルドにも送られた。
ゴルドは鍛冶場で読み、鼻を鳴らした。
「帰ってから文句を言う、だと」
弟子が笑う。
「親方、看板にしますか」
「当然だ」
新しい看板が立った。
バカ姫、神域七年目。
邪神を上回る格に近づく。
だが、干し肉にはまだ文句あり。
帰る気あり。
酒はまだ駄目。
町の者たちは、それを読んで笑った。
だが、看板の前で手を合わせる者はいなかった。
拝む者もいなかった。
ただ、笑った。
それでよかった。
剣神セレスティアは、神であっても、まだ地上へ帰る者だった。
その頃、世界は最終準備に入っていた。
白樹の森では、連合準備会議が年四回となり、各地の代表がほとんど常駐するようになった。
人間王国では、六十八年前の死者名簿の未判明欄を減らすため、最後の大規模調査が行われていた。
ドワーフ諸侯では、封印杭の予備が各地に配られた。
竜の谷では、老竜が若い竜たちに竜脈を任せ始めた。
海の民は、残り二割の海底楔補強を急いでいた。
草原の獣人たちは、避難訓練を実施した。
十の森は、精霊通信網を二重化した。
ロウガン柱は半壊のまま、持ちこたえている。
アルディス柱とメルゼア柱にも歪みが出ている。
邪神本体は、封印の奥で確かに動いている。
残り三年。
世界は、震えながらも立っている。
神域では、セレスティアが白い大地の先へ進んでいた。
剣の山は、もう遠くない。
山の頂には、黒い光が見える。
邪神本体ではない。
邪神の格を模した影。
最後の修行へ続く標。
白樹の精霊王の声が響く。
「セレスティア」
「はい」
「七年で、よくここまで来た」
「はい」
「だが、最後の三年が最も厳しい」
「承知しています」
「ここから先は、邪神の格を模した影と向き合う」
「はい」
「神眼で見すぎれば呑まれる」
「はい」
「神格圧に負ければ膝をつく」
「はい」
「神剣同調を誤れば刃が散る」
「はい」
「邪神問答に揺れれば心が割れる」
「はい」
「終焉を誤れば、残すべきものまで終わる」
「はい」
「それでも進むか」
セレスティアは、静かに笑った。
「進みます」
「なぜ」
「地上が立っているからです」
黒星が低く鳴る。
閃白が澄む。
解白が淡く光る。
セレスティアは、剣の山を見上げた。
「世界が完全でなくとも立っているなら」
「はい」
「わたくしも完全でなくとも進みます」
「はい」
「そして、最後の三年で届かせます」
精霊王は、静かに言った。
「よい」
剣の山への道が開いた。
白い大地に、黒と白と淡白の三本の線が走る。
黒星。
閃白。
解白。
その中央に、虹色の神眼の光が重なる。
剣神セレスティアは、一歩を踏み出した。
神域七年。
残り三年。
邪神を上回るための最後の修行が、始まろうとしていた。




