幕間 剣聖セレスティアは夢を見る
名もなき森は、静かだった。
白樹の森から遠く離れた場所。
古戦場の気配が薄れ、瘴気が祓われ、風だけが通る森。
そこに、小さな石室がある。
崇めるための神殿ではない。
祀るための聖堂でもない。
英雄を称える廟でもない。
ただ、眠るための場所だった。
石室の中央には、石棺がある。
その上には、何の称号も刻まれていない。
剣聖。
英雄。
公爵令嬢。
邪神戦争の守護者。
そういった言葉は、どこにもない。
刻まれているのは、ただ一文。
セレスティア、ここに眠る。
その中に、前世のセレスティアの肉体が眠っていた。
六十五年前。
邪神戦争の末期。
彼女は退路を守るために死んだ。
右手に黒星。
左手に閃白。
身体中を斬られ、魂が尽きかけても、守るべき者たちを逃がすために剣を振り続けた。
そして、死してなお立っていた。
その肉体を、邪神は見逃さなかった。
魂が尽きた身体。
死してなお剣を握る身体。
腐敗しないほどの神格の残り香を帯びた身体。
邪神にとって、それはあまりにも都合のよい器だった。
邪神格は、その魂の座へ入り込んだ。
剣聖セレスティアの肉体を、封印地の護り手として利用した。
死者を死者として眠らせず。
剣を剣として終わらせず。
彼女の肉体に邪神の役目を押しつけた。
その後、六十一年。
前世のセレスティアの肉体は、邪神の眷属として立ち続けた。
傷を受けても、邪神格が修復した。
腐敗することもなく、崩れることもなく、死んだ時の姿を保った。
幸か不幸か。
その身体は、朽ちなかった。
邪神格に使われたからこそ、朽ちなかった。
邪神格に縛られたからこそ、形を保った。
そして、剣神セレスティアによって邪神格は討たれた。
前世のセレスティアの肉体は、ようやく解放された。
黒星と閃白は、もうその手にはない。
傷は清められた。
邪神の気配は祓われた。
聖布に覆われ、名もなき森へ運ばれた。
祀らず。
崇めず。
役目を与えず。
ただ、眠るために。
今、その身体は安らかだった。
顔は穏やかで、六十五年前に果たせなかった眠りを取り戻したように見える。
だが。
誰も知らなかった。
邪神でさえ気づかなかった。
剣聖セレスティアの魂の座は、完全な空ではなかった。
魂は尽きた。
人格は眠った。
記憶は剥がれ落ちた。
剣神セレスティアと夢の中で別れた、もう一人のセレスティアは、たしかに眠りへ向かった。
それは嘘ではない。
前世のセレスティアは、復活しない。
過去の人格として戻ってくることもない。
だが、魂の座の最深部。
邪神格ですら届かなかった、あまりにも静かな場所に。
かすかな残渣があった。
怒りではない。
憎しみではない。
怨嗟ではない。
後悔ですらない。
邪神は、それらを嗅ぎ分ける。
怒りを拾う。
憎しみを縛る。
絶望を腐らせる。
後悔を増幅する。
痛みを鎖に変える。
だからこそ、邪神は気づかなかった。
その残渣は、負の感情ではなかったから。
それは、静かな想いだった。
絶対に邪神戦争を終わらせる。
ただ、それだけだった。
叫びではない。
呪いではない。
誰かへ向けた恨みでもない。
自分を救えという願いでもない。
ただ、終わらせる。
この戦争を。
この冒涜を。
死者を死者として眠らせない理を。
世界を蝕む邪神の理を。
絶対に終わらせる。
その想いだけが、魂の座の奥に残っていた。
あまりにも小さく。
あまりにも静かに。
六十五年前から。
ずっと。
石室の中で、聖布がわずかに揺れた。
風は入っていない。
扉も閉じている。
だが、前世セレスティアの肉体の内側で、何かが微かに震えた。
神域で、剣神セレスティアが統合修行へ入った。
神眼制御。
神格圧。
神剣同調。
邪神問答。
終焉の一太刀。
五つの修行を同時に重ね、邪神を上回る格へ至るための修行。
その気配が、遠く遠く、魂の座の最深部へ届いた。
前世セレスティアの魂の残渣は、それに反応した。
魂ではない。
意識ではない。
声でもない。
だが、想いは震えた。
そして。
剣聖セレスティアは、夢を見る。
夢の中で、彼女は戦場に立っていた。
六十五年前の古戦場。
空は黒い。
大地は割れている。
瘴気が流れ、遠くで兵が叫んでいる。
馬車が燃えている。
逃げる民がいる。
倒れた兵がいる。
泣いている子どもがいる。
それでも、彼女は立っていた。
右手に黒星。
左手に閃白。
前世の剣聖セレスティアとして。
身体は血に濡れている。
腕は重い。
視界は赤い。
だが、足は退かない。
退けば、後ろの者たちが死ぬ。
だから、立つ。
邪神の眷属が迫る。
不死の軍勢が押し寄せる。
瘴気を浴びた竜の影が空を覆う。
剣聖セレスティアは、黒星を振るった。
重く、砕く。
閃白を走らせた。
白く、斬る。
だが、夢の中の彼女は知っている。
これは過去だ。
もう終わった戦いだ。
自分は死んだ。
守るべき者を逃がすために死んだ。
それでよかった。
だが、終わらなかった。
自分の死は、邪神に奪われた。
肉体は使われた。
家族は殺された。
公爵家は断絶した。
死者としての眠りすら奪われた。
それでも。
夢の中の剣聖セレスティアは、怒らなかった。
怒りはある。
痛みもある。
だが、その奥にあるものは違う。
絶対に邪神戦争を終わらせる。
その想いだけが、剣を支えていた。
夢の戦場が揺れた。
遠くに、白い光が見える。
神域の光。
そこに、もう一人のセレスティアがいる。
剣神セレスティア。
今生のセレスティア。
影なき現世神。
神剣黒星。
神剣閃白。
神剣解白。
三振りの神剣を携え、邪神を上回るために修行する者。
夢の中の剣聖セレスティアは、その光を見た。
そして、微笑んだ。
彼女は、もう剣を渡さない。
黒星も閃白も、すでに今生のセレスティアのものだ。
役目を押しつけるつもりもない。
背負えとは言わない。
自分の無念を晴らせとも言わない。
自分の代わりに復讐しろとも言わない。
ただ。
「終わらせて」
夢の中で、剣聖セレスティアはそう言った。
声になったかどうかも分からない。
魂の残渣に、声などない。
それでも、想いは形を持った。
「邪神戦争を、終わらせて」
それは願いだった。
命令ではない。
呪いではない。
縛りでもない。
ただ、同じ願い。
剣神セレスティアが持つ終焉の理と、前世セレスティアの魂の残渣が持つ最後の想いが、遠くで重なった。
名もなき森の石室で、石棺の中の肉体が微かに光った。
聖布の下。
前世セレスティアの胸のあたり。
魂の座がある場所。
そこに、淡い光が一瞬だけ灯る。
それは、神格ではない。
復活の兆しでもない。
邪神格の残滓でもない。
ただ、残っていた想いが、今生の剣神へ応えただけだった。
石室の外では、森が静かに揺れている。
見張りの精霊が、その光に気づいた。
だが、騒がなかった。
その光には、邪がなかった。
むしろ、清かった。
白樹の森へ、かすかな報せが飛ぶ。
名もなき森。
前世セレスティアの安置所。
異常なし。
ただし、魂の座に微弱な清浄反応。
邪神反応なし。
白樹の精霊王は、その報せを受け取った。
しばらく黙っていた。
そして、静かに目を伏せた。
「残っていたか」
その声は、誰にも聞こえないほど小さかった。
白樹の精霊王は、すべてを理解した。
邪神格すら気づかなかった魂の残渣。
剣聖セレスティアの最後の想い。
怒りでも憎しみでもない、静かな誓い。
それは邪神に利用されなかった。
邪神には見えなかった。
だから残った。
そして今、剣神セレスティアが邪神を上回るために進む時、その想いが震えた。
白樹の精霊王は、神域の方角を見た。
今生のセレスティアは、まだ知らない。
前世の自分の肉体の奥に、かすかな想いが残っていることを。
それを知れば、また背負うかもしれない。
だから、今は伝えない。
だが、いずれ必要になる。
邪神本体と向き合う時。
邪神が死者の痛みを使い、前世の肉体を使った罪をぶつけ、剣神セレスティアの心を揺らす時。
その時、前世セレスティアの魂の残渣は、呪いではなく、支えになる。
お前のせいではない。
復讐しろではない。
背負えでもない。
ただ、終わらせて。
その一言だけが、剣神セレスティアの終焉を正しい方向へ導く。
名もなき森の石室で、夢は続いていた。
剣聖セレスティアは、戦場に立っている。
だが、夢の戦場は少しずつ白くほどけていく。
炎が消える。
瘴気が薄れる。
不死の軍勢の声が遠ざかる。
泣いていた子どもは、誰かの腕に抱かれて逃げていく。
兵たちは退路を越えていく。
馬車は遠ざかる。
守るべき者たちは、まだ生きている。
あの日、彼女が守ったもの。
その全てではない。
それでも、確かに次へ渡したもの。
剣聖セレスティアは、夢の中で剣を下ろした。
黒星も閃白も、もう手にはなかった。
そのことを、彼女は寂しいとは思わなかった。
あの剣たちは、今生のセレスティアのもとにある。
それでよい。
剣は、次へ渡った。
想いも、次へ渡る。
だが、役目は押しつけない。
剣聖セレスティアは、白い光の向こうを見た。
剣神セレスティアの姿は、はっきりとは見えない。
だが、分かる。
あの子は進んでいる。
神域で。
干し肉を噛みながら。
家族を思いながら。
ゴルドに文句を言いながら。
黒星、閃白、解白に叱られながら。
世界を信じる修行を続けている。
剣聖セレスティアは、ほんの少しだけ笑った。
「よかった」
それは、声ではなかった。
想いだった。
自分の死は邪神に奪われた。
肉体は利用された。
家族も失った。
けれど、すべてが無意味だったわけではない。
世界はまだ続いている。
今生のセレスティアがいる。
地上の者たちが立とうとしている。
六十五年前の死者の名が、少しずつ戻っている。
ならば、まだ終わっていない。
終わっていないなら、終わらせることができる。
邪神戦争を。
邪神の冒涜を。
死者を死者として眠らせない理を。
剣聖セレスティアは、夢の中で目を閉じた。
石室の現実でも、彼女の顔は穏やかなままだった。
魂の座の奥に残った小さな光は、再び静かになる。
消えたわけではない。
眠っただけ。
必要な時まで。
邪神さえ気づけなかった、あまりにも静かな誓い。
絶対に邪神戦争を終わらせる。
それだけを抱いて。
剣聖セレスティアは、夢を見る。
復活するためではない。
誰かを縛るためでもない。
ただ、終わるべき戦争が終わるその時を、静かに待つために。




