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神剣のセレスティア  作者: 玉響すばる


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第43話 神域へ入る剣神

 白樹の泉は、静かだった。


 朝の光を受けた水面は、鏡のように澄んでいる。


 だが、その奥には、地上とは異なる理が揺れていた。


 神域。


 神々が修行し、神格を整え、世界の理と向き合う場所。


 地上に生きる者が入る場所ではない。


 だが、セレスティアはもう、ただのハイエルフではなかった。


 剣神セレスティア。


 影なき現世神。


 神剣黒星。


 神剣閃白。


 神剣解白。


 三振りの神剣を携えた、世界の最後の刃。


 白樹の泉の前には、王と王妃、ルシェル、ミレーヌ、そして白樹の精霊王がいた。


 セレスティアは、ゴルドから持たされた包みを手にしている。


 干し肉。


 硬焼きパン。


 豆を固めた携行食。


 神域に食事が必要かどうかは分からない。


 だが、ゴルドは必要だと言った。


 王妃も必要だと言った。


 理由は同じだった。


 セレスティアを神だけにしないため。


 それなら、持っていくしかなかった。


 王妃が包みをもう一つ差し出した。


「こちらも持っていきなさい」


「お母様、これは?」


「白樹の実を乾燥させたものです」


「ありがとうございます」


「それから、酒は入っていません」


「まだ何も言っておりません」


「入っていません」


「はい」


 黒星が低く鳴った。


『よき判断』


 閃白が続く。


『主は油断すると酒を探します』


 解白も淡く言う。


『酒類封入なし。確認済み』


「解白、いつ確認しましたの?」


『必要事項』


 セレスティアは小さくため息をついた。


「三振りとも、すっかり監視役ですわね」


 ミレーヌが、セレスティアの袖を掴んだ。


「お姉様」


「はい」


「一年で戻りますか」


 その声は、少し震えていた。


 セレスティアは膝をつき、妹と目線を合わせた。


「まずは一年です」


「数年になるかもしれないのですよね」


「はい」


「寂しいです」


「わたくしもです」


 ミレーヌは、唇を噛んだ。


「でも、我慢します」


「ありがとう」


「その代わり、ちゃんと連絡してください」


「はい」


「生存報告だけではなく、食事報告も」


「食事報告?」


「はい。ちゃんと食べたと」


 ルシェルが横から記録板を出した。


「神域修行中定期報告項目に追加します」


「ルシェル」


「一、神格安定状況。二、神眼制御状況。三、神剣同調状況。四、精神状態。五、食事状況」


「本当に記録するのですか」


「当然です」


 黒星が鳴る。


『妥当』


 閃白が言う。


『必要です』


 解白が続く。


『報告様式、簡潔化推奨』


「解白、あなたは完全にルシェル側ですわね」


 ルシェルは真面目な顔で頷いた。


「優秀な神剣です」


 セレスティアは肩を落とした。


 だが、そのやり取りがありがたかった。


 神域へ入る。


 数年、地上から離れるかもしれない。


 神々の理に近い場所で、孤独に修行する。


 それでも、見送る家族は、いつものように食事や報告を心配している。


 それが、地上への錨だった。


 王が一歩前に出た。


「セレスティア」


「はい、お父様」


「神域では、神として扱われるだろう」


「はい」


「だが、忘れるな」


「はい」


「お前は白樹の森の第一王女でもある」


「はい」


「私たちの娘であり、ミレーヌの姉であり、ルシェルの姉でもある」


「はい」


「そして、ゴルド殿にバカ姫と呼ばれる者でもある」


 セレスティアは、少しだけ目を瞬かせた。


「お父様まで、それをおっしゃいますの?」


「必要だ」


 王は真顔だった。


「神域で自分が何者か分からなくなった時、その不名誉な呼び名を思い出せ」


 黒星が低く言う。


『強い錨だ』


 閃白も続く。


『神域でも有効です』


 解白も言った。


『封解対象外。維持推奨』


「解白、それは封じではありませんわ」


『主を地上へ結ぶ結び目』


 セレスティアは、言葉を止めた。


 確かに。


 バカ姫。


 不名誉で、乱暴で、失礼で。


 けれど、神ではなくセレスティアとして呼ぶ言葉。


 ゴルドの看板も、家族の心配も、食事の包みも、すべて自分を地上へ結びつけるものだった。


「忘れません」


 セレスティアは言った。


「必ず戻ります」


 白樹の精霊王が、泉の上に立った。


「準備はよいか」


「はい」


「神域は、優しい場所ではない」


「承知しています」


「神域では、力を得るだけでは足りぬ」


「はい」


「力を使わないための修行をする」


「はい」


「見えても動かぬ」


「はい」


「斬れても斬らぬ」


「はい」


「救えても、すぐ救わぬ」


「はい」


「世界を信じる」


「はい」


 精霊王は、泉の水面に手をかざした。


 水面が白く光る。


 その光は、次第に深くなる。


 白から銀へ。


 銀から虹へ。


 虹から、言葉にできない透明な輝きへ。


 泉の奥に、階段が現れた。


 水でできた階段ではない。


 理でできた階段。


 地上から神域へ続く道。


 精霊王は言った。


「この道を進めば、神域へ入る」


「はい」


「神域での一年は、地上の一年と同じではない」


 セレスティアは顔を上げた。


「違うのですか」


「感覚としては長い」


「どれほど」


「お前次第だ」


「わたくし次第」


「神域は、神格の深さに応じて時間の重みを変える」


「はい」


「一年で十年分の修行を得る者もいる」


「はい」


「一年で百年分の孤独を味わう者もいる」


 ミレーヌが不安そうにセレスティアを見る。


 精霊王は続けた。


「だから、錨を忘れるな」


「はい」


「食事をせよ」


「はい」


「神剣と語れ」


「はい」


「定期的に報告を送れ」


「はい」


「そして、修行を言い訳に孤独へ沈むな」


 セレスティアは、深く頷いた。


「承知しました」


 白樹の精霊王は、三振りの神剣を見た。


「黒星」


『何か』


「主が力に酔えば、重くなれ」


『承知』


「閃白」


『はい』


「主が怒りで斬ろうとすれば、沈黙せよ」


『承知しました』


「解白」


『何か』


「主が自らを縛る責任を見つけたなら、解け」


『承知』


 精霊王は、最後にセレスティアを見た。


「行け」


「はい」


 セレスティアは、王へ一礼した。


 王妃へ一礼した。


 ルシェルへ。


 ミレーヌへ。


 そして、白樹の森へ。


「行ってまいります」


 ミレーヌが涙をこらえて言った。


「行ってらっしゃいませ」


 王妃は微笑んだ。


「食事を忘れずに」


 ルシェルは言った。


「報告を忘れずに」


 王は言った。


「帰ることを忘れるな」


 セレスティアは、静かに笑った。


「はい」


 そして、白樹の泉へ足を踏み入れた。


 水音はしなかった。


 足元の水面は揺れず、ただ光だけが広がる。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 泉の階段を降りるのではなく、上るような感覚だった。


 地上から離れる。


 森の匂いが遠ざかる。


 葉擦れが薄れる。


 家族の気配が遠のく。


 だが、完全には消えない。


 背の黒星がある。


 左腰の閃白がある。


 背中の解白がある。


 手には食事の包みがある。


 心には、ゴルドの看板がある。


 世界を信じる修行中。


 その言葉を思い出し、セレスティアは少しだけ笑った。


 次の瞬間、視界が開けた。


 そこは、空の上でも、地の底でもなかった。


 神域。


 白い大地が広がっている。


 空には太陽も月もない。


 だが、明るい。


 地面には草も石もない。


 だが、足場はある。


 遠くには、巨大な剣のような山が立っていた。


 山であり、剣であり、神格の柱でもある。


 その周囲には、無数の光の線が走っている。


 世界の理。


 地上の時間。


 死者の名。


 封印の楔。


 邪神の黒い理。


 それらが、遠くに見える。


 セレスティアは、思わず神眼を開きかけた。


 黒星が、ずしりと重くなった。


『主』


 閃白が澄んだ声で言う。


『最初から開きすぎない』


 解白が続ける。


『情報過多。封じ推奨』


 セレスティアは、目を閉じた。


「分かっています」


 ゆっくり呼吸する。


 神眼を第一層へ戻す。


 見えるものを制限する。


 見えるからといって、見る必要はない。


 神域での最初の修行は、すでに始まっていた。


 白樹の精霊王の声が響いた。


「神域第一層」


 セレスティアは周囲を見た。


「第一層」


「ここでは、神眼制御を行う」


「はい」


「お前は、見えすぎる」


「はい」


「見えすぎる者は、動きすぎる」


「はい」


「動きすぎる者は、世界を奪う」


「はい」


 精霊王の声は、近くにいるようで遠い。


 ここには、精霊王本体がいるわけではない。


 神域に置かれた導きの声。


 修行のための標。


「まず、封印地を見るな」


 セレスティアは、わずかに眉を動かした。


「封印地を、ですか」


「そうだ」


「邪神本体の封印地も?」


「見るな」


「各地の人柱封印も?」


「見るな」


「異常が起きても?」


「見るな」


 セレスティアは、拳を握った。


 黒星が低く言う。


『主。最初の修行だ』


 閃白が続く。


『見ないこと』


 解白が言う。


『視線の縛りを解くのではなく、結ぶ』


 セレスティアは苦笑した。


「難しいですわね」


 精霊王の声が響く。


「難しいから修行である」


「はい」


「神眼を開け」


 セレスティアは、虹色の神眼を開いた。


 第一層。


 魔力が見える。


 第二層。


 神格が見える。


 第三層。


 死者の残響が見える。


 第四層。


 封印の線が見える。


 その先。


 邪神の理が見えかける。


 セレスティアは、そこで止める。


 止める。


 止める。


 だが、神域は見せてくる。


 北方氷原の亀裂。


 南方砂漠の黒化。


 西海底の楔。


 東山脈の人柱。


 見えそうになる。


 助けに行きたくなる。


 閃白が、沈黙した。


 セレスティアは、はっとした。


 閃白が沈黙する時。


 それは、斬るべきではない時。


 動くべきではない時。


 黒星が重くなる。


 解白が淡く言う。


『主の視線が、地上へ結ばれすぎている』


「……はい」


『解くのではない。緩める』


「緩める」


『見えるものを、すべて自分の責任へ結ばない』


 セレスティアは、ゆっくり息を吐いた。


 見える。


 だが、自分の責任ではない。


 見える。


 だが、今すぐ自分が動くべきではない。


 見える。


 だが、世界の者たちが対応している。


 この世界は、この世界の者に任せる。


 神眼の層を閉じる。


 第四層を閉じる。


 第三層を閉じる。


 第二層を抑える。


 第一層だけを残す。


 視界が静まった。


 白い神域の大地だけが見える。


 セレスティアは、深く息を吐いた。


「今のが、神眼制御ですのね」


 黒星が低く言う。


『初歩だ』


 閃白がようやく声を戻した。


『主は、すぐ見すぎます』


 解白が言う。


『改善余地大』


「初日から厳しいですわ」


 精霊王の声が響いた。


「一日目は、これを千回行う」


 セレスティアは、少しだけ固まった。


「千回?」


「そうだ」


「神域の一日で?」


「そうだ」


 黒星が言う。


『必要』


 閃白も言う。


『当然です』


 解白も言う。


『反復が封じを安定させる』


 セレスティアは、空を見上げた。


「これが一年、あるいは数年続くのですわね」


 黒星が低く鳴る。


『主よ』


「何です」


『逃げるな』


 閃白が続く。


『自分で決めた修行です』


 解白も言う。


『世界を信じるため』


 セレスティアは、小さく笑った。


「分かっています」


 神域に来た。


 最初の修行は、斬ることではなかった。


 見ることでもなかった。


 見ないこと。


 動かないこと。


 自分の責任へ結びつけないこと。


 それは、剣を振るうよりも難しい修行だった。


 セレスティアは、神眼を再び開いた。


 見える。


 閉じる。


 見える。


 閉じる。


 見える。


 背負わない。


 見える。


 任せる。


 見える。


 信じる。


 その頃、地上では。


 白樹の泉の光が静かに閉じた。


 セレスティアの姿は、もうない。


 ミレーヌは、泉を見つめたまま小さく言った。


「行ってしまいました」


 王妃が、そっと肩に手を置く。


「ええ」


「寂しいです」


「私もです」


 ルシェルは、記録板に書いた。


 剣神セレスティア、神域修行開始。


 目的。


 地上への過干渉防止。


 神眼制御。


 神剣同調。


 最低限介入の判断修練。


 世界を信じる修行。


 期間。


 まず一年。


 状況により数年。


 定期報告を待つ。


 王は、泉を見て静かに言った。


「我らも動くぞ」


「はい」


「セレスティアが神域で修行している間に、世界は自ら立たねばならない」


「はい」


「白樹の森は、封印記録の照合をさらに進める」


「はい」


「各地の名の回復を支援する」


「はい」


「第一回連合準備会議を開く」


「はい」


「そして、セレスティアに頼らない体制を作る」


 ミレーヌは、涙を拭いた。


「私も手伝います」


 王は頷く。


「頼む」


 白樹の森は、動き出した。


 グランガルドでも、ゴルドが炉の前に立っていた。


 セレスティアが神域へ入ったことは、精霊通信で届いている。


 弟子が尋ねた。


「親方、姫様は本当に数年戻らないのでしょうか」


「戻る」


「断言するのですか」


「戻ると言った」


「はい」


「なら戻る」


 ゴルドは、鉄を火へ入れた。


「その間に、わしらはわしらの仕事をする」


「はい」


「封印杭を打つ」


「はい」


「剣を打つ」


「はい」


「鎧を直す」


「はい」


「荷車の車軸も作る」


「はい」


「釘も打つ」


「はい」


「剣だけが戦争じゃねぇ」


「はい!」


 鍛冶場の前には、また看板が立った。


 剣神セレスティア、神域修行開始。


 世界を信じる修行中。


 その間、地上は地上の仕事をしろ。


 バカ姫が戻るまでに、世界は少しは自分で立て。


 町の者たちは、それを見た。


 笑う者もいた。


 頷く者もいた。


 すぐに仕事へ戻る者もいた。


 鍛冶場の炉は、強く燃えた。


 地上は地上で動く。


 神域では、セレスティアが神眼を開き、閉じていた。


 見える。


 閉じる。


 見える。


 閉じる。


 救えるかもしれない。


 だが、今は救わない。


 斬れるかもしれない。


 だが、今は斬らない。


 この世界は、この世界の者に任せる。


 自分は最後の刃。


 鞘の中で研がれる刃。


 セレスティアは、千回目の神眼制御を終えた。


 膝をついた。


 神格の身体は疲労しない。


 だが、心は重い。


 黒星が低く言った。


『主よ。食事だ』


 セレスティアは、思わず笑った。


「神域でも、やはり食事ですのね」


 閃白が澄んで言う。


『必要です』


 解白も続ける。


『地上への錨』


 セレスティアは、ゴルドの包みを開いた。


 干し肉を一つ取り出す。


 硬い。


 塩気が強い。


 白樹の森の料理とは違う。


 グランガルドの味だった。


 セレスティアは、それをゆっくり噛んだ。


 神域の白い大地で。


 神剣三振りに見守られながら。


 剣神セレスティアは、干し肉を噛んだ。


 それは修行の一部だった。


 神でありながら、地上の味を忘れないために。


 最後の刃でありながら、鞘へ戻る場所を忘れないために。


 そして、世界を信じるために。


 セレスティアの神域修行は、静かに始まった。

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