幕間 旧ヴァルセイン王国の記録庫
前世のセレスティアが生きていた王国。
かつて、ヴァルセイン王国と呼ばれた国。
剣聖セレスティアが公爵令嬢として生まれ、剣を取り、邪神戦争へ向かった国。
その王都にも、白樹の森からの通達は届いていた。
六十一年前の邪神戦争で死に、封印の楔となった者たちの名を探せ。
名を取り戻せ。
記録を回復せよ。
弔われぬ死者を、邪神に奪わせるな。
王宮の地下記録庫は、長く閉ざされていた。
六十一年前の戦争記録。
撤退記録。
戦没者名簿。
貴族家の断絶記録。
封印地への派遣記録。
そして、公爵家断絶に関する封印文書。
その多くは、誰も積極的に開こうとしなかった。
理由は単純だった。
痛すぎるからである。
邪神戦争末期。
王国は崩壊寸前だった。
国軍は何度も敗走し、貴族家の私兵も失われ、村も町も焼かれた。
名のある騎士も死んだ。
名のない兵も死んだ。
補給係も死んだ。
逃げ遅れた民も死んだ。
そして、剣聖セレスティアも死んだ。
その後。
公爵家は断絶した。
表向きには、邪神戦争による戦災。
そう記録されている。
だが、真実を知る者は少なかった。
公爵家の者たちは、剣聖セレスティアが生きていると信じて探しに行った。
そして、古戦場で見つけた。
死してなお立つ、剣聖セレスティアの肉体を。
邪神格に操られた眷属セレスティアを。
その結果、公爵家は滅ぼされた。
その事実は、長く伏せられていた。
英雄の名を守るため。
王国の混乱を避けるため。
遺族の尊厳を守るため。
そして、誰もそれ以上傷つかないようにするため。
だが、その沈黙こそが、邪神に利用される余地になっていた。
旧ヴァルセイン王国の現国王は、地下記録庫の扉の前に立っていた。
年老いた王だった。
六十一年前、彼はまだ幼い王子だった。
戦争の記憶は、断片的にしかない。
だが、火の匂い。
避難民の列。
泣く母。
血のついた鎧。
そして、名を伏せられた公爵家の葬列。
それだけは覚えていた。
宰相が隣に立つ。
「陛下。開けますか」
「開ける」
「中には、公爵家断絶の記録も含まれます」
「分かっている」
「剣聖セレスティア様に関する記録も」
「分かっている」
「国にとって、痛みのある記録です」
王は、静かに答えた。
「だからこそ、開ける」
宰相は頭を下げた。
「御意」
重い扉が開かれた。
地下記録庫には、古い紙と革と防腐薬の匂いが満ちていた。
棚には、戦時中の記録が分類されている。
しかし、整理は不完全だった。
急いで避難させられた記録。
火災から守るために地下へ移された書類。
戦後の混乱で封印された箱。
その中に、六十一年前の名が眠っている。
王は言った。
「全て開けよ」
記録官たちは、静かに動き始めた。
最初に開かれたのは、王国軍の正規戦没者名簿だった。
これは比較的整っていた。
騎士団。
魔術師団。
弓兵隊。
城塞守備隊。
竜騎兵補助隊。
名がある。
階級がある。
所属がある。
死亡推定日がある。
だが、それだけでは足りない。
宰相は言った。
「正規軍だけではありません」
「分かっている」
王は次の箱を指した。
「臨時徴用者名簿を」
記録官が、古い箱を開ける。
そこには、村ごとの臨時徴用記録があった。
荷馬車隊。
水運び。
傷病兵搬送。
野営地設営。
封印陣外周の土木補助。
退避路掘削。
馬の世話。
食糧配給。
武器修理補助。
若い記録官が、思わず呟いた。
「これも、戦争参加者なのですか」
老記録官が、厳しく答えた。
「そうだ」
「ですが、剣を持っていません」
「剣だけが戦争ではない」
老記録官は、一枚の紙を広げた。
「この者は、水を運んだ」
「はい」
「水がなければ、兵は死ぬ」
「はい」
「この者は、矢羽を整えた」
「はい」
「矢がなければ、弓兵は戦えぬ」
「はい」
「この者は、負傷者を背負った」
「はい」
「背負われた者が、後に封印陣を完成させたかもしれぬ」
若い記録官は、顔を引き締めた。
「記録します」
「よい」
次に開かれたのは、貴族家の私兵記録だった。
そこには、前世のセレスティアが属していた公爵家の名もあった。
ヴァルセイン公爵家。
剣聖セレスティアの生家。
その記録を前に、王はしばらく動かなかった。
宰相も声を出さない。
王は、ゆっくりと表紙に触れた。
「開けよ」
記録官が、丁寧に紐を解く。
中には、公爵家から戦場へ出た者たちの名があった。
公爵。
公爵夫人。
嫡男。
次男。
侍女長。
執事。
従騎士。
私兵隊長。
馬丁。
料理人。
治療術師。
護衛。
そして、セレスティア。
その名を見た瞬間、地下記録庫の空気が止まった。
剣聖セレスティア。
だが、その名の横には、称号は書かれていない。
当時の記録では、公爵令嬢セレスティア。
任務欄には、こうある。
後衛退避路防衛。
邪神主力進行遅滞。
最終確認、古戦場南端。
帰還記録なし。
王は、その文字を見つめた。
「帰還記録なし」
六十一年前。
それが、王国の記録だった。
だが、今は違う。
彼女は帰ってきた。
死者として。
名もなき森に眠った。
王は、静かに言った。
「この記録に追記せよ」
記録官が筆を構える。
「どのように」
「剣聖とは書くな」
記録官が目を見開く。
王は続けた。
「英雄とも書くな」
「はい」
「神格に関する詳細も不要」
「はい」
「ただし、事実は残す」
王は、ゆっくりと言った。
「六十一年後、邪神格より解放」
「はい」
「遺体は祀られず、崇められず、名もなき森に安置」
「はい」
「刻字、セレスティア、ここに眠る」
「はい」
記録官は、その通りに書いた。
王は、深く息を吐いた。
「ようやく、帰還記録が書けた」
宰相が、静かに頭を下げた。
「はい」
だが、公爵家の記録はそれだけでは終わらなかった。
公爵家に仕えた者たちの名が続いている。
セレスティアを探しに行った者たち。
彼女が生きていると信じて、古戦場へ向かった者たち。
そして、眷属セレスティアに斬られた者たち。
それらの記録は、ほとんど封印されていた。
表には出せなかった。
剣聖セレスティアの名誉のため。
公爵家の名誉のため。
王国の安定のため。
だが、それは同時に、彼らの死を曖昧にした。
王は、重く言った。
「この者たちも、取り戻す」
宰相が問う。
「死因も記録しますか」
王は目を閉じた。
しばらく沈黙した。
そして、答えた。
「記録する。ただし、公開は制限する」
「はい」
「眷属セレスティアにより死亡、と書くか」
記録官の手が止まる。
王は首を横に振った。
「違うな」
「では」
「邪神格に操られた剣聖セレスティアの肉体により死亡」
王の声は苦かった。
「そして、六十一年後、邪神格は切離し済み。死者としてのセレスティアは名もなき森に眠る」
「はい」
「責を死者セレスティアに帰すな。責は邪神格にある」
「はい」
老記録官は、深く頭を下げた。
「陛下、その記述ならば、公爵家の者たちも、セレスティア様も、再び歪められずに済みます」
「そうでなければならぬ」
王は言った。
「我々は、真実を隠しすぎた」
宰相は沈黙した。
王は続ける。
「隠した理由はあった。だが、邪神は沈黙の隙間へ入り込む」
「はい」
「これからは、記録する」
「はい」
「崇めるためではない」
「はい」
「断罪するためでもない」
「はい」
「邪神に奪わせないために」
「はい」
王国の記録官たちは、昼夜を分けて作業を進めた。
王国軍の名簿。
公爵家の私兵記録。
徴用者名簿。
避難民台帳。
孤児院記録。
墓地台帳。
聖堂の弔い記録。
鍛冶屋の納品帳。
薬師組合の治療記録。
街道関所の通行記録。
六十一年前の王国は傷だらけだった。
だが、記録は残っていた。
完全ではない。
燃えたものもある。
失われたものもある。
改竄された疑いのあるものもある。
それでも、探す。
王都の聖堂では、老司祭が古い弔い帳を開いていた。
若い司祭が言う。
「この欄、名がありません」
老司祭は答える。
「なら、名なしと書き写すな」
「では」
「場所を見ろ」
「西門外仮設墓地」
「日付は」
「六十一年前、霜月十八日」
「人数は」
「二十七」
「ならば、西門外仮設墓地に葬られた二十七名、と記せ」
「名がなくても」
「名がないことも、記録だ」
若い司祭は頷いた。
老司祭は続けた。
「そして、探し続ける」
「はい」
「名なしのまま終わらせるな」
王都の貧民街でも、聞き取りが始まった。
六十一年前の戦争を知る者は少ない。
だが、祖父母から聞いた話を覚えている者はいた。
「うちの婆さんが言ってたよ」
年老いた女が、調査官に話した。
「戦争の時、パン焼きの男が兵隊についていったって」
「名は分かりますか」
「さあね。みんな、パン屋のトムって呼んでた」
「姓は」
「知らないよ」
「どこのパン屋ですか」
「東市の角だ。もう店はないけどね」
調査官は、丁寧に書き留めた。
東市のパン焼き職人。
通称トム。
補給部隊同行の伝承あり。
姓不明。
要照合。
それは、まだ完全な名ではない。
だが、無ではない。
邪神に奪わせないための小さな杭だった。
王都の旧鍛冶街では、古い職人が錆びた箱を出した。
「六十一年前の納品札だ」
「残っていたのですか」
「捨てられるか」
箱の中には、折れた金具、焼けた札、納品番号の断片があった。
その中に、剣聖セレスティアの部隊へ納めた矢じりの記録もあった。
「これを作った者は」
「親父だ」
「名は」
「ベルン・オルデン」
「戦場へ?」
「ああ。最後は鍛冶場を畳んで、前線で修理係をしていた」
「帰還記録は」
「ない」
調査官は、深く頭を下げた。
「記録します」
職人は、しばらく黙った。
そして、掠れた声で言った。
「親父は、剣なんか持ってなかった」
「はい」
「でも、戦ったんだな」
「はい」
「そうか」
職人は、錆びた札を見つめた。
「ようやく、そう言えるのか」
王宮には、日々、報告が集まった。
王はそれを読んだ。
宰相も読んだ。
記録官たちも読み続けた。
その中には、前世のセレスティアに関わる記録も多かった。
セレスティアが救った部隊。
セレスティアへ補給を届けた者。
セレスティアの退路防衛により逃げ延びた者。
セレスティアを探しに行った者。
セレスティアの死を信じられず、古戦場へ向かった者。
その名が、一つずつ戻っていく。
だが、王は厳命した。
「剣聖セレスティアへの信仰にしてはならぬ」
「はい」
「これは、セレスティアを讃える調査ではない」
「はい」
「六十一年前に戦い、死に、支え、消えた者たちを取り戻す調査である」
「はい」
「セレスティアだけを中心にするな」
「はい」
「彼女もまた、その中の一人として記録せよ」
記録官たちは、その命に従った。
剣聖セレスティアは特別だった。
だが、特別にしすぎてはならない。
名を取り戻す作業は、英雄を増やすためではない。
死者を邪神から守るためのものだった。
その夜。
王は、地下記録庫で一人、古い封印文書を読んでいた。
公爵家断絶記録。
そこには、かつての王が書いた一文があった。
これ以上、剣聖セレスティアの名を傷つけてはならない。
ゆえに、公爵家断絶の真因を封じる。
王は、その文を見つめた。
当時の王の判断を、完全には責められない。
混乱を避ける必要があった。
人々の心を守る必要があった。
邪神戦争直後の王国に、真実を受け止める余力はなかった。
だが、六十一年が経った。
今は、真実を記録しなければならない。
王は、新しい追記を入れた。
六十一年前、剣聖セレスティアは戦場にて死亡。
その肉体は邪神格に利用され、公爵家探索隊を殺害。
責は邪神格にあり、死者セレスティアに帰さない。
六十一年後、剣神セレスティアにより邪神格は切離され、眷属の一柱は討伐。
前世セレスティアの遺体は、祀られず、崇められず、名もなき森に安置。
刻字。
セレスティア、ここに眠る。
王は、筆を置いた。
そして、深く頭を下げた。
誰に対してかは、分からなかった。
剣聖セレスティアへか。
公爵家の者たちへか。
六十一年前に名を失った者たちへか。
あるいは、真実を封じたまま死んだ先王へか。
ただ、頭を下げた。
翌日。
王国から白樹の森へ、第一報が送られた。
六十一年前の邪神戦争参加者調査、開始。
正規軍記録、照合中。
臨時徴用者名簿、開封。
公爵家関連封印文書、制限付きで記録回復。
剣聖セレスティア及び公爵家断絶記録、追記済み。
忘れられた補給係、修理係、避難路掘削者、仮設墓地埋葬者、調査中。
剣聖セレスティアへの過度な信仰化を避けるため、記録方針を次の通り定める。
称号ではなく、役目。
美談ではなく、事実。
崇拝ではなく、記録。
断罪ではなく、邪神からの保護。
以上。
白樹の森でその報告を受けたルシェルは、静かに頷いた。
「良い方針です」
セレスティアは、報告書を読んだ。
その手が、公爵家断絶記録の追記で止まった。
責は邪神格にあり、死者セレスティアに帰さない。
その一文を、何度も読んだ。
黒星が低く言う。
『主よ』
「はい」
『背負うな』
閃白が続く。
『これは、王国が取り戻すべき記録です』
「……はい」
セレスティアは、静かに息を吐いた。
前世の自分。
前世の家族。
公爵家に仕えた者たち。
六十一年前、真実の中で傷ついた者たち。
それを、今の王国が自分たちの手で取り戻そうとしている。
これは、自分が全てを背負うべきことではない。
この世界は、この世界の者に任せる。
王国の記録は、王国の者が取り戻す。
それでよい。
セレスティアは、報告書を閉じた。
「ルシェル」
「はい」
「王国へ返書を」
「内容は」
セレスティアは少し考えた。
そして言った。
「感謝します。ですが、剣聖セレスティアのためだけの調査にしないでください」
「はい」
「六十一年前に、その国で生き、戦い、支え、死んだ全ての者のために続けてください」
「はい」
「そして、死者を英雄にしすぎないでください」
「はい」
「ただ、名を呼んでください」
ルシェルは頷いた。
「そのまま書きます」
「お願いします」
王国へ返書が送られた。
数日後、王国の地下記録庫には、その返書の写しが掲げられた。
目立つ場所ではない。
記録官たちが見る場所である。
そこには、こう書かれていた。
死者を英雄にしすぎないでください。
ただ、名を呼んでください。
その言葉は、記録官たちの手を支えた。
王国中で、六十一年前の名を探す作業は続いた。
それは、剣を振る戦いではなかった。
魔法を放つ戦いでもなかった。
だが、邪神に対する確かな抵抗だった。
忘れられた犠牲を、邪神に渡さない。
この国で死んだ者は、この国の者が取り戻す。
前世のセレスティアがいた王国は、ようやく六十一年前の傷に向き合い始めた。
その傷は深い。
だが、目を逸らせば、邪神に奪われる。
だから、記録する。
だから、名を呼ぶ。
崇めず。
祀らず。
美談にせず。
ただ、その者がいたことを、この世界に取り戻すために。




