第40話 六十一年前の名を探せ
白樹の森から、世界各地へ通達が飛んだ。
邪神封印、限界まで十年。
第二次邪神戦争に備えよ。
剣神セレスティアは切り札であり、世界を支える柱ではない。
この世界は、この世界に生きる者の手で守らなくてはならない。
そして、もう一つ。
すべての国、すべての種族、すべての森と山と海へ、同じ命が下された。
六十一年前の邪神戦争で死に、封印の楔となった者たちの名を探せ。
名を取り戻せ。
記録を回復せよ。
弔われぬ死者を、邪神に奪わせるな。
白樹の古記録庫は、これまでにない忙しさに包まれていた。
白い根に囲まれた静かな空間。
古文書。
戦没者名簿。
封印陣記録。
王国軍の撤退記録。
精霊術師の手記。
三賢者の残した写し。
そのすべてが広げられている。
ルシェルは、机の前に座り、ほとんど瞬きもせず記録を照合していた。
だが、その隣にはセレスティアがいない。
代わりに、セレスティアは少し離れた席で、白樹の実を食べていた。
王妃が置いていったものである。
そして、その両側に黒星と閃白が立てかけられていた。
黒星が低く言う。
『主よ。今は読む量を制限されている』
セレスティアは、手元の資料をちらりと見た。
「分かっていますわ」
閃白が澄んだ声で言う。
『一刻につき、文書三束までです』
「三束は少なすぎません?」
『休養中です』
『主はすぐ十束読む』
「読みませんわ」
ルシェルが顔を上げずに言った。
「昨日、九束読みました」
「十束ではありません」
「反論の方向が違います」
ミレーヌが、追加の茶を持ってきた。
「お姉様、休憩です」
「今、休んでおります」
「資料を読みながら休むのは、休みではありません」
セレスティアは黙った。
黒星が鳴る。
『妥当』
閃白も続く。
『完全に妥当です』
「あなたたち、最近わたくしの味方ではありませんわね」
『主の味方だから止める』
『主のためです』
セレスティアは、小さくため息をついた。
だが、文句を言いながらも資料を閉じた。
前なら閉じなかった。
今なら閉じる。
それもまた、修行の続きだった。
休むこと。
任せること。
全部を背負わないこと。
それが、剣神となったセレスティアの新しい課題である。
ルシェルは、文書の束をまとめながら言った。
「六十一年前の記録は、想像以上に欠落しています」
「戦時中でしたものね」
「はい。特に終戦末期、封印地周辺の記録は混乱しています。名のある騎士や賢者は残っていますが、無名の兵、補給担当、村人、臨時術師、封印補助者の記録が薄い」
「邪神は、そこを突いているのですね」
「はい」
ルシェルは、別の紙を広げた。
「邪神が触れているのは、単なる死者ではありません。忘れられた犠牲です」
セレスティアは、静かに目を伏せた。
忘れられた犠牲。
それは、六十一年前の戦争の影だった。
剣聖セレスティア。
三賢者。
名のある英雄たちは記録に残った。
だが、その後ろにいた者たちはどうか。
矢を運んだ者。
水を運んだ者。
怪我人を背負った者。
封印陣の外周で命を削った者。
名前すら書かれず、人柱として封印に組み込まれた者。
彼らの痛みに、邪神が触れている。
お前たちは忘れられた。
お前たちの死には意味がない。
世界はお前たちを踏み台にした。
そう囁いている。
セレスティアは、拳を握りかけた。
その瞬間、黒星がわずかに重くなった。
『主』
閃白も静かに言う。
『怒りを芯に』
セレスティアは、ゆっくりと息を吐いた。
「分かっています」
怒りはある。
だが、怒りで走ってはならない。
名前を取り戻す作業は、自分一人でやるものではない。
世界がやるべきことだ。
「ルシェル」
「はい」
「白樹の森だけで調べきる必要はありません」
「はい」
「各地に依頼しましょう。王家、寺院、古い軍役記録、村の墓碑、家系記録、鍛冶場の納品帳、港の出入り台帳、竜騎兵の名簿、巡礼者の記録まで」
ルシェルは筆を走らせる。
「記録照合項目に追加します」
「名前が完全に分からなくてもよいのです」
「はい」
「誰かが、そこにいた。その事実を取り戻すことが重要です」
セレスティアは、少しだけ遠くを見る。
「邪神に、忘れられたまま奪わせないために」
白樹の森から、新たな通達が出された。
六十一年前の邪神戦争に関する全記録を洗い直せ。
戦没者名簿だけでなく、補給記録、避難民名簿、封印補助者、臨時徴用者、村の口伝、墓碑、家名簿、鍛冶場の納品記録まで確認せよ。
名が分からぬ者は、場所と役目を記せ。
誰が、どこで、何をして、何のために死んだのか。
可能な限り取り戻せ。
それは、単なる歴史調査ではない。
第二次邪神戦争における、最初の防衛線だった。
人間王国の王都では、古い地下文書庫が開かれた。
埃をかぶった帳簿が運び出される。
若い文官たちは、最初、戸惑った。
「六十一年前の補給記録まで調べるのですか」
老いた書記官が、静かに答えた。
「調べる」
「戦死者名簿ではなく?」
「それだけでは足りぬ」
老書記官は、古い革表紙の帳簿を開いた。
「ここに、六十一年前、北方へ向かった荷馬車隊の記録がある」
「荷馬車隊」
「剣も槍も持たぬ者たちだ。だが、彼らが食糧を運ばなければ、前線は三日で崩れていた」
「はい」
「この中の半数は戻っていない」
若い文官は息を呑んだ。
「名は」
「ある」
老書記官は、指で古い文字をなぞった。
「かすれているが、ある」
そして、静かに言った。
「取り戻すぞ」
ドワーフ諸侯の鉱山都市では、鍛冶場の納品帳が開かれた。
ゴルドも、自分の鍛冶場で古い記録を引っ張り出していた。
弟子たちが、山のような帳簿に目を白黒させる。
「親方、これ全部ですか」
「全部だ」
「六十一年前のですか」
「そうだ」
「剣の納品記録だけでなく、釘や鎖や鍬まで?」
「全部だ」
弟子の一人が首を傾げる。
「鍬も関係あるのですか」
ゴルドは、帳簿を机へ叩いた。
「避難路を掘った連中がいた」
「はい」
「封印柱の土台を固めた連中もいた」
「はい」
「剣だけが戦争じゃねぇ」
弟子たちは黙った。
ゴルドは、六十一年前の記録を開く。
そこには、若い頃の自分の字があった。
黒星。
閃白。
剣聖セレスティア用。
その記録の下に、小さな文字で、補助装備の納品記録が続いていた。
ミスリル小剣。
投げナイフ十五本。
携行修理具。
予備革帯。
ゴルドは、その字をしばらく見つめた。
そして、低く言った。
「六十一年か」
古参の職人が静かに立っている。
ゴルドは顔を上げた。
「泣く暇があったら、名簿を写せ」
「はい」
「六十一年前に誰へ何を渡したか。全部だ」
「はい」
「名がなけりゃ、役目を書く」
「はい」
「役目も分からなきゃ、場所を書く」
「はい」
「邪神に、無かったことにさせるな」
その日、グランガルドの鍛冶場の前に、新しい看板が立った。
六十一年前の名を探せ。
剣だけが戦争ではない。
釘一本、鍬一本、荷馬車一台にも誰かの役目がある。
邪神に忘れられた犠牲を奪わせるな。
バカ姫は全部自分で調べようとするな。
町の者たちは、最後の一行で少しだけ笑った。
だが、すぐに自分の家へ戻った。
古い家系記録を探すために。
祖父母から聞いた昔話を思い出すために。
六十一年前、誰が戦争に行き、誰が戻らなかったのかを調べるために。
竜の谷では、老竜たちが石壁に刻まれた名を読み直していた。
竜にとって六十一年は短い。
だが、若い竜にとっては歴史だった。
老竜が言った。
「この名を覚えているか」
若い竜が首を横に振る。
「知りません」
「なら、覚えよ」
「この者は竜ではないのですか」
「人間だ」
「なぜ竜の谷に」
「竜脈を守るために死んだ」
若い竜は、石壁の名を見つめた。
「人間が、竜脈を」
「そうだ」
「なぜ」
「世界を守るためだ」
老竜は、低く言った。
「世界は、竜だけのものではない」
海の民は、沈んだ祭壇を調べた。
水中に残る古い貝殻札。
そこには、海底楔を支えた者たちの名が刻まれていた。
読めなくなった名もある。
潮に削られ、半分失われた札もある。
それでも、海の巫女たちは一枚ずつ拾い上げた。
「全部、写しましょう」
「読めないものは?」
「読めないと記すのです」
「名が分からなくても?」
「分からないままにしないために」
山の隠れ里では、苔むした石碑が洗われた。
子どもたちが水を運び、大人たちが苔を落とす。
そこには、六十一年前に封印補助へ向かった里人の名が刻まれていた。
だが、半分以上は読めない。
村長は言った。
「読める者を探せ」
「古文字です」
「なら、古文字を読める者を呼べ」
「時間がかかります」
「十年ある」
村人たちは、はっとした。
十年。
短いと思っていた。
だが、何もしない理由にはならない。
十年ある。
なら、名を取り戻せる。
白樹の森には、次々に報告が届いた。
失われた名。
かすれた名。
役目だけが残る者。
場所だけが分かる者。
誰かの祖父。
誰かの姉。
誰かの師。
誰かの隣人。
かつて、ただの数字として扱われた戦没者たちが、少しずつ人の形を取り戻していく。
ルシェルは、それらを分類した。
ミレーヌは、花名録と照合した。
王妃は、弔いの形式が過度な信仰にならないよう調整した。
王は、各国へ追加協力を要請した。
セレスティアは、すぐに全部読みたがった。
そして、止められた。
「三束までです」
ルシェルが言った。
「今日は五束でも」
「三束です」
黒星が低く鳴る。
『主よ。世界が動いている』
閃白が続く。
『任せる訓練です』
「任せる訓練は、思ったより難しいですわ」
『必要』
『非常に』
セレスティアは、渋々三束だけ読んだ。
その中に、一つの記録があった。
六十一年前、補給陣地で邪神に操られた竜に襲われ、後に前世のセレスティアが邪竜を討った場所。
そこにいた補給係の名前だった。
ラウル・ペトラ。
水運び。
年齢十七。
臨時徴用。
帰還記録なし。
セレスティアは、その名を静かに読んだ。
ラウル・ペトラ。
水運び。
十七歳。
臨時徴用。
帰還記録なし。
たったそれだけ。
だが、邪神にとっては、奪えない名になった。
セレスティアは、筆を取った。
余白に書く。
補給陣地にて任務中に死亡した可能性。
邪竜発生地点と一致。
瘴気被害者名簿へ移す。
弔い対象。
ルシェルが、その記述を見て頷いた。
「姉上、よい記録です」
「よい、ですか」
「はい。英雄にしていません」
「……」
「役目を記し、場所を記し、死者として扱っています」
セレスティアは、小さく頷いた。
「崇めず、祀らず、しかし忘れない」
「はい」
「難しいですわね」
「難しいから、記録が必要です」
その夜。
白樹の泉に、精霊王が現れた。
泉の水面には、世界各地から集まった名が淡い光となって浮かんでいる。
完全な名。
欠けた名。
役目だけ。
場所だけ。
それでも、光は確かに増えていた。
精霊王は言った。
「よい流れだ」
セレスティアは頭を下げる。
「邪神の支配は弱まりますか」
「すぐには弱まらぬ」
「はい」
「だが、楔となった者たちが、邪神の声だけを聞く状態ではなくなる」
「それが大切なのですね」
「そうだ」
精霊王は、水面を見た。
「忘れられた者は、邪神の声を真実と思いやすい」
「はい」
「だが、名を呼ばれた者は、邪神以外にも自分を覚える声があると知る」
「はい」
「それだけで、支配は遅れる」
「封印崩壊までの猶予が伸びますか」
「十年を超えるほどではない」
「そうですか」
「だが、十年を有効に使える」
セレスティアは、泉の水面に浮かぶ名を見た。
六十一年前の死者たち。
剣を持たなかった者。
魔法を使えなかった者。
それでも世界を支えた者。
「わたくしは、何をすべきでしょう」
「何もしないことだ」
セレスティアは顔を上げた。
精霊王は続ける。
「少なくとも、今この作業については」
「はい」
「お前が全ての名を見つけるな」
「はい」
「お前が全てを弔うな」
「はい」
「各地の者たちに任せよ」
「はい」
「死者は、その地の生者に呼ばれるべきだ」
セレスティアは、その言葉に胸を打たれた。
死者は、その地の生者に呼ばれるべき。
それは正しい。
剣神が一括して弔うのではない。
その土地で生きる者が、そこにいた死者を思い出す。
それこそが、邪神への抵抗になる。
「分かりました」
セレスティアは言った。
「わたくしは、見守ります」
黒星が低く言う。
『よい』
閃白が続く。
『成長です』
「閃白、少し上からではありません?」
『神剣ですので』
「便利な言葉ですわね」
精霊王が、わずかに笑った気がした。
その時、泉の水面が黒く揺れた。
北方氷原。
そこに、小さな亀裂が見えた。
セレスティアの虹色の瞳が、反射的に開きかける。
黒星が重くなる。
『主』
閃白が沈黙する。
セレスティアは、目を閉じた。
呼吸を整える。
「見ません」
精霊王は、静かに頷いた。
「よい」
「北方氷原は」
「氷樹の森と北方の者たちが対応している」
「はい」
「お前が行く段階ではない」
「はい」
拳を握る。
動きたい。
斬りたい。
祓いたい。
だが、今は違う。
この世界は、この世界の者の手で守る。
セレスティアは、最後の刃。
今は鞘に収まる時。
セレスティアは、ゆっくりと拳を開いた。
「任せます」
その一言は、小さかった。
だが、精霊王は深く頷いた。
「それが、今日のお前の戦いだ」
白樹の森に、静かな風が吹いた。
世界各地では、名を探す者たちが夜を越えていた。
帳簿を読む者。
石碑を洗う者。
沈んだ札を拾う者。
古老の話を聞く者。
鍛冶場の納品記録を写す者。
その一つ一つが、邪神への抵抗だった。
剣を振らない戦い。
名を取り戻す戦い。
忘却と戦う戦い。
第二次邪神戦争は、すでに始まっていた。
ただし、それは剣と炎の戦いではない。
最初の戦場は、記録の中だった。
セレスティアは、白樹の泉の前で静かに立っていた。
足元に影はない。
だが、水面には、無数の名が光っている。
剣神は、それをただ見守る。
今は、それでよかった。
この世界は、この世界の者に任せる。
その言葉を、胸に刻みながら。




