第37話 神々の会議
セレスティアが白樹の森で眠っている頃。
世界の理の境界で、神々が集まっていた。
そこは、地上ではない。
天でもない。
精霊界でもない。
世界の内側と外側の狭間。
理が形を持つ場所。
時間が流れず、けれど全ての時間を見下ろせる場所。
星の海のようであり、根の迷宮のようでもあり、静かな神殿のようでもあった。
そこに、十の精霊王がいた。
白樹の精霊王。
赤樹の精霊王。
黒樹の精霊王。
青樹の精霊王。
金樹の精霊王。
灰樹の精霊王。
氷樹の精霊王。
風樹の精霊王。
眠樹の精霊王。
影樹の精霊王。
さらに、各種族の神々がいた。
竜の神。
山の神。
火炉の神。
海の神。
獣の神。
夜の神。
名を持たぬ小さな土地神たち。
古い王国の守護神。
消えかけた村神。
そして、死者を見守る神々。
その多くは、地上へ直接干渉しない。
できないのではない。
してはならないのだ。
神々は、世界の理の境界にいる。
見守るべき立場。
世界に生きる者たちの選択を奪わないため。
人の営みを神の都合で捻じ曲げないため。
種族の興亡を、一柱の神の愛着で決めないため。
神々は見守る。
祝福は与える。
啓示は下す。
夢に言葉を置くこともある。
だが、地上へ直接手を伸ばすことは、基本的に禁じられていた。
それが、世界の均衡だった。
白樹の精霊王が、中央に立つ。
その前には、世界の地図が浮かんでいた。
北方氷原。
南方砂漠。
西海。
東山脈。
灰樹外縁。
風樹古谷。
眠樹の境。
影樹の地下。
赤樹の火山帯。
黒樹の深層。
そして、邪神本体の封印地。
黒い線が、そこから世界各地へ伸びている。
人柱となった者たちの魂の残滓。
邪神戦争で死に、封印の楔となった者たち。
その痛みへ、邪神の理が触れている。
白樹の精霊王は言った。
「邪神封印の限界は十年」
その言葉に、神々の間で静かな波が起きた。
竜の神が、低く唸る。
「十年か」
その声は、山脈を揺らすような重さを持っていた。
「竜にとっては瞬きに近い。だが、地上の国々にとっては短くない」
火炉の神が言った。
その姿は、炎を宿した槌を持つ老鍛冶師のようだった。
「十年あれば剣は打てる。鎧も作れる。封印杭も用意できる。だが、世界全てに行き渡らせるには足りぬ」
海の神が、波の衣を揺らす。
「海底楔も弱まっている。海の民だけでは支えきれぬ」
死者を見守る神が、静かに言った。
「問題は封印そのものだけではない。忘れられた死者の名が、邪神に奪われている」
白樹の精霊王は頷く。
「邪神は、忘却された犠牲へ触れている」
灰樹の精霊王が杖を鳴らした。
「死者を役目に縛るのは危うい。だが、忘れられたままでは邪神に奪われる」
眠樹の精霊王が、夢の霞の中で囁く。
「眠れぬ死者は、夢に落ちぬ。夢に落ちぬ死者は、声に誘われやすい」
影樹の精霊王が、薄く笑った。
「邪神は影を使う。名のない影ほど、扱いやすい」
神々は沈黙した。
六十一年前、邪神戦争の末期。
三賢者は命を代価に邪神本体を封じた。
それだけではない。
各地で多くの者が封印の楔となった。
騎士。
術師。
精霊術師。
竜脈師。
巫女。
兵士。
名もなき民。
彼らの犠牲の上に、六十一年の猶予があった。
だが、その猶予は今、限界へ向かっている。
白樹の精霊王は、次に別の像を示した。
影なきエンシェントエルフ。
虹色の神眼。
背に黒星。
左腰に閃白。
剣神セレスティア。
神剣黒星。
神剣閃白。
神々の視線が、そこへ集まった。
白樹の精霊王は言った。
「剣神セレスティアは、現世神である」
火炉の神が目を細めた。
「地上に肉体を持つ神か」
「そうだ」
「影はない」
「ない」
「しかし、地上に立っている」
「立っている」
「食事もする」
「する」
「酒も飲むか」
白樹の精霊王は少し沈黙した。
「飲む」
赤樹の精霊王が笑った。
「そこは重要ではないだろう」
白樹の精霊王は真面目に答えた。
「意外と重要である。地上へ繋がる錨の一つだ」
火炉の神が、ふっと笑った。
「なら、あのドワーフの鍛冶師も錨か」
「そうだ」
白樹の精霊王は頷く。
「ゴルド・ガルガンド。黒星と閃白を打った者。剣神セレスティアを神ではなく、セレスティアとして扱う者」
影樹の精霊王が言った。
「バカ姫、と呼ぶ者」
神々の一部が、わずかにざわめいた。
神をバカ姫と呼ぶ鍛冶師。
それは不敬にも思える。
だが、同時に、異常なほど強い錨でもあった。
白樹の精霊王は続ける。
「剣神セレスティアは、世界の理の境界にいる我らとは異なる」
「地上へ干渉できる」
竜の神が言った。
「そうだ」
「現世神であるから」
「そうだ」
海の神が水面のような声で問う。
「それは、神側の切り札ということか」
「そうなる」
白樹の精霊王は答えた。
「我らは見守る立場。直接地上を動かすことは、世界の均衡を崩す」
「だが、セレスティアは違う」
「違う。あの者は地上に生きる者でもある」
「神でありながら、生者か」
「そうだ」
金樹の精霊王が言う。
「だから危うい」
その一言で、会議の空気が変わった。
金樹の精霊王は続ける。
「現世神は、地上へ干渉できる。だからこそ、神々の力を集めれば、地上の均衡を大きく崩す可能性がある」
氷樹の精霊王が頷く。
「セレスティア一柱へ力を集めすぎれば、世界が剣神へ依存する」
夜の神が、静かに言った。
「そして、剣神が倒れた時、世界は立てなくなる」
風樹の精霊王の声が流れる。
「あるいは、剣神自身が世界を動かしすぎる」
死者を見守る神が言った。
「死者を送る力が強すぎれば、生者が死を神へ預けるようになる」
山の神が重く言う。
「守護が強すぎれば、王たちは自ら守ることを忘れる」
火炉の神が言った。
「神剣が強すぎれば、鍛冶師たちは自分の剣を軽く見る」
竜の神が低く唸る。
「竜たちも同じだ。剣神がいればよいと考えれば、戦う牙は鈍る」
神々の視線が、白樹の精霊王へ戻る。
白樹の精霊王は、否定しなかった。
「ゆえに、会議を開いた」
赤樹の精霊王が腕を組む。
「問いは一つだな」
「そうだ」
「剣神セレスティアに、我らはどこまで力を貸すか」
黒樹の精霊王が影の中から言った。
「貸さなければ、邪神に届かぬ可能性がある」
青樹の精霊王が湖面を揺らす。
「貸しすぎれば、世界の流れを歪める」
灰樹の精霊王が言う。
「死者の終わりを、剣神一柱に背負わせすぎるのも危うい」
眠樹の精霊王が囁く。
「眠らせるべき者が、眠れなくなる」
白樹の精霊王は、泉のような光の中で言った。
「まず、原則を確認する」
神々が静まる。
「我らは地上の選択を奪わない」
誰も異議を唱えなかった。
「我らは、地上の者に代わって戦争をしない」
沈黙。
「我らは、特定の国、種族、王家を勝たせるために力を使わない」
静かな同意。
「我らは、邪神という世界外の理による侵食を止めるためにのみ、均衡を補正する」
そこで、火炉の神が言った。
「均衡を補正する、か。介入ではなく」
「そうだ」
白樹の精霊王は頷いた。
「邪神は世界の外の理。世界の内側の神々が何もしなければ、それもまた均衡を欠く」
海の神が言う。
「外からの侵食には、境界の神々も動ける」
「ただし、地上の手を通して」
「そうだ」
竜の神が、セレスティアの像を見た。
「その地上の手が、剣神セレスティアか」
「その一つである」
白樹の精霊王は、強く言った。
「一つである」
その言葉に、金樹の精霊王が頷いた。
「重要だ。切り札であって、唯一の手段ではない」
「そうだ」
「世界に生きる者すべてが備える」
「そうだ」
「セレスティアだけが戦うのではない」
「そうだ」
白樹の精霊王は、世界地図を示した。
「各地の封印補強は、各地の者たちが行う」
「はい」
「死者の名を取り戻すのは、生者たちが行う」
「はい」
「武器を打つのは、鍛冶師たち」
「はい」
「結界を張るのは、術師たち」
「はい」
「戦線を築くのは、王たちと民」
「はい」
「竜は竜として、海の民は海の民として、森は森として、山は山として備える」
「はい」
「剣神セレスティアは、その中心に立つのではない」
神々は、少しだけ意外そうに白樹の精霊王を見た。
白樹の精霊王は言った。
「中心に置けば、世界は剣神に寄りすぎる」
影樹の精霊王が、愉快そうに言った。
「では、何にする」
「刃だ」
白樹の精霊王は答えた。
「世界が自ら立ち、備え、封印を補強し、死者の名を取り戻し、第二次邪神戦争に臨む。その上で、邪神本体の理へ届く刃として、剣神セレスティアが立つ」
火炉の神が頷いた。
「剣は、手があって初めて意味を持つ」
「そうだ」
「手は世界か」
「そうだ」
「なら、セレスティアを神々の代行者にしてはならぬ」
「してはならぬ」
死者を見守る神が言った。
「葬送の権能については」
白樹の精霊王は、その神を見る。
「死者を全てセレスティアに送らせることはしない」
「当然だ」
「各地の死者は、各地で弔う」
「よい」
「ただし、邪神に縛られた死者、不死の軍勢、魂の座を穢された者については、剣神セレスティアの神格が必要になる場面がある」
「その場合のみか」
「その場合のみ」
灰樹の精霊王が頷く。
「死者を送る役目を、剣神一柱へ集中させない。それならばよい」
夜の神が問う。
「神々の力を、セレスティアへ直接与えることは」
白樹の精霊王は首を横に振った。
「禁ずるべきだ」
赤樹の精霊王が眉を上げる。
「全面禁止か」
「直接、神格を増幅する祝福は禁ずる」
氷樹の精霊王が言った。
「理由は」
「剣神セレスティアは、すでに現世神である。そこへ各神が直接力を注げば、地上にいる一柱が過剰な神格を帯びる」
「均衡が崩れるか」
「崩れる」
白樹の精霊王は、セレスティアの像を見た。
「そして、セレスティア自身も耐えがたくなる」
眠樹の精霊王が静かに言う。
「耐えがたい時間を得たばかりの神に、さらに神々の重みを載せるのは酷だ」
「そうだ」
風樹の精霊王が問う。
「では、何を貸す」
「道だ」
白樹の精霊王は答えた。
「道?」
「力ではなく、道を貸す」
白樹の精霊王は、世界地図に線を引いた。
「封印地へ至る道」
「はい」
「神眼で見るべきものを見失わぬための目印」
「はい」
「邪神の理に呑まれぬための境界標」
「はい」
「神剣が邪神本体へ届く一瞬を作るための、世界側からの支え」
「はい」
「これらは、地上の選択を奪わない」
金樹の精霊王が頷いた。
「選ぶのはセレスティア。支えるのは世界。道を示すのは神々」
「そうだ」
竜の神が言った。
「竜は何を貸せる」
「竜脈の道を」
白樹の精霊王は答えた。
「邪神本体の封印地へ近づく時、竜脈の乱れが最大の障害となる。竜たちには、地上で竜脈を整えてもらう」
「神としてではなく、竜族を通じてか」
「そうだ」
火炉の神が問う。
「火炉は」
「鍛冶師たちへ、折れぬ心と火の安定を」
「剣を直接神具に変えるのではなく」
「そうだ。打つのは鍛冶師だ」
火炉の神は満足そうに笑った。
「ならばよい」
海の神が言う。
「海は」
「海底封印の補強。海の民への警告。船団の避難路」
「任せよう」
死者を見守る神が問う。
「死者の神々は」
「忘れられた名を、生者が見つけられるよう、夢に断片を落とす」
「直接告げるのではなく」
「直接告げれば、啓示となり、信仰の強制になる」
「ならば、夢の断片か」
「そうだ。探すのは生者だ」
影樹の精霊王が笑う。
「我らは相変わらず回りくどい」
白樹の精霊王は答えた。
「回りくどさが、均衡を守る」
黒樹の精霊王が頷く。
「直接救う神は、いずれ支配する神になる」
その言葉に、神々は沈黙した。
見守る立場とは、何もしないことではない。
だが、何でもすることでもない。
その境界が、難しい。
邪神は世界の外から理を侵食する。
ならば、神々も動かねばならない。
しかし、動きすぎれば、世界の均衡は崩れる。
その線を見極めるための会議だった。
白樹の精霊王は、次に神剣黒星と閃白の像を示した。
黒星。
神剣。
神の持つべき剣。
不壊。
鋭刃。
破邪。
聖剣。
永続斬撃。
重量自在。
重く砕く神剣。
閃白。
神剣。
神の持つべき剣。
不壊。
鋭刃。
破邪。
聖剣。
永続斬撃。
清く祓う神剣。
火炉の神が、しばらく二振りを見ていた。
「よい剣だ」
その一言には、神としてではなく、鍛冶に関わる神としての本音があった。
「ゴルド・ガルガンドは、地上の鍛冶師として、よくここまで打った」
白樹の精霊王は頷く。
「二振りはすでに言葉を持った」
火炉の神が笑う。
「そうか。喋り出したか」
「黒星は重く、閃白は澄んでいる」
「いい」
「ただし」
白樹の精霊王は言った。
「神剣にも、神々が直接力を注いではならぬ」
火炉の神は腕を組む。
「鍛えたいがな」
「禁ずる」
「分かっている」
火炉の神は笑った。
「神が直接鍛えれば、ゴルドの剣ではなくなる」
「そうだ」
「神剣は、地上の鍛冶師が打ち、剣神が使うから意味がある」
「その通りだ」
白樹の精霊王は、会議全体へ向けて言った。
「結論をまとめる」
神々が静まる。
「一つ。剣神セレスティアは、神側の切り札である」
沈黙。
「一つ。だが、神々の代行者ではない」
同意の気配。
「一つ。神々は、セレスティアへ直接神格を注がない」
火炉の神が頷く。
「一つ。神々は、地上の種族、国、森、山、海が自ら備えるための道と兆しを与える」
海の神が頷く。
「一つ。死者の名を取り戻すため、夢と記録の断片を生者へ渡す。ただし、探すのは生者である」
死者を見守る神が頷く。
「一つ。封印地への道、邪神の理に対する境界標、神眼が迷わぬための印を用意する」
十の精霊王が頷く。
「一つ。第二次邪神戦争は、世界に生きる者すべての戦いである」
竜の神が低く言った。
「よい」
山の神も頷く。
「よい」
火炉の神が槌を鳴らす。
「よい」
海の神が波を揺らす。
「よい」
死者を見守る神が目を伏せる。
「よい」
白樹の精霊王は、最後にセレスティアの像を見た。
白樹の森で眠る剣神。
足元に影はない。
だが、寝台の横には黒星と閃白が立っている。
二振りは、彼女の眠りを守っている。
神剣として。
神の持つべき剣として。
白樹の精霊王は、静かに言った。
「セレスティアには、まだ伝えるな」
赤樹の精霊王が問う。
「三日休ませる約束か」
「そうだ」
「神々の会議まで隠すのか」
「今は不要だ」
眠樹の精霊王が頷く。
「眠りを妨げぬ方がよい」
白樹の精霊王は言った。
「三日後、伝える」
「その時、セレスティアはどうする」
影樹の精霊王が問う。
白樹の精霊王は少しだけ沈黙した。
「おそらく、すぐに動こうとする」
赤樹の精霊王が笑った。
「間違いない」
黒樹の精霊王が言う。
「黒星が重くなるな」
青樹の精霊王が穏やかに言う。
「閃白も止めるだろう」
火炉の神が笑った。
「あのドワーフも怒鳴る」
白樹の精霊王は頷いた。
「だから、大丈夫だ」
神々の会議に、わずかな笑いが広がった。
重い議題。
十年後に迫る第二次邪神戦争。
邪神本体の封印限界。
人柱の汚染。
世界の均衡。
現世神である剣神セレスティアの扱い。
その全てが重かった。
だが、セレスティアには錨がある。
家族。
白樹の森。
グランガルド。
ゴルド。
黒星。
閃白。
そして、眠る前世のセレスティア。
白樹の精霊王は、最後に告げた。
「では、各自、地上へ兆しを送れ」
神々が一柱ずつ光となって散っていく。
夢へ。
風へ。
波へ。
火へ。
土へ。
記録の余白へ。
古い石碑の欠けた文字へ。
忘れられた墓の苔へ。
失われた名を取り戻すために。
世界が自ら立つために。
剣神セレスティアへ全てを背負わせないために。
会議が終わった。
白樹の精霊王だけが、しばらく残った。
境界の彼方から、白樹の森で眠るセレスティアを見た。
セレスティアは眠っている。
神格を得ても。
神剣を得ても。
今は眠っている。
白樹の精霊王は、小さく言った。
「眠れ、セレスティア」
その声は、地上には届かない。
だが、黒星と閃白がわずかに反応した。
黒星が低く鳴る。
『主は眠っている』
閃白が澄んで答える。
『今は、それでよい』
白樹の精霊王は頷いた。
「そうだ」
世界は動き始めている。
神々も動き始めている。
だが、剣神セレスティアは、今だけは眠る。
現世神。
神側の切り札。
世界に干渉できる唯一の刃。
だからこそ、今は眠らせる。
切り札を、壊さないために。
そして、セレスティアをセレスティアのまま戦わせるために。




