第36話 十年の猶予
黒星と閃白が神剣へ至った翌日。
セレスティアは、白樹の森へ帰ることになった。
ゴルドは、鍛冶場の前で腕を組んでいた。
いつもの不機嫌そうな顔。
いつもの鋭い目。
いつもの看板。
だが、今日は少しだけ、言葉が少なかった。
「帰るのか」
「はい」
「休め」
「はい」
「本当に休め」
「はい」
「神剣になったからといって、封印地へ飛ぶな」
「飛びません」
「神眼で封印地を覗きすぎるな」
「控えます」
「酒は」
「白樹の森では飲みません」
「では、とは何だ」
「言葉の綾ですわ」
黒星が背で低く鳴った。
『主は少し怪しい』
閃白が澄んで続けた。
『酒に関しては警戒が必要です』
「あなたたちまで」
ゴルドは鼻を鳴らした。
「いい剣だ」
「親方側が増えすぎておりますわ」
「ちょうどいい」
セレスティアは、少しだけ笑った。
黒星と閃白が神剣となった。
神の持つべき剣。
不壊。
鋭刃。
破邪。
聖剣。
永続斬撃。
黒星にはさらに重量自在。
そして、二振りは言葉を持った。
神格を得たセレスティアを支え、止め、正す意思ある神剣。
その二振りを背と左腰に携え、セレスティアはグランガルドを発つ。
町の者たちは、道の両側に立っていた。
誰も大きく騒がない。
ただ、静かに頭を下げる。
眷属セレスティアを討ち。
前世の肉体を眠らせ。
黒星と閃白を神剣へ至らせた剣神。
だが、その足元には影がない。
虹色の神眼は、今は穏やかに閉じられている。
セレスティアは、町の者たちへ微笑んだ。
「少し、休んでまいりますわ」
門番が言った。
「姫さん、本当に休めよ」
「はい」
「前にも休むって言って、修行してなかったか」
「今回は本当に休みます」
黒星が鳴る。
『監視する』
閃白も言う。
『必要ならば眠りへ導きます』
「それは少し違いません?」
町の者たちが笑った。
その笑いを背に、セレスティアは白樹の森へ向かった。
白樹の森は、変わらず静かだった。
白い幹。
銀の葉。
淡い精霊光。
空気は清らかで、グランガルドの鉄と炭の匂いとはまるで違う。
それでも、セレスティアにはどちらも帰る場所だった。
森の入口には、王家の者たちが待っていた。
アルヴァレイン王。
王妃エルフィリア。
ルシェル。
ミレーヌ。
ミレーヌは、セレスティアを見るなり駆け出した。
「お姉様!」
セレスティアは、妹を受け止めた。
影のない身体。
神格を得た身体。
それでも、妹の温もりは分かった。
「ただいま戻りましたわ」
「お帰りなさいませ」
ミレーヌは強く抱きついた。
「ちゃんと休みに来たのですよね?」
「ええ」
「本当に?」
「本当です」
「修行ではなく?」
「休みです」
「封印地を見るのもなしです」
「少しだけなら」
「お姉様」
セレスティアは目を逸らした。
ルシェルが記録板を手に近づく。
「姉上。休養予定表を作成しました」
「休養予定表」
「はい」
「休みに予定表があるのですか」
「姉上は予定表がないと休みません」
黒星が低く鳴った。
『妥当』
閃白も続く。
『必要です』
「あなたたち、白樹の森でも容赦がありませんわね」
ルシェルは、神剣が喋ったことに一瞬目を輝かせた。
「今の発言、記録してよろしいですか」
「休ませる気がありますの?」
「あります。記録しながら休ませます」
「矛盾していますわ」
王妃が、柔らかく微笑んだ。
「セレスティア。まずは食事です」
「はい、お母様」
王が頷く。
「その後、眠りなさい」
「眠らずとも生きられますが」
「眠りなさい」
「はい」
ゴルドと同じだった。
神格を得ても。
影がなくても。
神剣を持っていても。
白樹の森では、娘として食事を取り、眠ることを命じられる。
そのことが、セレスティアにはありがたかった。
王宮の食卓には、温かな料理が並んでいた。
白樹の実を使った煮込み。
川魚。
豆のスープ。
柔らかな焼き肉。
そして、酒はなかった。
セレスティアは、食卓を見て少しだけ首を傾げた。
「お母様」
「ありません」
「まだ何も言っておりません」
「酒はありません」
「はい」
ミレーヌが笑った。
「ゴルド親方から通信が来ていました」
「何と」
ルシェルが読み上げる。
「セレスティアに酒を出すな。休ませろ。封印地を見るな。飯は食わせろ。以上」
「親方……」
王妃はにこりと微笑む。
「従います」
「お母様まで」
黒星が低く言う。
『よき判断』
閃白も言う。
『主には必要です』
「神剣の発言権が強すぎますわ」
食卓に笑いが広がった。
その笑いの中で、セレスティアは食事をした。
神格を得た身体は、食べなくても生きられる。
眠らなくても生きられる。
疲労もしない。
だが、食事の温かさは消えていなかった。
家族と同じ卓につく意味も、失われていなかった。
セレスティアは、ゆっくり噛んだ。
ゴルドに言われた通りに。
王妃に見守られながら。
食後、セレスティアは自室へ通された。
十年前と同じ部屋。
白い木の壁。
精霊光の灯り。
窓の外には銀の葉。
机の上には、ルシェルが整理した報告書が山のように置かれていた。
セレスティアは、それを見た。
「ルシェル?」
扉の外から声がした。
「読み始めたら没収します」
「なぜ置いたのですか」
「姉上が読むかどうかの試験です」
「試練は終えたはずですわ」
「休養試練です」
黒星が背で鳴る。
『主よ。寝台へ』
閃白が続く。
『報告書は逃げません』
セレスティアはため息をついた。
「神剣に寝台へ促される神とは」
『必要事項』
『休息も葬送の後には必要です』
セレスティアは、静かに笑った。
そして、寝台へ横になった。
眠る必要はない。
それでも、目を閉じる。
前世のセレスティアの安らかな顔。
名もなき森の石棺。
ゴルドの声。
火酒の熱。
黒星と閃白の言葉。
それらが、静かに胸へ沈んでいく。
セレスティアは、久しぶりに眠った。
神格を得た者の眠りは、人の眠りとは少し違う。
身体を休めるためではない。
心を静めるための眠りだった。
白樹の森は、穏やかだった。
だが、世界は穏やかではなかった。
同じ頃。
遠い北方の氷原で、古い封印柱が軋んだ。
そこは、邪神戦争末期に賢者団の一人が命を捧げて結界を張った場所だった。
邪神本体を封じる三賢者の封印。
その周囲には、いくつもの小封印があった。
封印地へ流れ込む瘴気を遮るため。
邪神の眷属を封じるため。
戦死した者たちの魂が邪神に利用されぬよう、命を楔にした者たちがいた。
人柱。
その言葉は残酷だった。
だが、当時の世界には、それしか手段がなかった。
騎士。
賢者。
精霊術師。
竜脈術師。
聖職者。
無名の兵士。
自らの命を封印に捧げた者たち。
彼らは、五十一年間、封印の内側で邪神の圧を受け続けていた。
だが、眷属セレスティアが討たれたことで、邪神本体は動いた。
封印の奥から、黒い理が伸びる。
それは、封印を直接破る力ではない。
もっと陰湿で、もっと深い。
人柱となった者たちの痛みへ触れる力だった。
お前たちは忘れられた。
お前たちは称えられない。
お前たちは死んでも終われない。
世界はお前たちの犠牲の上で笑っている。
声なき声が、封印の内側へ染み込む。
北方の氷原で、氷の下に眠っていた人柱の一人が、目を開いた。
肉体はない。
魂の残滓だけが封印の楔となっていた。
だが、その残滓に黒い光が絡む。
封印柱に、ひびが入った。
南方の砂漠でも、同じことが起きた。
砂に埋もれた古い塔。
そこには、邪神戦争末期、百人の術師が命を束ねて作った封印陣があった。
百人のうち、名が残っている者は三人だけ。
残りは記録にも残らなかった。
その無名の魂へ、邪神の声が届く。
お前たちは、何のために死んだ。
誰がお前たちを覚えている。
封印陣の砂が、黒く染まった。
西の海底でも。
東の山脈でも。
灰樹の森の外縁でも。
風樹の森の古い谷でも。
邪神戦争で死に、封印の一部となった者たちが、少しずつ邪神の支配を受け始めていた。
完全に堕ちたわけではない。
まだ、抗っている者もいる。
だが、封印は確実に弱まり始めていた。
その最初の報告は、白樹の森へ届いた。
セレスティアが眠ってから三日目。
ルシェルが古記録庫で封印柱の記録を整理していた時、精霊通信陣が赤黒く光った。
赤だけではない。
黒が混じっている。
災厄の兆し。
ルシェルは即座に立ち上がった。
「父上へ」
通信は次々に届いた。
北方氷原封印柱、異常。
南方砂漠封印陣、黒化反応。
西海底楔、魔力低下。
東山脈人柱封印、魂残滓汚染。
灰樹外縁、死者反応増加。
風樹古谷、結界線断裂。
ルシェルの顔から血の気が引いた。
王は、報告を聞いてすぐに白樹の泉へ向かった。
王妃も同行した。
ミレーヌは不安そうに姉の部屋を見たが、王妃が首を横に振った。
「まだ起こしません」
「でも」
「今は、まず状況を確認します」
白樹の泉では、精霊王がすでに現れていた。
その表情は静かだった。
だが、森の光がわずかに暗い。
王は膝をつく。
「精霊王」
「封印が弱まり始めた」
「邪神本体が動いたのですか」
「眷属の一柱を失ったことで、邪神は眠りを浅くした」
「では」
「すぐに封印が破れるわけではない」
王は息を詰めた。
精霊王は続ける。
「だが、猶予は定まった」
「猶予」
「十年」
その言葉が、泉の周囲に重く落ちた。
ルシェルが息を呑む。
「十年……」
「邪神本体の封印は、限界まで十年」
精霊王は言った。
「それまでに、世界は備えねばならぬ」
王は、静かに拳を握った。
「第二次邪神戦争」
「そうなる」
王妃が目を閉じた。
ミレーヌは、部屋の外でその言葉を聞き、震えた。
第二次邪神戦争。
六十一年前、世界を滅ぼしかけた邪神戦争。
その再来が、十年後に迫っている。
精霊王は続けた。
「今回の戦いは、六十一年前とは違う」
「何が違うのですか」
「六十一年前、世界は邪神の正体を知らなかった」
「はい」
「封印の方法も不完全だった」
「はい」
「剣神セレスティアもいなかった」
「はい」
「神剣黒星と神剣閃白もなかった」
「はい」
「だが、今回は備える時間がある」
王は顔を上げた。
「十年」
「そうだ」
「短い」
「だが、ある」
精霊王の声は、静かだが強かった。
「この世界で生きる者すべてが、備えねばならぬ」
ルシェルが尋ねた。
「すべて、ですか」
「人間」
「はい」
「エルフ」
「はい」
「ドワーフ」
「はい」
「竜」
「はい」
「精霊」
「はい」
「獣人も、海の民も、山の隠れ里も、名もなき村も、王国も、帝国も、森も、山も、海も」
精霊王は言った。
「邪神は、世界そのものを腐らせる」
「はい」
「ならば、世界に生きるすべてが備えねばならぬ」
王は立ち上がった。
「白樹の森は、ただちに各森へ連絡を取る」
「よい」
「人間王国にも」
「必要だ」
「ドワーフ諸侯にも」
「ゴルドへも伝えよ」
「はい」
「セレスティアは」
王は一瞬、言葉を止めた。
精霊王は答えた。
「今は眠らせよ」
「しかし」
「三日だ」
「三日」
「三日だけ、何も背負わせるな」
王妃が深く頷いた。
「そういたします」
「その後、伝えよ」
「はい」
精霊王は、泉の水面へ手をかざした。
水面に、世界の地図が浮かぶ。
北方氷原。
南方砂漠。
西海。
東山脈。
灰樹外縁。
風樹古谷。
眠樹の境。
影樹の地下。
赤樹の火山帯。
黒樹の深層。
そして、邪神本体の封印地。
そこから、黒い線が世界各地へ伸びている。
封印に使われた人柱。
死者の楔。
命を代価にした小封印。
それらへ邪神の支配が少しずつ届いている。
精霊王は言った。
「邪神は、忘れられた犠牲を使う」
ルシェルは目を伏せた。
「記録に残らなかった者たち」
「そうだ」
「名もなく、人柱になった者たち」
「そうだ」
「彼らの痛みへ触れている」
「そうだ」
王は静かに言った。
「ならば、最初にすべきは記録の回復か」
精霊王は頷いた。
「名を取り戻せ」
「はい」
「役目を押しつけるためではない」
「はい」
「忘れられたまま邪神に奪われぬように」
「はい」
「死者を記録し、弔い、封印を補強せよ」
ルシェルの目に光が宿った。
「古記録庫を開きます」
「開け」
「各国、各森、各地の戦死者記録を照合します」
「急げ」
「はい」
王は命じた。
「白樹の森は、第二次邪神戦争準備体制へ移行する」
その声は、王の声だった。
「第一に、封印地情報の収集」
「はい」
「第二に、人柱となった者たちの名と記録の回復」
「はい」
「第三に、各種族への通達」
「はい」
「第四に、第二次邪神戦争に備えた連合会議の開催」
「はい」
「第五に、セレスティアの休養」
ルシェルが少しだけ驚いた。
王は言った。
「最後ではない。最重要の一つだ」
王妃が頷いた。
「剣神を壊してはなりません」
精霊王も言った。
「その通りだ」
その頃、セレスティアは眠っていた。
自室の寝台。
窓から白樹の光が差し込んでいる。
足元に影はない。
背から外された黒星は、寝台の横に立てかけられている。
閃白は、その隣にある。
二振りは静かだった。
だが、眠ってはいない。
黒星が低く呟く。
『来るか』
閃白が答える。
『来ます』
『十年』
『短いですね』
『主には休みが必要だ』
『はい』
『起こすか』
『まだです』
黒星は、低く沈黙した。
閃白は、白く静まった。
セレスティアは眠っている。
神であっても。
剣神であっても。
今は、眠っている。
その眠りを守ることも、神剣の役目だった。
グランガルドにも、知らせは届いた。
ゴルドは、封印地監視図の前で通信を受けた。
邪神封印限界まで十年。
各地の人柱封印に邪神支配の兆候。
第二次邪神戦争準備。
ゴルドは、しばらく黙っていた。
弟子たちは、誰も口を開かない。
やがて、ゴルドは言った。
「炉を上げろ」
「親方」
「剣を打つ」
「はい!」
「鎧もだ」
「はい!」
「封印杭も作る」
「はい!」
「静鉱石も集めろ」
「はい!」
「魔鉱技師どもに連絡しろ。十年で世界中の封印地を補強する」
「はい!」
ゴルドは、封印地監視図を見た。
「第二次邪神戦争か」
低く呟く。
「ふざけやがって」
弟子の一人が尋ねた。
「親方、看板は」
ゴルドは、少しだけ黙った。
そして言った。
「書け」
「何と」
「邪神封印、限界まで十年」
「はい」
「世界全て、第二次邪神戦争に備えよ」
「はい」
そこで、ゴルドは少しだけ目を細めた。
「ただし」
「はい」
「バカ姫は三日休め」
弟子が一瞬止まった。
「それも書くのですか」
「書け」
「はい」
看板が立てられた。
邪神封印、限界まで十年。
世界全て、第二次邪神戦争に備えよ。
バカ姫は三日休め。
町の者たちは、それを見た。
笑わなかった。
だが、最後の一行で、少しだけ息を吐いた。
世界が戦争へ向かう。
邪神が目覚めようとしている。
それでも、セレスティアには休めと言う者がいる。
それは、希望のようでもあった。
白樹の森では、各地へ精霊通信が飛んだ。
赤樹の森へ。
黒樹の森へ。
青樹の森へ。
金樹の森へ。
灰樹の森へ。
氷樹の森へ。
風樹の森へ。
眠樹の森へ。
影樹の森へ。
人間王国へ。
ドワーフ諸侯へ。
竜の谷へ。
海の民へ。
山の隠れ里へ。
邪神封印、限界まで十年。
各地の人柱封印に汚染兆候。
死者の名を取り戻せ。
封印を補強せよ。
戦力を整えよ。
第二次邪神戦争に備えよ。
その知らせは、世界を震わせた。
六十一年前の傷を持つ者たちは、顔を上げた。
若い世代は、初めて邪神戦争を自分たちの現実として知った。
王たちは会議を始めた。
鍛冶師たちは炉を上げた。
精霊術師たちは古い結界図を広げた。
賢者たちは三賢者の記録を読み直した。
兵士たちは武器を取り、農民たちは備蓄を始めた。
弔われなかった死者の名を探す者たちが、古い帳簿を開いた。
世界は、動き始めた。
十年。
長いようで短い。
短いようで、備えることはできる。
邪神は封印の奥で笑っているかもしれない。
人柱となった者たちの痛みを使い、世界の綻びを広げているかもしれない。
だが、今度は世界も眠っていない。
剣神セレスティアがいる。
神剣黒星がある。
神剣閃白がある。
十の精霊王がいる。
ゴルドがいる。
そして、世界に生きる者すべてが備え始める。
白樹の森の自室で、セレスティアは眠っていた。
その眠りの中で、前世のセレスティアが静かに微笑んでいた。
名もなき森で眠る、もう一人のセレスティア。
剣を置いたセレスティア。
今生のセレスティアは、その夢の中で小さく頭を下げた。
まだ、戦いは終わっていない。
けれど、今だけは眠る。
死者を眠らせた者として。
生きる者として。
次に目覚めた時、世界は第二次邪神戦争へ向けて動き始めている。
だが、今だけは。
白樹の森の静けさの中で、セレスティアは眠り続けた。
黒星と閃白が、その眠りを守っていた。




