幕間 白樹の森に届いた前世セレスティアの安らかな眠り
白樹の森に、その知らせが届いたのは、夕暮れだった。
銀の葉が西日を受け、白い幹が淡く朱に染まる時間。
王宮の中庭では、ミレーヌが精霊たちに水を与えていた。
ルシェルは古記録庫から戻り、三賢者の封印記録に新しい写しを挟んでいた。
王妃エルフィリアは、白樹の花を摘まずに眺めていた。
アルヴァレイン王は、執務室の窓辺で封印地の報告を待っていた。
そこへ、精霊通信の光が走った。
赤い急報ではない。
黒い災厄報でもない。
白と灰と淡い翠が混じった、静かな光だった。
それは、弔いの報告を示す色である。
王は、ゆっくりと立ち上がった。
「セレスティアからか」
精霊術師が頭を下げた。
「はい。グランガルド経由です。ゴルド・ガルガンド殿の確認署名もあります」
「読め」
王妃も、すぐに部屋へ入ってきた。
ルシェルとミレーヌも呼ばれた。
誰も大きな声を出さなかった。
精霊術師が通信文を開く。
そこには、セレスティアの整った文字が浮かんだ。
眷属セレスティアとの再戦、終了。
邪神格を魂の座より切離し、邪神眷属の一柱を討伐。
邪神本体は封印地奥に残存。
三賢者の封印柱は揺らぎあり。
ただし、現時点で崩壊なし。
前世の肉体は邪神格より解放。
眷属ではなく、死者として回収。
白樹の聖布にて覆い、グランガルドへ帰還。
王妃の手が、静かに胸元へ上がった。
ミレーヌは、息を呑んだ。
ルシェルは、記録用の筆を持ったまま止まっている。
精霊術師は続けた。
前世セレスティアの遺体は、邪神格に長く用いられた影響により、死した当時のまま不腐敗状態。
魂、意志ともになし。
邪神格排除後、表情の険しさは消失。
安らかな顔であることを、ゴルド・ガルガンド殿が確認。
その瞬間、王宮の空気が変わった。
安らかな顔。
その一文だけで、皆が理解した。
あの肉体は、もう戦っていない。
もう剣を振っていない。
もう邪神の護り手ではない。
死者として戻ったのだ。
ミレーヌが、小さく呟いた。
「眠れたのですね」
王妃が、ミレーヌの肩に手を置く。
「ええ」
王は、目を閉じた。
長命のハイエルフの王としてではなく、娘を持つ父として、その報告を受け止めていた。
前世のセレスティアは、自分の娘ではない。
だが、今生のセレスティアの魂の前身である。
その肉体が、六十一年もの間、邪神格に使われ続けていた。
その事実は、王家にとっても重かった。
ルシェルが、ようやく筆を動かした。
「安らかな顔……記録してよいのでしょうか」
王は静かに答えた。
「必要な範囲で記せ」
「詳細は」
「残しすぎるな」
ルシェルは顔を上げた。
王は言った。
「この件は、歴史資料ではある。だが、前世セレスティアの遺体を後世の好奇へ晒すための記録にしてはならぬ」
「はい」
「眷属の討伐。邪神格の切離し。封印地の状況。これらは残す」
「はい」
「だが、遺体の顔の詳細や、遺体そのものの性質は、必要最小限とする」
「信仰や崇拝を防ぐためですね」
「そうだ」
ルシェルは、深く頷いた。
「承知しました」
精霊術師は、通信の続きを読む。
遺体の扱いについて、精霊王へ相談済み。
神殿、王墓、英雄廟への安置は不適。
崇めず、祀らず、意味を与えず、役目を与えず、ただ眠らせる方針。
安置場所は、白樹の森と人の国の境にある名もなき森。
静鉱石と白樹の精霊枝を組み合わせた石棺を、ゴルド・ガルガンド殿が作成。
石棺には称号を刻まず。
刻字は一文のみ。
セレスティア、ここに眠る。
ミレーヌの目から、涙がこぼれた。
「それだけなのですね」
王妃が頷く。
「それだけで、よいのです」
「剣聖とも、英雄とも、書かないのですね」
「ええ」
「お姉様の前世なのに」
「だからこそです」
王妃の声は、静かだった。
「もう、何者にも縛らないために」
ミレーヌは、涙を拭いた。
「セレスティア、ここに眠る」
その言葉を、小さく繰り返す。
「優しいです」
ルシェルは、筆を止めていた。
その一文をどう記録すべきか、迷っているようだった。
やがて、彼は余計な注釈をつけず、ただそのまま書いた。
セレスティア、ここに眠る。
それだけで十分だった。
精霊術師は、さらに続ける。
前世の黒星と閃白は、遺体と同棺せず。
石棺の左右に封印布のまま配置。
祀るためではなく、眠りを見張るため。
負の神格残滓は無理に祓わず、眠らせる処置。
十年以上前の初回交戦時に古戦場に残置したミスリル投げナイフ三本も回収。
一本は刃先に欠けあり。
ゴルド・ガルガンド殿が修復予定。
王妃が、そっと息を吐いた。
「投げナイフまで」
ルシェルが低く言う。
「あの時の撤退の証ですね」
「ええ」
王は頷いた。
「生きて戻ったから、回収できた」
ミレーヌが顔を上げる。
「お姉様、ちゃんと戻ったのですね」
「そうだ」
王の声は、少しだけ柔らかかった。
「前世の肉体を取り戻し、置いてきた刃も取り戻し、そして生きて戻った」
ミレーヌは、涙をこぼしながら笑った。
「よかった」
精霊術師は、最後の文を読んだ。
名もなき森への安置、完了。
静けさのための忘却結界、精霊王により敷設済み。
必要な者のみ、必要な時に到達可能。
それ以外の者は、墓所の存在を思い出さない。
前世セレスティアは、祀られず、崇められず、ただ眠りについた。
以上。
部屋に、静かな沈黙が落ちた。
報告は終わった。
だが、誰もすぐには動かなかった。
白樹の森の外で、一つの長い苦しみが終わった。
邪神戦争の末期から続いていた歪み。
死してなお立っていた剣聖。
邪神格に操られた肉体。
家族を斬った身体。
封印地の護り手。
眷属セレスティア。
そのすべてが終わり、今はただ、名もなき森で眠っている。
王妃が、静かに言った。
「精霊花を捧げたいですね」
王は少し考えた。
「墓所に直接捧げることは避けよう」
「ええ。祀ることになりますから」
「だが、白樹の泉へ一輪浮かべることはできる」
精霊術師が頭を下げる。
「それならば、墓所への直接の信仰にはなりません」
王妃は頷いた。
「では、白樹の泉へ」
ミレーヌが言った。
「私も行きたいです」
ルシェルも頷く。
「私も」
王は全員を見た。
「行こう」
王家は、白樹の泉へ向かった。
夕暮れの森は、静かだった。
銀の葉が揺れ、精霊たちが淡く光っている。
白樹の泉は、いつものように波一つない。
王妃は、一輪の白い精霊花を手にしていた。
摘み取ったのではない。
落ちた花を拾ったものだった。
生きた枝から奪った花ではない。
自然に落ちた、静かな花。
王妃は、それを泉へ浮かべた。
花は、水面に触れても沈まなかった。
淡い光を帯び、静かに泉の中央へ流れていく。
ミレーヌが手を合わせようとして、少し迷った。
王妃が、優しく首を横に振る。
「祈らなくてよいのです」
「祈らないのですか」
「ええ」
「では、何をすれば」
「静かに、思うだけでよいのです」
ミレーヌは、涙を拭いて頷いた。
「おやすみなさい」
小さな声だった。
祈りではない。
信仰でもない。
ただ、死者へ向けた別れだった。
ルシェルは、泉を見つめながら言った。
「記録には、どこまで残すべきでしょうか」
王は答えた。
「事実は残す」
「はい」
「場所は残さない」
「はい」
「墓所の行き方も残さない」
「はい」
「称号も増やさない」
「はい」
「この件の記録は、後世のためではなく、二度と同じ過ちを繰り返さぬために残す」
「承知しました」
ルシェルは、筆を持っていなかった。
だが、その言葉を胸に刻んだ。
王妃は、泉に浮かぶ花を見つめている。
「セレスティアは、大丈夫でしょうか」
王は、少しだけ目を細めた。
「今生のセレスティアか」
「ええ」
「大丈夫とは言い切れぬ」
王妃は黙って聞いている。
「神格を得た。影も失った。虹の神眼を得た。死者を取り戻し、自分自身の前世の遺体を弔った」
「はい」
「重すぎる」
「ええ」
「だが、あの子は一人で抱えなかった」
王妃は、静かに頷いた。
「ゴルド殿に見せましたね」
「安らかな顔をな」
「それは、セレスティアにとっても必要なことだったのでしょう」
「そうだ」
王は、白樹の泉を見た。
「ゴルド殿にとってもな」
ミレーヌが、小さく尋ねる。
「ゴルド親方は、泣いたのでしょうか」
ルシェルが少し困った顔をする。
「それは記録にありません」
王妃は、少しだけ微笑んだ。
「泣いても、泣かなくても、きっと見届けてくださったでしょう」
王は頷いた。
「そういう男だ」
その時、泉の水面が静かに光った。
白樹の精霊王の気配が現れる。
王家の者たちは頭を下げた。
精霊王の声が響く。
「前世セレスティアは眠った」
王は顔を上げる。
「はい」
「祀らず、崇めず、名もなき森に置かれた」
「はい」
「それでよい」
ミレーヌが尋ねた。
「精霊王様。前世のお姉様は、安らかですか」
精霊王は、しばらく沈黙した。
そして言った。
「魂はない。ゆえに、安らぎを感じる者はいない」
ミレーヌの顔が少し曇る。
だが、精霊王は続けた。
「だが、肉体はもう苦しんでいない」
「……」
「邪神格に動かされず、剣を握らず、誰も斬らず、何者にもされず、静かに置かれている」
「それは、眠っているということですか」
「死者としては、そうだ」
ミレーヌは、胸に手を当てた。
「よかった」
精霊王は、泉の花を見た。
「この花は祈りではない」
王妃が答える。
「はい」
「信仰でもない」
「はい」
「別れである」
「はい」
「ならば、よい」
精霊王の声は静かだった。
「死者には、祈りより静けさが必要な時がある」
ルシェルが、その言葉を深く胸に刻む。
王は精霊王へ問うた。
「今生のセレスティアは、次に何をすべきでしょうか」
「休むことだ」
王は少しだけ目を見開いた。
精霊王は続ける。
「邪神本体は残る」
「はい」
「三賢者の封印は揺れている」
「はい」
「いずれ対峙せねばならぬ」
「はい」
「だが、今は休め」
王妃が、静かに息を吐いた。
精霊王は言った。
「死者を眠らせた者は、自らも静けさを必要とする」
「はい」
「セレスティアは神格を得た。眠らずとも生きられる。疲労もしない」
「はい」
「だが、心には静けさが要る」
ミレーヌが強く頷いた。
「お姉様を休ませます」
ルシェルが言う。
「記録整理や報告は、私が引き受けます」
王妃は言った。
「帰ってきたら、食事を用意します」
王は、静かに頷いた。
「そして、何も問わぬ時間も用意しよう」
精霊王は満足そうに光を揺らした。
「よい」
その声は、白樹の葉の間へ溶けていった。
「セレスティアは影を失った」
「はい」
「だが、影を持つ者たちのそばへ戻る」
「はい」
「その時、影ある者たちが、影なき神を地上へ繋ぎ止めよ」
精霊王の気配は薄れていく。
最後に、静かな言葉が残った。
「死者は眠った」
「生者は、生きよ」
泉の光が消えた。
白い精霊花だけが、水面に浮かんでいる。
ミレーヌは、もう一度小さく言った。
「おやすみなさい」
今度は泣かなかった。
その夜、白樹の森では鐘を鳴らさなかった。
弔いの儀式も開かなかった。
王宮に喪章も掲げなかった。
誰も、剣聖セレスティアを讃える歌を歌わなかった。
ただ、王家の食卓に、一席だけ空席が設けられた。
そこに料理は置かれない。
杯も置かれない。
名札もない。
ただ、空いている。
それだけだった。
ミレーヌは、その席を見て少し寂しそうにした。
王妃は、そっと言った。
「今日だけです」
「明日からは?」
「日常に戻ります」
「忘れるのですか」
「いいえ」
王妃は、優しく答えた。
「眠った人を、無理に起こさないだけです」
ミレーヌは、ゆっくり頷いた。
ルシェルは、その日の記録を短くまとめた。
前世セレスティア、名もなき森に安置。
称号を刻まず。
祀らず。
崇めず。
静けさのための忘却結界を敷設。
白樹の泉に、落花一輪を浮かべる。
王家、黙礼。
以上。
余計な言葉は加えなかった。
その記録は、白樹の古記録庫の奥へ納められた。
誰でも読める場所ではない。
だが、完全に消したわけでもない。
記録は残す。
場所は隠す。
称号は増やさない。
死者を守るための記録だった。
遠くグランガルドでは、ゴルドの鍛冶場の奥に小さな板が掛かっていた。
セレスティア、眠る。
白樹の森では、同じ言葉を誰も掲げなかった。
だが、その夜、白樹の葉が風に揺れる音は、どこか静かな寝息のようだった。
前世のセレスティアは、ようやく眠った。
眷属ではなく。
英雄でもなく。
剣聖でもなく。
ただ、セレスティアとして。
名もなき森の石棺の中で。
誰にも崇められず。
誰にも祀られず。
誰にも役目を与えられず。
静かに、眠り続けることになった。




