第34話 名もなき森の石棺
ゴルドの鍛冶場で、剣炉の火が落とされた。
その日は、剣を打たない。
槍も打たない。
鎧も直さない。
包丁も、鋸も、鍬も作らない。
鍛冶場の中心に置かれているのは、聖布に覆われた前世のセレスティアの遺体だった。
そして、その隣には、封印布に包まれた前世の黒星と閃白。
さらに、作業台の上には、回収された三本のミスリル投げナイフが並べられていた。
一本は黒く焼けた岩陰にあったもの。
一本は朽ちた盾の下にあったもの。
一本は割れた石の隙間にあったもの。
十年以上、古戦場に置き去りにされていた三本。
セレスティアは、それを見つめていた。
今生の外套の内側には、もう空きはない。
三本は戻った。
それだけで、一つの時間が閉じた気がした。
ゴルドは、その投げナイフを一本ずつ手に取った。
刃を見て、重心を見て、柄を見て、魔力の通りを確認する。
「一本目は問題ねぇ」
「はい」
「二本目も少し瘴気を浴びていたが、閃白で祓ったなら使える」
「はい」
「三本目」
ゴルドは、刃先が欠けた一本を見た。
「欠けているな」
「はい」
「直す」
「よろしいのですか」
「当たり前だ」
ゴルドは、投げナイフを作業台へ置いた。
「これは、お前が生きて戻るために使った刃だ」
セレスティアは、静かに目を伏せた。
「はい」
「捨てたんじゃねぇ」
「はい」
「戻るために置いてきた」
「……はい」
「だから、戻った今、直す」
ゴルドは、当然のように言った。
その言葉だけで、セレスティアは少し救われた。
あの時の撤退は、敗北だった。
十年前のセレスティアでは、眷属セレスティアに勝てなかった。
一時間斬り合い、傷を負い、投げナイフを使って撤退した。
だが、撤退は終わりではなかった。
生きて戻ったから、修行できた。
神格を得られた。
邪神の眷属の一柱を斬れた。
前世の肉体を取り戻せた。
そして、投げナイフも拾い直せた。
ゴルドは、刃先の欠けた投げナイフを火に当てず、白い砥石に置いた。
神格位の剣とは違う。
小さなミスリルの投げナイフである。
だが、ゴルドの手つきは、黒星や閃白を扱う時と変わらなかった。
雑にしない。
軽く扱わない。
刃は刃として扱う。
使い手が生きて帰った理由の一つなら、なおさらである。
セレスティアは、その手元を見ていた。
ゴルドは視線を上げずに言う。
「見ている暇があるなら、飯を食え」
「先ほど食べましたわ」
「肉は」
「食べました」
「魚は」
「食べました」
「豆は」
「食べました」
「酒は」
「飲んでおりません」
「よし」
「この状況でも確認するのですか」
「この状況だからだ」
ゴルドは、砥石を滑らせながら答えた。
「死者を見送る者が倒れてどうする」
「倒れませんわ。神格を得ています」
「そういう考えが危ねぇ」
「親方」
「神になっても、身体を大事にしろ」
「はい」
「飯を食え」
「はい」
「酒は控えろ」
「それは」
「控えろ」
「はい」
鍛冶場の奥で、古参の職人が少しだけ笑った。
だが、その笑いはすぐに消えた。
今日は弔いの準備の日だった。
白樹の森から、精霊枝が届いた。
銀白色の枝。
葉はない。
だが、枝そのものが淡い光を宿している。
死者を静かに包み、邪を退け、過度な信仰を寄せつけないための精霊枝である。
ドワーフ側からは、静鉱石が用意された。
魔鉱石の一種だが、力を増幅するものではない。
逆に、外からの魔力干渉を鎮める石である。
派手さはない。
光も強くない。
だが、沈黙する力を持っている。
ゴルドは、その静鉱石を見て頷いた。
「これでいい」
古参の職人が尋ねる。
「親方、棺の形は」
「長方形でいい」
「装飾は」
「不要」
「紋章は」
「不要」
「剣の意匠も」
「不要」
「名だけですか」
「そうだ」
ゴルドは、短く言った。
「セレスティア、ここに眠る」
それだけだった。
セレスティアは、聖布に覆われた前世の遺体を見た。
剣聖。
英雄。
公爵令嬢。
邪神戦争の守護者。
前世の自分には、いくつもの名があった。
だが、そのどれも刻まない。
名だけ。
セレスティア。
ここに眠る。
それでよかった。
それがよかった。
ゴルドは石棺の設計図を引いた。
いつもの黒星や閃白の設計図とは違う。
剣の重心。
魔力導線。
刃筋。
衝撃逃がし。
そういった線はない。
あるのは、静けさを保つための構造だった。
外殻は静鉱石。
内側に白樹の精霊枝を組み込む。
聖布に覆われた遺体をそのまま納める。
内部には、過剰な防腐魔法は入れない。
もともと遺体は不腐敗である。
大切なのは、腐敗を防ぐことではない。
意味を増やさないこと。
信仰を呼び込まないこと。
邪神の残滓を寄せつけないこと。
静かに置くこと。
ゴルドは、設計図の隅に小さく書いた。
祀るな。
飾るな。
眠らせろ。
セレスティアは、それを見て目を細めた。
「親方」
「あん?」
「それも刻みますの?」
「刻まねぇ」
「では、なぜ書いたのですか」
「わし用だ」
「親方用」
「忘れねぇためだ」
ゴルドは、作業台の上の静鉱石を叩いた。
「作る側が意味を入れすぎると、棺も余計なものになる」
「はい」
「だから書いておく」
「なるほど」
「剣と同じだ」
「剣と」
「使い手を忘れた剣は駄目だ。死者を忘れた棺も駄目だ」
セレスティアは、静かに頷いた。
「はい」
石棺作りが始まった。
剣炉の火ではなく、低い清めの火が使われた。
鋼を焼くための火ではない。
静鉱石を割らず、白樹の精霊枝を傷めず、ゆっくりと形を整える火。
ゴルドの槌は、いつものように荒々しくはなかった。
音も違った。
剣を打つ時は、火花を散らす。
今日は、火花を出さない。
音も低い。
ごん。
ごん。
ごん。
まるで、遠い鐘のようだった。
セレスティアは、その音を聞いていた。
鍛冶場の弟子たちも、余計な声を出さない。
誰も笑わない。
誰も看板の話をしない。
ゴルドも怒鳴らない。
ただ、石棺が少しずつ形になっていく。
その間、セレスティアは前世の黒星と閃白の前に座った。
二振りは封印布に包まれている。
負の神格の残滓が、まだかすかにある。
今生の閃白なら、聖剣の力で祓うことはできる。
だが、精霊王は言った。
無理に祓うな。
それもまた、二振りが背負った歴史である。
眠らせよ。
セレスティアは、封印布の上から前世の黒星に触れた。
「あなたも、よく耐えました」
反応はない。
前世の黒星は、もうゴルドの作った剣としての静けさに戻りかけている。
次に、前世の閃白へ触れた。
「あなたも、もう斬らなくてよろしいのです」
封印布の内側で、ほんの微かに白黒の気配が揺れた。
怒りではない。
悲しみでもない。
ただ、長い時間の残響だった。
セレスティアは、今生の閃白を抜いた。
白銀と金白の光。
大神格位の聖剣。
それを、前世の閃白の上にそっとかざす。
斬らない。
祓いきらない。
ただ、鎮める。
白い光が封印布の上に落ちた。
前世の閃白の気配が、少しだけ静まった。
次に、黒星を抜く。
大神格位の黒星。
不壊、鋭刃、重量自在。
それを前世の黒星のそばに置く。
黒星は、重く沈んだ。
押さえつけるのではない。
寄り添うように。
今生の黒星が、前世の黒星へ静かな重みを与える。
セレスティアは、目を閉じた。
前世の黒星と閃白もまた、被害者だった。
自分のために打たれた剣。
ゴルドが祈りを込めた剣。
それが邪神に使われた。
死者を斬った。
公爵家を滅ぼした。
五十一年も封印地の護り手として振るわれた。
剣に罪があるのか。
セレスティアには分からない。
だが、少なくとも、役目を与え続けるべきではない。
「あなた方も、眠りましょう」
小さく呟いた。
その時、ゴルドの槌の音が止まった。
セレスティアが振り返る。
石棺の外殻が形になっていた。
装飾はない。
光り輝くわけでもない。
ただ、静かな灰白色の石棺。
その内側に、白樹の精霊枝が組み込まれている。
蓋も同じ静鉱石で作られていた。
表面は滑らか。
宝石もない。
金も銀もない。
ただ、蓋の中央に文字を刻むための空白だけがある。
ゴルドは、刻印用の細い鑿を手にした。
セレスティアを見る。
「刻むぞ」
「はい」
「本当に、これだけでいいな」
「はい」
「剣聖も」
「不要です」
「公爵令嬢も」
「不要です」
「英雄も」
「不要です」
「前世の、とも書かねぇぞ」
「不要です」
「ただの名だ」
「はい」
ゴルドは頷いた。
そして、蓋の中央に鑿を当てた。
一文字ずつ。
ゆっくりと。
乱暴ではなく。
だが、迷いなく。
セレスティア、ここに眠る。
その文字が、静鉱石の蓋に刻まれていく。
ゴルドの字は、決して華麗ではなかった。
だが、強かった。
真っ直ぐで、余計な飾りがない。
セレスティアは、その文字を見ていた。
自分の名。
前世の自分の名。
今生の自分の名でもある。
奇妙な感覚だった。
だが、不快ではない。
むしろ、静かだった。
ゴルドが最後の文字を刻み終える。
息を吐く。
「できた」
その一言で、鍛冶場の空気が少し動いた。
石棺は完成した。
だが、まだ遺体を納めない。
安置する場所は、名もなき森である。
そこへ運び、結界を張り、そこで納める。
ゴルドは、遺体を見た。
「顔は、もう一度見るか」
セレスティアは、少しだけ迷った。
そして、頷いた。
「はい」
聖布の顔部分を、もう一度だけ開く。
前世のセレスティアの顔が現れる。
安らかだった。
最初に戻ってきた時より、さらに静かに見えた。
鍛冶場の清めの気配と、聖布と、精霊王の言葉と、ゴルドが見届けたこと。
それらによって、ようやく本当に眠りに近づいているのかもしれない。
ゴルドも見た。
長く見た。
そして、低く言った。
「いい顔だ」
セレスティアは、涙をこらえなかった。
神格を得ても、涙は出る。
それでいい。
ゴルドは続けた。
「六十一年前に見たかった顔だ」
「……はい」
「でも、今見られた」
「はい」
「なら、よしとする」
ゴルドは、聖布を戻した。
丁寧に。
本当に丁寧に。
セレスティアは、それを見ていた。
その手つきで分かった。
ゴルドにとって、前世のセレスティアはただの依頼人ではなかった。
最高の剣士。
自分の剣を振るってくれた者。
死ぬなと言った相手。
そして、帰ってこなかった者。
今、ようやく死者として戻った者。
ゴルドは、聖布を整えると、弟子たちへ言った。
「出る準備をしろ」
「はい」
「名もなき森へ行く」
「今からですか」
「今日だ」
セレスティアは、少し驚いた。
「明日ではなく?」
「明日まで置かない」
「なぜですの」
「長く置けば、意味が増える」
ゴルドは、はっきり言った。
「鍛冶場に置けば、ここも場所になっちまう」
「……」
「誰かが祈る。誰かが覚える。誰かが語る」
「はい」
「それが悪いわけじゃねぇ。だが、この遺体にはいらん」
セレスティアは、深く頷いた。
「はい」
「今日、眠らせる」
「分かりました」
準備は静かに進んだ。
石棺。
聖布に包まれた遺体。
封印布に包まれた前世の黒星と閃白。
回収した三本の投げナイフは、セレスティアが身につけたままにする。
それは、遺体と共に眠らせるものではない。
今生のセレスティアが生きて戻った証として、持ち続けるものだった。
鍛冶場の外に出ると、町の者たちが静かに道を空けた。
看板は増えていない。
ゴルドが書くなと言ったからである。
町の者たちも、それを理解しているようだった。
誰も声を上げない。
誰も祈らない。
誰も膝をつかない。
ただ、静かに頭を下げる。
セレスティアは、それに少しだけ安堵した。
崇めない。
祀らない。
ただ、死者として見送る。
そのための沈黙だった。
名もなき森は、グランガルドから白樹の森へ向かう道の途中にあった。
大きな森ではない。
道から少し外れた、静かな場所。
白樹の森ほど精霊の気配は濃くない。
人間王国の森ほど雑多でもない。
境界にある森。
前世と今生の間にあるような森。
そこに、精霊王の光がすでに降りていた。
白樹の精霊王。
そして、影樹、灰樹、眠樹の精霊王の気配も薄く混じっている。
死者を静かに眠らせるために、必要な精霊王たちが力を貸してくれていた。
森の奥に、開けた場所があった。
何もない。
ただ、柔らかな土と、静かな木々。
鳥の声も少ない。
風はある。
そこに、石棺を置くための場所が用意されていた。
セレスティアは、聖布に包まれた遺体を石棺の中へ納めた。
動作は静かだった。
ゴルドも手伝った。
石棺の内側に、白樹の精霊枝が光る。
遺体は、まるで最初からそこに入るためにあったかのように、静かに収まった。
次に、前世の黒星と閃白をどうするか。
ゴルドは、封印布に包まれた二振りを見た。
「一緒に入れるか」
セレスティアは、少し考えた。
前世の自分の剣。
だが、あの二振りは邪神に使われた。
負の神格の残滓がある。
遺体と共に眠らせるべきか。
それとも別に封じるべきか。
その時、精霊王の声が響いた。
「剣は棺の外へ」
セレスティアは顔を上げた。
「外ですか」
「そうだ」
「なぜです」
「剣は、まだ眠り方を知らぬ」
ゴルドが目を細めた。
「どういう意味だ」
「肉体は死を返された。だが、剣には負の神格の残滓が残る」
「分かっている」
「遺体と共に納めれば、死者の眠りに、剣の残滓が絡む」
「なるほど」
セレスティアは頷いた。
「では、剣は別に」
「石棺の左右へ、封印柱として置け」
「封印柱」
「祀るためではない」
「はい」
「見せるためでもない」
「はい」
「ただ、眠りを見張るために置く」
ゴルドは、少しだけ息を吐いた。
「最後まで剣か」
「親方」
「いや」
ゴルドは首を振った。
「この二振りも、そうした方がいいのかもしれん」
前世の黒星と閃白は、セレスティアのために作られた剣だった。
邪神に使われた。
だが、本来の役目は、セレスティアを守ることだった。
ならば最後に、祀るためではなく、眠りを見張るために置く。
それは、剣にとっても静かな終わり方なのかもしれない。
ゴルドとセレスティアは、石棺の左右に小さな封印台を作った。
右に前世の黒星。
左に前世の閃白。
封印布に包んだまま置く。
精霊王の光が、その周囲に静かな結界を張った。
負の神格は外へ漏れない。
だが、無理に消されもしない。
ただ、眠る。
最後に、石棺の蓋が閉じられた。
ゴルドとセレスティアが、二人で蓋を下ろした。
重い音はしなかった。
静鉱石の蓋は、音を吸い込むように収まった。
中央には、ただ一文。
セレスティア、ここに眠る。
セレスティアは、その文字を見つめた。
前世の自分の名。
今生の自分の名。
だが、今ここに眠るのは、前世の死者である。
セレスティアは、膝をついた。
祈らない。
崇めない。
ただ、別れを告げる。
「おやすみなさい」
それだけだった。
ゴルドも、隣に立った。
膝はつかなかった。
祈りもしなかった。
ただ、石棺を見ていた。
そして、低く言った。
「遅くなったな」
風が吹いた。
名もなき森の葉が、静かに揺れる。
精霊王の光が、森全体を包み始めた。
結界が張られる。
忘れるためではない。
騒がせないための忘却。
必要な者だけが、必要な時に辿り着ける結界。
それ以外の者は、この場所の存在を思い出さない。
死者に静けさを与えるための結界。
セレスティアは、その結界が完成するのを見届けた。
神眼で見れば、石棺の周囲に白と灰と影と眠りの線が重なっている。
美しかった。
だが、見せるための美しさではない。
隠すための美しさだった。
やがて、精霊王の声が響いた。
「終わった」
セレスティアは頭を下げた。
「ありがとうございます」
「これで、この遺体は眠る」
「はい」
「剣も、ここで眠りを学ぶ」
「はい」
「セレスティア」
「はい」
「お前は、死者を取り戻し、死を返し、眠りを与えた」
「はい」
「よくやった」
その言葉に、セレスティアの胸が熱くなった。
ゴルドも何も言わなかった。
ただ、そっと息を吐いた。
名もなき森から戻る時、セレスティアは一度だけ振り返った。
石棺は、もうほとんど見えなかった。
結界によって、森の景色に溶け始めている。
そこに墓があると知らなければ、誰も気づかないだろう。
それでよかった。
それがよかった。
グランガルドへ戻る道中、ゴルドは言った。
「火酒」
「はい?」
「飲む約束だったな」
セレスティアは、少しだけ驚いた。
そして、微笑んだ。
「はい」
「今日は少しだけだ」
「親方基準の少しですか。わたくし基準の少しですか」
「わし基準だ」
「では、とても少しですわね」
「神格酒強姫は信用ならん」
「却下ですわ」
久しぶりに、いつもの会話だった。
だが、以前とは少し違う。
前世のセレスティアは、ようやく眠った。
前世の黒星と閃白も、名もなき森で静かに眠りを学び始めた。
三本の投げナイフは戻った。
ゴルドは、安らかな顔を見た。
セレスティアは、死者に眠りを与えた。
ひとつの物語が、終わった。
けれど、邪神本体はまだ封印地の奥にいる。
三賢者の封印は、まだ揺れている。
終わったものと、まだ終わっていないものがある。
セレスティアは、それを知っている。
だから、今は戻る。
火酒を少しだけ飲むために。
生きている者たちの場所へ。
グランガルドの鍛冶場へ戻ると、看板はまだ増えていなかった。
弟子たちが、どうするのかとゴルドを見た。
ゴルドは、少し考えた。
そして言った。
「一枚だけだ」
古参の職人が板を持ってくる。
「何と書きますか」
ゴルドは、しばらく黙った。
そして、短く言った。
「セレスティア、眠る」
セレスティアは、少しだけ目を見開いた。
ゴルドは続ける。
「それだけだ」
「はい」
その看板は、鍛冶場の目立つ場所には置かれなかった。
奥の壁。
黒星と閃白の記録の下。
小さく、静かに掛けられた。
セレスティア、眠る。
誰も笑わなかった。
誰も騒がなかった。
ただ、それを見た者は静かに頭を下げた。
その夜。
火酒の樽が一つ開けられた。
ゴルドは小さな杯を二つ出した。
一つは自分へ。
一つはセレスティアへ。
そして、もう一つ。
小さな空の杯を、作業台の隅に置いた。
セレスティアは、それを見た。
誰の杯かは、聞かなかった。
聞く必要はなかった。
ゴルドは、火酒を少しだけ注いだ。
「飲むぞ」
「はい」
「少しだけだ」
「はい」
「神格でも酔うか試すなよ」
「……はい」
「今、間があったな」
「気のせいですわ」
「信用ならん」
セレスティアは、少し笑った。
杯を持つ。
ゴルドも杯を持つ。
作業台の隅には、もう一つの杯。
ゴルドは、低く言った。
「戻ったセレスティアに」
セレスティアは、静かに答えた。
「眠ったセレスティアに」
二人は杯を合わせなかった。
ただ、同じ火酒を口にした。
火酒は熱かった。
喉を焼くようで、胸に落ちると静かに温かくなる。
セレスティアは目を閉じた。
神格を得ても、この熱は分かった。
それが、また少し嬉しかった。
ゴルドは、空の杯を見た。
「今度は、飲み逃げじゃねぇな」
セレスティアは、何も言わなかった。
ただ、静かに微笑んだ。
鍛冶場の外では、夜風が看板を揺らしていた。
バカ姫、生きて戻れ。
そして、奥の壁には、小さな板。
セレスティア、眠る。
その二つの言葉が、今夜のすべてだった。




