第31話 火酒四樽と影なき姫
グランガルドの朝は、いつも通り騒がしかった。
炉に火が入り、槌が鳴り、職人たちの怒鳴り声が石畳の通りを満たしている。
焼けた鉄の匂い。
炭の匂い。
油の匂い。
山の町特有の乾いた風。
それらは、白樹の森の静けさとはまるで違う。
だが、セレスティアには懐かしかった。
白樹の森で神格を得た。
十の試練を越え、エンシェントエルフとなった。
影はなくなった。
虹色の神眼を得た。
黒星と閃白は大神格位へ至った。
けれど、グランガルドの門をくぐった瞬間、町の門番が叫んだ。
「黒星の姫が帰ってきたぞ!」
その声に、町の者たちが一斉に振り返る。
セレスティアは、微笑みながら軽く手を上げた。
「ただいま戻りましたわ」
門番は、そこで固まった。
セレスティアの姿が、以前とは違っていたからだ。
白銀の髪は、朝の光を受けて淡く輝いている。
虹色の瞳は、見る角度によって色を変える。
背には黒星。
左腰には閃白。
だが、それ以上に。
足元に影がない。
朝日が差している。
門番の影は地面に長く伸びている。
荷馬車にも影がある。
馬にも、荷にも、通りの柱にも影がある。
だが、セレスティアだけには影がない。
門番は、口を開けたまま固まった。
「姫さん……影が」
「なくなりましたわ」
「なくなった?」
「神格を得ましたので」
「神格を得ると、影がなくなるのか?」
「そのようです」
門番は、しばらく考え込んだ。
そして、セレスティアの背後を見た。
「それで、その酒樽は?」
セレスティアの背後には、四つの大きな酒樽が浮いていた。
ドワーフ火酒。
それも、普通の酒ではない。
グランガルドでも上等とされる、古い蒸留樽の火酒である。
大人のドワーフが二人がかりで運ぶような大樽が、四つ。
それが、ふわりと空中に浮かんでいた。
セレスティアの無詠唱魔法によって、重さを失ったように静かに浮遊している。
樽の表面には、白樹の森の精霊紋と、グランガルドの酒蔵印が並んで刻まれていた。
門番は、酒樽と影のないセレスティアを見比べた。
「神になって、最初に持ってきたのが酒樽四つか」
「お世話になった御礼ですわ」
「いや、すごいけどよ」
「何か問題が?」
「問題というか、姫さんらしいというか」
町の者たちが集まり始める。
「黒星の姫だ!」
「影がない!」
「本当に神になったのか!」
「酒樽が浮いてる!」
「四樽もあるぞ!」
「酒強姫が帰ってきた!」
セレスティアは、にこりと微笑んだ。
「酒強姫は却下ですわ」
町の子どもが声を上げる。
「じゃあ、影なし酒樽姫!」
「それも却下です」
「虹目の酒樽姫!」
「却下です」
「神様なのに?」
「神様でも却下ですわ」
町の者たちは笑った。
影がない。
虹色の目をしている。
神格を得た存在である。
普通なら、恐れられてもおかしくない。
だが、セレスティアは酒樽四つを魔法で浮かせて、いつも通り丁寧に、しかしどこか堂々と歩いている。
その姿が、あまりにもセレスティアだった。
町の者たちは畏れより先に、笑ってしまった。
セレスティアは、ゴルドの鍛冶場へ向かった。
鍛冶場の前には、相変わらず看板が並んでいる。
十年前より増えていた。
増えすぎていた。
セレスティアは、その看板の群れを見て、目を細めた。
バカ姫再鍛錬中。
神格位修行中。
バカ姫、自己犠牲禁止。
三賢者は命で封じた。
バカ姫は生きて勝て。
十の試練、最短十年で突破。
セレスティア、神格獲得。
黒星・閃白、大神格位到達。
バカ姫、神になっても飯を食え。
セレスティア、剣神となる。
神格特性、破邪・葬送・守護・終焉。
バカ姫、神になっても調子に乗るな。
セレスティアは、最後の看板の前で足を止めた。
「親方」
まだ鍛冶場へ入っていない。
だが、声は自然と漏れた。
「神になっても調子に乗るな、とはどういうことですの?」
鍛冶場の扉が開いた。
中から、ゴルドが出てきた。
十年前より、髭が少し白くなっている。
顔の皺も増えた。
だが、目は変わらない。
鋭く、不機嫌そうで、火を宿している。
ゴルドはセレスティアを上から下まで見た。
影のない足元。
虹色の瞳。
背の黒星。
左腰の閃白。
そして、浮いている火酒の樽四つ。
ゴルドは、しばらく黙った。
セレスティアも黙っていた。
通りの者たちも黙った。
そして、ゴルドは言った。
「飯は食ったか」
セレスティアは、思わず笑った。
「はい。食べましたわ」
「肉は」
「食べました」
「魚は」
「食べました」
「豆は」
「食べました」
「酒は」
「まだ飲んでおりません」
「まだ?」
「御礼の火酒を持参しましたので」
ゴルドは、浮かぶ四つの酒樽を見た。
「四樽」
「はい」
「火酒か」
「はい」
「誰が飲むんだ」
「親方と、鍛冶場の皆様と、わたくしで」
「お前も飲む気か」
「御礼ですもの」
「御礼なら渡して帰れ」
「親方」
「酒強姫は信用ならん」
「却下ですわ」
町の者たちが笑いをこらえている。
セレスティアは、軽く咳払いした。
「神格を得ておりますので、酔わない可能性もありますわ」
「なら余計に飲むな」
「なぜですの?」
「酒飲みの言い訳が神格で強化されている」
「ひどいですわ」
「事実だ」
ゴルドは、ようやくセレスティアの足元を見た。
「影がねぇな」
「はい」
「本当に神になったか」
「そのようです」
「目も変わったな」
「虹色になりました」
「見えすぎるか」
「精霊王から制御を教わりました。今は通常視界と魔力視界を主に使っています」
「封印地は見えるか」
「必要なら」
「今は見るな」
「はい」
ゴルドは短く言った。
その声には、十年前と同じ重さがあった。
神格を得た相手にも、遠慮はない。
それが、セレスティアにはありがたかった。
ゴルドは、今度は黒星と閃白を見た。
「黒星」
黒星が、背で深く鳴った。
「大神格位だな」
「はい」
「重量自在」
「はい」
「試すなよ」
「ここでは試しませんわ」
「ここでは?」
「広い場所なら」
「やっぱり調子に乗っている」
「少しだけです」
「その少しが信用ならん」
次に、ゴルドは閃白を見る。
「閃白」
閃白が、澄んだ白銀の気配を返す。
「大神格位」
「はい」
「聖剣か」
「はい」
「魂の座へ届くな」
「届きます」
「邪神格にも」
「届かせます」
ゴルドは、そこで一度黙った。
町の喧騒が遠くなる。
十年。
セレスティアは試練を越えた。
ゴルドは封印地を見張り続けた。
眷属セレスティアは、まだ封印地にいる。
前世の黒星と閃白もある。
邪神格の反応は、以前より濃い。
再戦の時は近い。
だが、今この瞬間、ゴルドはその話をしなかった。
代わりに、火酒の樽を指した。
「それを中へ運べ」
「魔法で?」
「手で」
「なぜですの?」
「神になっても、酒樽くらい自分で運べ」
セレスティアは、目を瞬かせた。
そして、少しだけ笑った。
「手で、ですか」
「ああ」
「四樽ありますわ」
「一樽ずつ運べ」
「魔法を使えば一瞬ですのに」
「だから使うな」
「修行ですの?」
「調子に乗らない訓練だ」
「親方らしいですわね」
セレスティアは、浮かせていた魔法を解いた。
四つの火酒樽が、ゆっくりと地面へ降りる。
どしん、と重い音がした。
町の者たちが少し驚く。
それだけ大きな樽だった。
セレスティアは、その一つに手をかけた。
黒星の重量自在を使えば、力の感覚は簡単に変えられる。
神格の身体なら、樽を持つこと自体は難しくない。
だが、ゴルドの言う意味は分かった。
魔法で浮かせず、神格の力で無造作に扱わず、普通に持つ。
自分が世界の外側へ離れすぎないために。
地上の重さを忘れないために。
セレスティアは、火酒樽を両手で抱えた。
「よいしょ」
ゴルドが眉を寄せた。
「軽そうに持つな」
「軽いのですもの」
「重い顔をしろ」
「難しいですわね」
「演技でもいい」
「では」
セレスティアは、少しだけ苦しそうな顔を作った。
ゴルドが即座に言った。
「下手だ」
「親方、厳しすぎます」
「神格になっても芝居は下手か」
「必要ありませんもの」
「なら、いい」
町の者たちは、ついに笑った。
影なき剣神が、火酒樽を抱えて鍛冶場へ入っていく。
その後ろで、ゴルドが当然のように指示を出す。
「そこじゃねぇ。奥だ」
「はい」
「樽を倒すな」
「倒しません」
「魔法で支えるな」
「支えておりません」
「顔が支えたそうだ」
「顔に出ますの?」
「出る」
一樽目。
二樽目。
三樽目。
四樽目。
セレスティアは、すべて手で運んだ。
鍛冶場の中にいた弟子たちは、神格を得たセレスティアを前にして緊張していた。
だが、四樽目を運び終えた頃には、緊張よりも笑いをこらえる方に必死になっていた。
古参の職人が深く頭を下げる。
「姫様。神格到達、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「影がないのですね」
「はい」
「目も、虹色で」
「はい」
「それで、火酒を四樽」
「はい」
古参の職人は、少しだけ笑った。
「姫様らしいですな」
「そう言われると、褒められているのか判断に迷いますわ」
「褒めております」
ゴルドが横から言う。
「半分は呆れている」
「親方」
「事実だ」
セレスティアは、鍛冶場を見回した。
剣炉。
作業台。
黒星と閃白を打った場所。
無数の看板が作られた場所。
手当てを受けた椅子。
三カ月の再鍛錬で立った測定陣。
十年前と変わったところもある。
弟子の顔ぶれも少し変わった。
若かった弟子が、今では職人らしい顔になっている。
壁には、黒星と閃白の神格位到達記録の写しが丁寧に掲げられていた。
そして、作業台の奥には、封印地の監視図があった。
セレスティアは、その前で足を止めた。
古戦場。
邪神本体の封印地。
三賢者の封印柱。
眷属セレスティアの活動範囲。
前世の黒星と閃白の神格反応。
十年間、ゴルドが見張り続けた記録。
「親方」
「あん?」
「ありがとうございます」
「火酒の礼なら後だ」
「違います」
セレスティアは、監視図を見たまま言った。
「十年、見張り続けてくださったことです」
ゴルドは、少しだけ黙った。
それから鼻を鳴らす。
「必要事項だ」
「親方は、何でも必要事項で済ませますわね」
「実際、必要だった」
「はい」
セレスティアは、深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
ゴルドは、少し居心地悪そうに顔を背けた。
「頭を下げるな」
「以前も言われましたわね」
「神になっても同じだ」
「はい」
「顔を上げろ。報告がある」
その声で、鍛冶場の空気が変わった。
セレスティアは顔を上げる。
ゴルドは封印地の監視図を指した。
「眷属セレスティアの活動範囲が、ここ一年でわずかに広がっている」
「どれほど」
「大きくはない。だが、封印地の境界が以前より緩い」
「邪神格の反応は」
「濃くなっている」
「前世の黒星と閃白は」
「負の神格反応が安定している。悪い意味でだ」
セレスティアは、虹色の神眼を一段だけ開いた。
第四の視界。
神格と負の神格を見る視界。
遠い封印地の方向に、黒い線が見える。
前世の黒星。
前世の閃白。
そして、魂の座に巣食う邪神格。
見える。
だが、呑まれない。
必要な分だけ見る。
セレスティアは視界を閉じた。
「確かに、強くなっています」
「分かるか」
「はい」
「なら、次は再戦だ」
鍛冶場が静まり返る。
ゴルドは続けた。
「だが、今日じゃねぇ」
「分かっています」
「本当だな」
「はい」
「顔が行きたそうだ」
「……少しだけ」
「その少しが信用ならん」
セレスティアは、苦笑した。
「懐かしいやり取りですわ」
「十年経っても変わらんな」
「神格を得ましたが」
「神格を得ても、そこは変わらん」
「喜ぶべきでしょうか」
「知らん」
ゴルドは、封印地の監視図を巻き取った。
「今日は、飯を食え」
「はい」
「酒は飲むな」
「火酒を持ってきたのに?」
「今日は飲むな」
「なぜですの?」
「封印地の話をする」
「酒席では駄目ですか」
「お前は酒が入ると楽しそうになる」
「それは、まあ」
「眷属セレスティアの話をするのに、楽しそうな顔をするな」
「承知しました」
セレスティアは素直に頷いた。
ゴルドは少し意外そうに見た。
「素直だな」
「十の試練で学びました」
「酒を控えることをか?」
「それはまだ修行中ですわ」
「駄目じゃねぇか」
鍛冶場に笑いが戻る。
しかし、すぐにゴルドが弟子へ命じた。
「飯を用意しろ。肉、魚、豆だ」
「はい!」
「それと、酒樽は封印しておけ」
「封印?」
「飲まれないようにだ」
セレスティアが目を細める。
「親方、わたくしを何だと思っておりますの?」
「酒強姫」
「却下ですわ」
「神格酒強姫」
「もっと却下です」
古参の職人が、静かに樽へ封印札を貼った。
セレスティアはそれを見て、少しだけ残念そうにした。
ゴルドが即座に言う。
「顔に出ている」
「少しだけです」
「その少しが信用ならん」
その日、グランガルドの鍛冶場の前には、また新しい看板が立った。
セレスティア帰還。
火酒四樽、魔法浮遊搬入。
影なき剣神、手で酒樽を運ばされる。
バカ姫、神格を得ても酒樽は手で運べ。
町の者たちは、それを見て笑った。
だが、看板の横にもう一枚、小さくない板が追加された。
眷属セレスティア再戦準備中。
邪神格反応、増大。
黒星・閃白・剣神セレスティア、最終調整へ。
その板の前では、誰も笑わなかった。
十年の修行は終わった。
セレスティアは神格を得た。
黒星と閃白は大神格位へ至った。
火酒四樽を持って帰ってきた影なき姫は、相変わらずゴルドに叱られている。
だが、次に向かう場所は決まっていた。
五十一年前、前世の物語が途切れた古戦場。
死してなお立つ眷属セレスティアが待つ封印地。
邪神の問いが待つ場所。
セレスティアは鍛冶場の奥で、黒星と閃白を静かに下ろした。
そして、ゴルドの用意した食事の前に座る。
「いただきます」
ゴルドは腕を組んで言った。
「よく噛め」
「はい」
「神になっても、飯は噛め」
「分かっております」
「本当だな」
「はい」
セレスティアは、少しだけ笑った。
神になっても。
影がなくても。
虹色の目を持っても。
ここでは、食事をして、叱られて、看板に書かれる。
それが、今の自分を地上へ繋ぎ止めている。
そして、その地上の重さを忘れないまま、セレスティアは邪神の封印地へ向かうのだった。




