第30話 影なき神格
セレスティアが神格を得た翌朝。
白樹の森は、いつもより明るかった。
白い幹は朝日を受けて淡く輝き、銀の葉は風に揺れ、精霊たちは祝福の余韻を残すように森のあちこちで光っていた。
王宮の中庭には、王家の者たちが集まっていた。
アルヴァレイン王。
王妃エルフィリア。
ルシェル。
ミレーヌ。
そして、十年の修行を終え、神格を得たセレスティア。
セレスティアは、朝日の中に立っていた。
背には黒星。
左腰には閃白。
黒星は大神格位。
不壊。
鋭刃。
重量自在。
閃白も大神格位。
永続斬撃。
破邪。
聖剣。
二振りは、もはやただの剣ではない。
神格を宿した剣。
世界の理に干渉できる刃。
そして、セレスティア自身もまた、以前のハイエルフ王女ではなかった。
神格を得たエンシェントエルフ。
不老不死。
超常的な回復。
疲労しない肉体。
眠らずとも生きられる身体。
尋常ならざる精神力。
無詠唱で連発できる魔法力。
邪神という世界の外の理に触れるための神格。
だが、その変化は力だけではなかった。
ミレーヌが最初に気づいた。
「お姉様……影がありません」
その言葉で、全員が足元を見た。
朝日が差している。
王の影は、白い石畳の上に伸びている。
王妃の影もある。
ルシェルの影も。
ミレーヌの影も。
近くに立つ侍女や騎士たちの影もある。
だが、セレスティアの足元には影がなかった。
朝日を浴びている。
身体は確かにそこにある。
白銀の髪も、淡い肌も、衣も、黒星も閃白も、光を受けている。
しかし、影だけがない。
セレスティアは、自分の足元を見つめた。
「本当ですわね」
ルシェルが息を呑む。
「神格を得ると、影がなくなるのですか」
王妃が静かに言った。
「古い精霊神話には、そのような記述があります。神は光に照らされるものではなく、光と同じ側に立つものだ、と」
王は重く頷いた。
「影とは、世界に落ちる存在の裏側。神格を得た者は、世界の内側にいながら、外側の理にも触れる。ゆえに、通常の影を持たぬのかもしれぬ」
ミレーヌは、不安そうにセレスティアの手を握った。
「お姉様は、ちゃんとここにいますよね」
セレスティアは、その手を握り返した。
「ええ。ここにおります」
「影がなくても?」
「影がなくても」
「神様になっても?」
セレスティアは少しだけ考えた。
そして、柔らかく微笑んだ。
「あなたの姉であることは、変わりませんわ」
ミレーヌは、泣きそうな顔で頷いた。
だが、変化は影だけではなかった。
ルシェルが、ふとセレスティアの瞳を見て固まった。
「姉上。目が」
「目?」
セレスティアは首を傾げた。
王妃が近づき、セレスティアの顔を覗き込む。
その瞬間、息を呑んだ。
セレスティアの虹彩は、以前の深い翠ではなかった。
虹色だった。
光の角度によって、翠、金、青、紫、白銀、赤、黒、透明に近い色まで、幾重にも重なって見える。
ただ美しいだけではない。
そこには、見てはいけないものまで見通すような深さがあった。
ルシェルが低く言う。
「虹彩が虹色に……」
王妃は、静かに目を伏せた。
「神眼」
「神眼?」
セレスティアが尋ねる。
王が答えた。
「古い伝承では、神格を得た者の目は、ありとあらゆるものを見る力を宿すとされる」
「ありとあらゆるもの」
「物の形だけではない。魔力の流れ。魂の揺れ。精霊の囁き。呪い。瘴気。神格。負の神格。世界の理の綻び」
ルシェルが続ける。
「つまり、姉上は、通常の視覚では見えないものまで見るようになる可能性があります」
セレスティアは、ゆっくりと瞬きをした。
その瞬間、世界が変わった。
白樹の森の木々に、無数の光の線が流れている。
精霊たちの気配が、粒ではなく文様のように見える。
王の身体には、王家の血に由来する精霊紋が静かに巡っている。
王妃の周囲には、柔らかな治癒の光がある。
ルシェルの手元には、記録と知識へ向かう細い銀線が見える。
ミレーヌの胸元には、純粋な祈りの光がある。
そして、遠く。
遠く離れた古戦場の方角に、黒い歪みが見えた。
封印地。
邪神格。
その外縁に立つ、眷属セレスティア。
セレスティアは、思わず目を押さえた。
「……見えすぎますわね」
王妃が心配そうに手を伸ばす。
「大丈夫ですか」
「はい。ただ、世界が多すぎます」
ルシェルは即座に記録を取り始めた。
「神格獲得後の視覚過多。ありとあらゆるものを見る力は、制御しなければ負荷になる可能性あり」
「ルシェル、記録は後にしていただけます?」
「これは重要です」
「今ですの?」
「今です」
そこへ、白樹の泉の方角から風が吹いた。
風ではない。
精霊王の気配だった。
中庭の空気が静まり、白い光が降る。
精霊王が現れた。
王家の者たちは頭を垂れる。
セレスティアも膝をつこうとした。
だが、精霊王が手で制した。
「セレスティア。神格を得た者が、すぐに膝をつく必要はない」
「ですが」
「敬意は姿勢ではなく、在り方に宿る」
「承知しました」
セレスティアは、軽く頭を下げるに留めた。
精霊王は、セレスティアの足元を見た。
「影がないことに気づいたか」
「はい」
「神格を得て神となるとは、影がなくなることでもある」
ミレーヌが小さく震えた。
精霊王は、優しく続ける。
「恐れることはない。影を失うとは、存在を失うことではない」
「では、何を意味しますの?」
セレスティアが問う。
精霊王は答えた。
「影とは、光に照らされた存在が世界へ落とす境界である」
「境界」
「そうだ。世界の内側に立つ者は、光を受け、影を落とす。だが、神格を得た者は、世界の内側だけに立たぬ」
「世界の外の理にも触れるから」
「その通りだ」
精霊王の声は静かだった。
「お前は今、世界に生きる者でありながら、世界を見守る側へも足を踏み入れた。ゆえに、世界の光はお前に影を作れない」
セレスティアは、自分の足元を見た。
影がない。
それは、力の証ではない。
自分が、以前とは違う場所に立った証だった。
「影がないとは、孤独なものですわね」
セレスティアは、静かに言った。
精霊王は頷く。
「そうだ」
ミレーヌが顔を上げる。
王妃も、胸に手を当てた。
精霊王は続ける。
「神は影を持たぬ。だが、影を知らぬわけではない」
「影を知らぬわけではない」
「お前は十の試練で影樹の森を越えた。己の影を見た。前世の自分、眷属の自分、神格を得た未来の自分。そのすべてを否定せず、呑まれず、共に立った」
「はい」
「だから、影がなくなっても、影の痛みを忘れてはならぬ」
セレスティアは、深く息を吸った。
「はい」
「影を失った神が、影を持つ者の痛みを忘れれば、神格は歪む」
「はい」
「人の迷い。恐れ。怒り。嫉妬。後悔。未練。それらは影である」
「はい」
「それを見下すな」
精霊王の声は、少しだけ厳しかった。
「影を持たぬ者になったからこそ、影を持つ者に寄り添え」
セレスティアは、静かに頭を下げた。
「承知しました」
精霊王は、次にセレスティアの瞳を見た。
「そして、その目」
「虹色の虹彩」
「神眼である」
セレスティアは、自分の目元に指を添えた。
「見えすぎます」
「当然だ。ありとあらゆるものを見る力を宿した」
「魔力、精霊、魂、封印地の歪みまで見えます」
「今は、開きすぎている」
「制御できますか」
「できる。いや、しなければならぬ」
精霊王は、セレスティアの前へ立った。
「神眼は便利な力ではない」
「はい」
「見えるということは、背負うということだ」
セレスティアは、静かに目を伏せた。
「病んだ魂を見れば、見なかったことにはできぬ」
「はい」
「瘴気の淀みを見れば、放置するか、祓うかを選ばねばならぬ」
「はい」
「人の嘘を見れば、その嘘を暴くか、見守るかを選ばねばならぬ」
「はい」
「封印の綻びを見れば、知らぬふりはできぬ」
「はい」
「そして、邪神と相対すれば、邪神の理さえ見える」
セレスティアの虹色の瞳が、静かに揺れた。
「邪神の理まで」
「そうだ」
精霊王は言った。
「お前は、邪神をただ邪と見ることができなくなる」
「……」
「邪神なりの正義も、滅びの理も、世界の外側から見た循環も、見えてしまう」
「それは」
「苦しいぞ」
精霊王は、淡々と言った。
「敵の理が見えるということは、単純な憎しみだけでは斬れなくなるということだ」
「はい」
「だが、それでよい」
「それでよいのですか」
「神格を得た者が、見えぬまま斬れば災厄になる」
精霊王の言葉は重かった。
「見た上で、理解した上で、それでも許せぬものを斬れ」
セレスティアは、以前受けた問いを思い出した。
邪神は問う。
お前の正義は世界の正義か。
神となれば滅びをもたらすのも役目である。
その問いに答えるには、見なければならない。
邪神の理も。
自分の私情も。
世界の循環も。
冒涜と滅びの違いも。
精霊王は、右手を上げた。
白い光が、セレスティアの瞳の前に浮かぶ。
「神眼を閉じる術を教える」
「閉じる」
「完全に閉じるのではない。層を分ける」
「層」
「第一の視界は、通常の視界。人と同じものを見る」
「はい」
「第二の視界は、魔力と精霊を見る」
「はい」
「第三の視界は、魂と呪いを見る」
「はい」
「第四の視界は、神格と負の神格を見る」
「はい」
「第五の視界は、世界の理の綻びを見る」
「はい」
「そして、最後の視界は、世界の外の理を見る」
セレスティアは、息を呑んだ。
「邪神へ届く視界」
「そうだ」
精霊王は言った。
「常に最後の視界を開いてはならぬ」
「なぜです」
「世界の外の理を見続ける者は、世界の内側に戻れなくなる」
ミレーヌが不安そうにセレスティアの袖を掴んだ。
セレスティアは、その手にそっと触れた。
「必要な時だけ開くのですね」
「そうだ」
「眷属セレスティアと戦う時」
「その時は、第四と第五、そして必要なら最後の視界を開け」
「はい」
「だが、普段は第一と第二でよい」
セレスティアは、静かに頷いた。
精霊王の光が、虹色の瞳に触れる。
世界が少しずつ整理されていく。
魔力の線が薄くなる。
魂の光が奥へ沈む。
封印地の黒い歪みが遠くなる。
精霊たちの光は、まだ見える。
だが、先ほどのように全てが一度に押し寄せてくる感覚は薄れた。
セレスティアは、ゆっくりと息を吐いた。
「楽になりましたわ」
「制御を忘れるな」
「はい」
「見えるからといって、全てを見るな」
「はい」
「見えたからといって、全てに手を出すな」
「はい」
「神眼を持つ者が、全てを救おうとすれば、かつてのように命を燃やす道へ戻る」
その言葉に、セレスティアは目を伏せた。
前世の自分。
退路を守るために、全てを背負い、死んだ自分。
今生の自分は、同じことをしてはならない。
「見て、選ぶ」
セレスティアは呟いた。
「そうだ」
精霊王は頷いた。
「神眼は、選ぶための目である」
「はい」
「すべてを救うための目ではない」
「はい」
「何を守り、何を終わらせ、何を送るか。それを見るための目だ」
セレスティアは、胸にその言葉を刻んだ。
影がない。
神眼を持つ。
それは、自分が神になった証。
だが同時に、神としての危うさでもある。
影を失った者が、影を持つ者の痛みを忘れれば、神格は歪む。
すべてが見える者が、すべてを救おうとすれば、また命を燃やす。
セレスティアは、静かに言った。
「精霊王」
「何だ」
「わたくしは、神格を得ました」
「そうだ」
「影もなくなりました」
「そうだ」
「目も変わりました」
「そうだ」
「それでも、わたくしはセレスティアでいられますか」
精霊王は、すぐには答えなかった。
森が静かになる。
白い葉が一枚、セレスティアの肩に落ちた。
精霊王は言った。
「それを決めるのは、お前だ」
「わたくしが」
「そうだ」
「神格を得たからセレスティアではなくなるのではない」
「はい」
「力を得たことを理由に、かつての自分を捨てた時、セレスティアではなくなる」
「……」
「影がなくとも、影を知っていればよい」
「はい」
「虹の目を持っても、見下ろさなければよい」
「はい」
「神となっても、愛したものを忘れなければよい」
セレスティアは、ミレーヌの手を握った。
「はい」
「そして、誰かに叱られることを忘れるな」
その言葉に、セレスティアは少し目を瞬かせた。
「叱られること」
「そうだ」
精霊王の声に、わずかな笑みが混じった。
「神となった者は、誰にも叱られぬと思い上がりやすい」
「……」
「だが、お前には幸い、叱る者がいる」
王妃が静かに微笑む。
王が頷く。
ルシェルが記録の手を止める。
ミレーヌが少し笑う。
そして、セレスティアの脳裏にはゴルドの声が響いた。
飯を食え。
酒は飲むな。
調子に乗るな。
バカ姫。
セレスティアは、思わず笑った。
「ゴルド親方ですわね」
「そうだ」
精霊王は頷いた。
「あのドワーフの鍛冶師の言葉を軽んじるな」
「はい」
「あれは、お前を神ではなく、セレスティアとして見ている」
セレスティアは、胸の奥が温かくなるのを感じた。
神格を得た自分を、神として崇めるのではない。
バカ姫と呼ぶ。
飯を食えと言う。
酒は飲むなと言う。
調子に乗るなと言う。
それは乱暴だ。
だが、自分を世界の外へ行かせないための錨でもある。
「分かりました」
セレスティアは、静かに言った。
「わたくしは、影を失っても、影を忘れません」
「よい」
「神眼を得ても、すべてを救おうとはしません」
「よい」
「見て、選び、守り、終わらせ、送ります」
「よい」
「そして、叱られることを忘れません」
王妃が小さく笑った。
ルシェルが真面目に記録する。
ミレーヌは嬉しそうにセレスティアを見上げる。
精霊王は、満足そうに頷いた。
「ならば、助言は終わりだ」
「ありがとうございます」
「眷属セレスティアと戦う時、影なき身であることを恐れるな」
「はい」
「虹の目で、邪神の理を見ることを恐れるな」
「はい」
「だが、見たものに呑まれるな」
「はい」
「お前は、邪神になるために神格を得たのではない」
「はい」
「邪神の理を理解し、その上で冒涜を終わらせるために神格を得た」
「はい」
「ならば行け」
精霊王の姿が、ゆっくりと薄れていく。
「セレスティア。影なき神よ」
「はい」
「影を持つ者たちのために、剣を振れ」
精霊王は消えた。
白樹の森に、朝の音が戻る。
鳥が鳴き、風が葉を揺らし、精霊たちが小さく光った。
セレスティアは、足元を見た。
影はない。
次に、ミレーヌを見た。
その小さな影は、朝日に照らされて白い石畳の上に落ちている。
王の影。
王妃の影。
ルシェルの影。
騎士たちの影。
侍女たちの影。
皆、影を持っている。
セレスティアだけが、影を持たない。
だが、それでよい。
影を失ったからこそ、影を持つ者の痛みを忘れてはならない。
セレスティアは、黒星の柄に触れた。
黒星は、大神格位の深い重みを返す。
閃白にも触れる。
閃白は、聖剣の澄んだ光を返す。
「行きましょう」
ミレーヌが尋ねる。
「どこへ?」
セレスティアは、古戦場の方角を見た。
虹色の瞳が、封印地の歪みを遠く捉える。
だが、今度は呑まれない。
必要な分だけを見る。
選ぶために見る。
「グランガルドへ」
セレスティアは微笑んだ。
「ゴルド親方に、叱られに行きますわ」
ルシェルが思わず筆を止めた。
「姉上。そこは報告に行く、では?」
「もちろん報告もします」
王妃が微笑む。
「食事をしてから行きなさい」
「はい」
王が頷いた。
「神格を得ても、出立前の食事は必要だ」
「はい、お父様」
ミレーヌが笑った。
「酒は?」
「飲みませんわ」
セレスティアは少しだけ胸を張った。
「さすがに、朝からは」
ルシェルが記録した。
「朝からは、という表現に注意」
「ルシェル」
「重要です」
王宮に、小さな笑いが広がった。
セレスティアは、その笑いを胸に刻んだ。
影はない。
目は虹色になった。
神格を得た。
それでも、この笑いを忘れない限り、自分はセレスティアでいられる。
そう思えた。
その日の昼。
白樹の森からグランガルドへ、精霊通信が送られた。
内容は、セレスティアが神格を得たこと。
影がなくなったこと。
虹色の神眼を得たこと。
精霊王から助言を受けたこと。
そして、近日中にグランガルドへ向かうこと。
通信を受けたゴルドは、しばらく黙っていた。
それから、鍛冶場の弟子へ言った。
「板を持ってこい」
古参の職人が尋ねた。
「何と書きますか」
ゴルドは少し考えた。
そして、当然のように言った。
「バカ姫、神になって影が消える」
「それはよろしいのですか」
「事実だ」
「他には?」
ゴルドは、少しだけ目を細めた。
「虹の目でも、飯は食え」
古参の職人は笑った。
「姫様が抗議されますな」
「抗議できるなら、まだセレスティアだ」
その日、グランガルドの鍛冶場の前には、新しい看板が立った。
セレスティア、神格獲得。
影なきエンシェントエルフとなる。
虹の神眼を得る。
バカ姫、虹の目でも飯は食え。
町の者たちは、それを読んで笑った。
だが、誰も軽くは見なかった。
神となった王女。
影なき剣神。
それでも飯を食えと書かれる姫。
その看板は、グランガルドらしい祝福だった。
そして、セレスティアにとっては、神となっても自分を繋ぎ止めてくれる、大切な錨だった。




