第29話 十の森の試練 後編
灰樹の森は、静かな森だった。
白樹の森のような清らかさではない。
赤樹の森のような熱もない。
黒樹の森のような影の圧もない。
ただ、終わったものの気配だけがあった。
灰色の葉。
灰色の幹。
灰色の風。
歩くたび、足元で乾いた葉が崩れる。
それは死ではなく、終わりの音だった。
灰樹の精霊王は、老人の姿をしていた。
灰の外套をまとい、枯れ枝の杖を持っている。
「白樹の姫よ」
「はい」
「ここでは、終わらせることを学ぶ」
セレスティアは、静かに頷いた。
灰樹の試練は、戦いではなかった。
森の奥に、一つの町があった。
幻の町。
そこには人々がいた。
笑い、働き、食べ、子どもを育て、祭りを行う。
とても穏やかな町だった。
だが、その町はすでに滅んでいた。
邪神戦争の時代、瘴気に呑まれ、住民は一人残らず死んだ。
灰樹の森が見せているのは、終わった町の残響だった。
「この町を残すか」
灰樹の精霊王が問うた。
「残す?」
「ここに留めれば、町は続く。幻として。記憶として。終わったことを終わらせずに」
セレスティアは、町を見た。
子どもが走っている。
母親が笑っている。
鍛冶屋が槌を振るっている。
老夫婦が並んで座っている。
終わらせたくない。
そう思った。
だが、同時に分かった。
これはもう生ではない。
過去の残響だ。
残し続ければ、いずれ歪む。
死者の軍勢と同じではない。
邪神の瘴気ではない。
だが、終わるべきものを終わらせない点では、危うい。
セレスティアは、黒星も閃白も抜かなかった。
町の中央に立ち、深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
幻の人々が、こちらを見る。
「あなた方の暮らしは、終わりました」
子どもが首を傾げる。
母親が微笑む。
鍛冶屋が槌を止める。
「ですが、なかったことにはしません」
灰色の風が吹いた。
「終わりを、終わりとして受け止めます」
町が、静かに薄れていく。
泣き叫ぶ者はいなかった。
怒る者もいなかった。
ただ、ようやく眠るように消えていった。
灰樹の精霊王は頷いた。
「灰樹の試練、了」
第六の祝福。
終わったものを終わらせる者への祝福。
次は、氷樹の森だった。
氷樹の森は、すべてが凍っていた。
白く凍った幹。
透明な葉。
風さえも氷の粒を含んでいる。
音が少ない。
感情まで凍るような森だった。
氷樹の精霊王は、氷の冠をいただく少女の姿をしていた。
「この森では、孤独を知れ」
セレスティアは、氷の森へ閉じ込められた。
黒星も閃白もある。
だが、声が届かない。
精霊もいない。
家族もいない。
ゴルドの怒鳴り声もない。
時間だけが過ぎる。
一日。
一月。
一年。
体感では百年にも思える孤独だった。
実際の時間は一夜だったという。
だが、セレスティアの中では違った。
誰にも呼ばれない。
誰にも叱られない。
誰にも心配されない。
死ねない神の時間とは、こういうものなのかもしれない。
セレスティアは、何度も膝をつきそうになった。
だが、そのたびに思い出した。
ミレーヌの手。
母の腕。
父の声。
ルシェルの記録。
ゴルドの看板。
バカ姫、自己犠牲禁止。
セレスティアは、氷の中で笑った。
「本当に、ひどい看板ですわね」
その笑いが、氷にひびを入れた。
孤独の中でも、自分はつながりを忘れていなかった。
氷樹の精霊王は、氷の向こうから現れた。
「孤独に耐えたか」
「いいえ」
「ほう」
「一人ではありませんでした」
「ここには誰もいなかった」
「記憶がありました」
セレスティアは胸に手を当てた。
「愛したものを忘れなければ、完全な孤独ではありません」
氷樹の精霊王は、少しだけ微笑んだ。
「氷樹の試練、了」
第七の祝福。
孤独の中でつながりを失わぬ者への祝福。
次は、風樹の森。
そこには道がなかった。
風が道を変える。
葉が地図を隠す。
歩けば場所がずれ、戻ろうとすれば別の場所へ出る。
風樹の精霊王は、声だけの存在だった。
「白樹の姫。ここでは、執着を手放せ」
風樹の試練では、セレスティアは目的地へ辿り着けなかった。
何度歩いても、同じ場所へ戻る。
黒星で木を斬って道を作ろうとすれば、風が木々を移動させる。
閃白で風の線を斬ろうとすれば、風そのものが形を変える。
力で進めない。
道を固定できない。
ならば、流れを読むしかない。
セレスティアは剣を納めた。
歩くことをやめた。
風の中に立ち、耳を澄ませた。
行きたい場所ではなく、風が運ぼうとする場所を見る。
すると、道が開いた。
進むべき方向は、自分の意思だけで決まるのではない。
時には、流れに身を任せることも必要だった。
風樹の精霊王の声が響く。
「お前は、すべてを剣で切り開こうとする」
「はい」
「だが、神となる者は、風を斬るだけでは足りぬ」
「はい」
「風に乗ることも知れ」
「承知しました」
「風樹の試練、了」
第八の祝福。
己の執着を手放し、流れを読む者への祝福。
次は、眠樹の森だった。
眠樹の森に入った瞬間、セレスティアは眠った。
神格を得れば、眠らずとも生きられる。
だが、この森では眠らされる。
眠樹の精霊王は、夢そのものだった。
夢の中で、セレスティアは何度も人生を繰り返した。
公爵令嬢として、剣を持たない人生。
ハイエルフ王女として、森から出ない人生。
ゴルドに会わない人生。
黒星と閃白を持たない人生。
眷属セレスティアを見なかった人生。
どれも穏やかだった。
幸せだった。
そこでは誰もセレスティアを責めなかった。
誰も死なせなかった。
邪神とも戦わなかった。
だが、どの夢でも、セレスティアは最後に目を覚ました。
「これは、わたくしの願いではありません」
眠樹の精霊王が問う。
「穏やかな夢を拒むか」
「拒みません」
「ならば、なぜ覚める」
「わたくしには、起きて果たすことがあります」
夢の中で、前世のセレスティアが立っていた。
黒星を右手に、閃白を左手に。
魂のない瞳ではなく、かつての自分の目で。
前世のセレスティアは微笑んだ。
「行くのね」
「はい」
「死んで守らないで」
「はい」
「生きて終わらせて」
「はい」
夢が解けた。
眠樹の精霊王は告げた。
「眠樹の試練、了」
第九の祝福。
安らかな逃避を拒み、目覚めて進む者への祝福。
最後は、影樹の森だった。
影樹の森は、十の森の中で最も深いと言われていた。
そこには光がある。
だが、光があるからこそ影が濃い。
影樹の精霊王は、セレスティアと同じ姿をして現れた。
ハイエルフ王女セレスティア。
前世の剣聖セレスティア。
眷属セレスティア。
それらが重なったような姿だった。
「最後の試練は、己である」
影樹の森では、三人のセレスティアが現れた。
一人目は、前世の剣聖。
「命を燃やせば、届くわ」
二人目は、眷属セレスティア。
「疲れず、痛まず、迷わず斬ればよい」
三人目は、神格を得た未来のセレスティア。
「見守る側になれば、個の痛みなど薄れていく」
セレスティアは、三人を見た。
前世の自分。
邪神に使われた自分。
未来にあり得る自分。
どれも、自分から切り離せない影だった。
否定すれば、影は濃くなる。
受け入れすぎれば、呑まれる。
セレスティアは、黒星を抜かなかった。
閃白も抜かなかった。
ただ、立った。
「前世のわたくし」
一人目が微笑む。
「あなたは間違っていません」
前世の剣聖の目が揺れた。
「ですが、今生のわたくしは、同じ終わり方を選びません」
一人目の影が薄れる。
次に、眷属セレスティアを見る。
「あなたは、わたくしではありません」
魂のない影が、黒い目を向ける。
「ですが、あなたは救うべきわたくしの残骸です」
眷属の影が震えた。
「必ず解放します」
二人目の影が薄れる。
最後に、神格を得た未来の自分を見る。
「わたくしは、見守る側になるのでしょう」
未来の影は静かに頷く。
「ですが、見下ろす神にはなりません」
セレスティアは胸に手を当てた。
「わたくしは、愛したものを忘れません」
未来の影が微笑んだ。
「ならば、行きなさい」
三つの影が消えた。
影樹の精霊王が姿を現す。
「影樹の試練、了」
第十の祝福。
己の影を否定せず、呑まれず、共に立つ者への祝福。
十の試練が終わった。
白樹。
赤樹。
黒樹。
青樹。
金樹。
灰樹。
氷樹。
風樹。
眠樹。
影樹。
全ての精霊王が、セレスティアを認めた。
かかった歳月は、十年。
最短だった。
通常なら百年かかってもおかしくない試練を、セレスティアは十年で越えた。
修行熱心という言葉では足りない。
彼女は一度決めた道を、愚直に、速やかに、迷わず進んだ。
だが、焦りではなかった。
怒りでもなかった。
十年の間に、セレスティアは変わった。
剣は鋭さを失わず。
王女としての気品も失わず。
だが、どこか深くなった。
耐えがたい時間の入口に立つ者の静けさを得ていた。
十年後。
白樹の森の泉に、十の精霊王の祝福が集まった。
セレスティアは、泉の前に立っていた。
背には黒星。
左腰には閃白。
二振りは十年の試練を共に越えた。
白樹の精霊王が現れる。
その周囲に、他の九柱の精霊王の光が並んだ。
赤。
黒。
青。
金。
灰。
氷。
風。
眠。
影。
白樹の精霊王が告げる。
「セレスティア・リュミエール・アルヴァレイン」
「はい」
「十の試練を越えた」
「はい」
「記憶を受け止め」
「はい」
「怒りを芯とし」
「はい」
「剣を失っても己を失わず」
「はい」
「過去を掴まず」
「はい」
「選ぶ痛みを知り」
「はい」
「終わるものを終わらせ」
「はい」
「孤独の中でつながりを忘れず」
「はい」
「風に乗り」
「はい」
「夢から目覚め」
「はい」
「己の影と共に立った」
セレスティアは、深く頭を下げた。
「はい」
十の光が、セレスティアへ降りた。
白い髪が、さらに淡い銀光を帯びる。
長い耳に、精霊の紋様が浮かぶ。
瞳の翠が深くなり、その奥に星のような光が宿る。
身体が作り替えられる。
不老不死。
超常的な回復。
疲労しない肉体。
眠らずとも生きられる身体。
尋常ならざる精神力。
無詠唱で魔法を連発できる魔法力。
世界の内側に生きながら、世界の外の理へ触れる力。
それらが、セレスティアの中に満ちていく。
だが、歓喜はなかった。
ただ、重かった。
耐えがたい時間。
死ねない在り方。
見守る側へ移る覚悟。
それを受け止める静けさがあった。
セレスティアは、ゆっくりと目を開けた。
白樹の精霊王が告げる。
「ここに、セレスティアは神格を得た」
十の精霊王の光が、一斉に揺れた。
「エンシェントエルフの誕生である」
黒星が、背で鳴った。
深い黒銀の光が、さらに重く沈む。
神格位から、大神格位へ。
不壊。
鋭刃。
そして、新たな特性。
重量自在。
黒星の重さが、セレスティアの意思に従って変わる。
背負う時は羽のように。
振る時は流れのように。
敵に当たる瞬間は山のように。
ただし、セレスティア以外が持てば、神格そのものの重みに押し潰される。
黒星は、大神格位へ至った。
閃白もまた、白く鳴った。
白銀と金白の光が重なり、さらに聖なる輝きを帯びる。
神格位から、大神格位へ。
永続斬撃。
破邪。
そして、新たな特性。
聖剣。
邪、穢れ、瘴気、呪い、不死、邪神性、負の神格に対する浄化干渉。
閃白の斬撃は、邪なる理そのものを祓う。
破邪の上位特性。
魂の座に巣食う邪神格へ届くための力。
閃白は、大神格位へ至った。
セレスティアは、黒星を抜いた。
重くない。
だが、軽くもない。
黒星は、望む重さでそこにあった。
次に閃白を抜く。
白い刃は、ただの斬撃ではない。
聖なる線を置く剣になっていた。
セレスティアは、二振りを構えた。
黒星。
大神格位。
閃白。
大神格位。
そして、セレスティア自身。
神格を得たエンシェントエルフ。
十年前とは、まったく違う。
だが、まったく違う存在になったわけではなかった。
白樹の泉のそばで、ミレーヌが泣いていた。
ルシェルは記録の筆を止め、ただ見つめていた。
王妃は目を伏せ、祈るように手を組んでいた。
王は静かに頷いた。
そして、森の入口近く。
十年ぶりに白樹の森へ来ていたゴルドが、腕を組んで立っていた。
髭は少し伸びた。
皺も増えた。
だが、目は変わらない。
ゴルドは、セレスティアを見て言った。
「戻ったか」
セレスティアは黒星と閃白を納めた。
そして、微笑んだ。
「戻りましたわ」
「飯は食ったか」
セレスティアは、一瞬だけ目を見開いた。
それから、十年前と同じように答えた。
「まだです」
「なら食え」
「はい」
「酒は」
「祝いの席なら少しだけ」
「駄目だ」
「親方」
「神格を得ても、酒強姫は信用ならん」
「却下ですわ」
その言葉に、ミレーヌが泣きながら笑った。
ルシェルも吹き出した。
王妃も微笑み、王も目元を緩めた。
セレスティアは、胸の奥で理解した。
自分は神格を得た。
エンシェントエルフになった。
死ねない時間に踏み込んだ。
世界を見守る側へ近づいた。
けれど。
忘れていない。
父も。
母も。
弟も。
妹も。
ゴルドも。
白樹の森も。
グランガルドも。
前世の家族も。
死者たちも。
すべて、ここにある。
セレスティアは、静かに息を吸った。
もう、眷属セレスティアと戦える。
邪神格へ届く。
前世の肉体を解放できる。
しかし、焦らない。
命を燃やさない。
生きて勝つ。
十の精霊王の祝福を受けたセレスティアは、黒星と閃白を携え、ついに再戦の地へ戻る資格を得た。
その日のうちに、グランガルドへ通信が送られた。
だが、ゴルドは先に看板を用意していた。
白樹の森から戻った弟子が、鍛冶場の前にそれを立てる。
十の試練、最短十年で突破。
セレスティア、神格獲得。
黒星・閃白、大神格位到達。
バカ姫、神になっても飯を食え。
町の者たちは、それを読んで笑った。
だが、その笑いの中には、少しの涙と、大きな誇りが混じっていた。
神格を得ても。
エンシェントエルフになっても。
セレスティアは、セレスティアだった。
そして、いよいよ。
五十一年前に途切れた物語を終わらせる時が近づいていた。




