第28話 十の森の試練 前編
白樹の試練は、記憶を受け止めることから始まった。
三賢者の封印。
命を代価にした大封印。
前世の剣聖セレスティアの死。
公爵家断絶。
眷属セレスティア。
邪神の問い。
それらを知った時点で、普通なら何年も立ち止まる。
だが、セレスティアは立ち止まらなかった。
悲しまなかったわけではない。
苦しまなかったわけでもない。
ただ、そこに座り込まなかった。
白樹の古記録庫で、セレスティアは毎日記録を読んだ。
邪神戦争の戦況。
三賢者の手記。
封印柱の構造。
前世の公爵家の記録。
かつての剣聖セレスティアに救われた兵士たちの証言。
そして、公爵家断絶後に抹消された報告書の写し。
読めば読むほど、胸は重くなった。
だが、セレスティアは逃げなかった。
読んだ。
覚えた。
泣いた。
そして、翌朝にはまた読んだ。
王妃は心配した。
「セレスティア。休みなさい」
「休んでおりますわ」
「それは、目を閉じているだけです」
「眠っております」
「古文書を抱えたまま眠るのは、眠っているとは言いません」
ルシェルは記録を整理しながら呆れた。
「姉上。通常、白樹の試練は数年かけて受け止めるものだそうです」
「では、数年分読みます」
「そういう意味ではありません」
「効率よく進めますわ」
「修行熱心にも限度があります」
ミレーヌは差し入れを持ってきた。
「お姉様、甘い実です」
「ありがとう、ミレーヌ」
「食べながら読まないでくださいね」
「はい」
「絶対ですよ」
「はい」
「本当に?」
「……少しだけ」
「お姉様」
ゴルドからは、グランガルド経由で短い通信が届いた。
飯を食え。
寝ろ。
命を燃やすな。
看板は増やしておく。
セレスティアは、その最後の一文で額に手を当てた。
「親方……」
しかし、白樹の試練は順調に進んだ。
なぜなら、セレスティアは記憶に呑まれなかったからである。
怒りはある。
悲しみもある。
前世の家族への痛みもある。
だが、それらを世界の正義と偽らなかった。
自分の私情として認めた。
その上で、邪神の行いは循環ではなく冒涜だと見定めた。
精霊王は、白樹の泉で言った。
「白樹の試練、了」
白い光がセレスティアへ降りた。
第一の祝福。
記憶を抱えても折れぬ者への祝福。
セレスティアは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「早い」
精霊王は言った。
「通常なら数年かかる」
「急いでおりますので」
「焦りではないな」
「はい」
「ならばよい」
こうして、セレスティアは白樹の試練を越えた。
次に向かったのは、赤樹の森だった。
赤樹の森は、燃えるような葉を持つ森だった。
幹は深い赤茶。
葉は夕陽のように赤く、風が吹くたび火の粉のような光を散らす。
そこを治める赤樹の精霊王は、炎の瞳を持つ女王だった。
「白樹の姫よ」
「はい」
「この森の試練は、怒りである」
セレスティアは、静かに頷いた。
赤樹の森は、怒りを隠させなかった。
むしろ、怒りを見せろと命じた。
前世の肉体を使われた怒り。
家族を滅ぼされた怒り。
死者を不死にされた怒り。
ゴルドの剣を穢された怒り。
それらが、赤い炎としてセレスティアの周囲に立ち上がった。
普通の者なら焼かれる。
怒りを否定すれば、内側から燃える。
怒りに呑まれれば、外側へ焼き尽くす。
赤樹の精霊王は問うた。
「怒りを捨てるか」
「捨てません」
「では、怒りで斬るか」
「斬りません」
「では、どうする」
「芯にします」
セレスティアは黒星に手を添えた。
「怒りはあります。消えません。消すつもりもありません」
赤い炎の中で、セレスティアはまっすぐ立った。
「けれど、怒りは刃筋ではありません」
「ほう」
「怒りは、わたくしが立つ理由です」
炎が静まった。
赤樹の精霊王は、愉快そうに笑った。
「よい。赤樹の試練、了」
第二の祝福。
怒りを燃やさず、芯にした者への祝福。
赤樹の森を越えたセレスティアは、次に黒樹の森へ向かった。
黒樹の森は、光の少ない森だった。
樹皮は黒く、葉も黒に近い深緑。
昼でも薄暗く、足元には影が溜まる。
黒樹の精霊王は、顔の見えない影の王だった。
「白樹の姫」
「はい」
「この森では、剣を禁ずる」
黒星と閃白が、セレスティアの背と腰から離された。
黒星は黒い根に包まれ。
閃白は影の水面に沈められた。
セレスティアは、無手で森に立った。
不安がなかったわけではない。
背に黒星がない。
左腰に閃白がない。
それだけで、身体の中心が失われたような気がした。
黒樹の森では、影が襲ってきた。
前世の自分の影。
眷属セレスティアの影。
公爵家の者たちの影。
剣を持たないセレスティアに、影は問い続けた。
剣がなければ、何者か。
黒星がなければ、立てるのか。
閃白がなければ、斬るべきものを見定められるのか。
セレスティアは、逃げなかった。
剣がないなら、魔法を使えばよい。
そう思った瞬間、影が笑った。
力を別の力で置き換えるだけなら、同じことだ。
セレスティアは目を閉じた。
黒星もない。
閃白もない。
それでも、呼吸はある。
意志はある。
守る理由はある。
斬るべき線を見定める心はある。
セレスティアは、無手で影の前に立った。
「わたくしは、剣を持つ者です」
影が揺れる。
「ですが、剣そのものではありません」
黒樹の森に、静かな光が落ちた。
「剣を失っても、わたくしはわたくしです」
影は消えた。
黒樹の精霊王は言った。
「黒樹の試練、了」
第三の祝福。
剣を失っても己を失わぬ者への祝福。
黒星と閃白は返された。
黒星は、以前よりわずかに軽く感じた。
閃白は、以前より静かに馴染んだ。
セレスティアは二振りへ微笑んだ。
「お待たせしましたわ」
黒星が重く応え。
閃白が澄んで震えた。
次は、青樹の森だった。
青樹の森は、深い湖の中にあるような森だった。
青い葉。
青い霧。
水の精霊が流れ、森全体が呼吸するように揺れている。
青樹の精霊王は、湖面に映る少年の姿をしていた。
「この森の試練は、流れである」
青樹の森では、過去が水になって流れた。
前世の幼いセレスティア。
公爵令嬢として剣を隠していた自分。
舞踏会を抜け出して稽古場へ行った自分。
ゴルドに黒星と閃白を頼んだ自分。
邪神戦争へ向かった自分。
死ぬなと言われ、笑って答えた自分。
それらが、水面に次々映った。
追えば沈む。
拒めば流される。
青樹の試練は、過去を掴ませない試練だった。
セレスティアは、何度も手を伸ばしかけた。
父と母の姿が映った時。
前世の公爵家の家族が笑っていた時。
ゴルドが五十一年前の若い顔で怒鳴っていた時。
だが、掴まなかった。
過去は戻らない。
取り戻すべきものと、戻らないものは違う。
眷属セレスティアは解放する。
だが、前世をやり直すことはできない。
セレスティアは、水面へ言った。
「流れてください」
水が静まる。
「わたくしは、忘れません」
青い森に、白い光が差した。
「けれど、過去の中には住みません」
青樹の精霊王は頷いた。
「青樹の試練、了」
第四の祝福。
過去を掴まず、記憶として抱く者への祝福。
次に向かったのは、金樹の森だった。
金樹の森は、豊かだった。
黄金の葉。
実りの香り。
小川のせせらぎ。
草花。
精霊獣。
人が見れば、楽園と呼ぶだろう森だった。
だが、その試練は最も鋭かった。
金樹の精霊王は、黄金の鹿の姿をしていた。
「白樹の姫よ」
「はい」
「この森は、選択を問う」
セレスティアの前に、十の幻が現れた。
燃える村。
崩れる橋。
泣く子ども。
倒れた兵士。
瘴気に侵された魔物。
助けを求める精霊。
封印柱の亀裂。
ゴルドの鍛冶場。
白樹の森。
そして、眷属セレスティア。
すべてを同時には救えない。
どれを選ぶか。
金樹の森は、豊かさの森であり、同時に配分の森だった。
守る力があっても、すべてを守れるとは限らない。
神となるなら、なおさらである。
セレスティアは、黒星に手を置いた。
前世なら、すべて救おうとしたかもしれない。
そのために命を燃やしたかもしれない。
だが、今は違う。
セレスティアは、目を閉じた。
優先順位。
救えるもの。
救えないもの。
今でなければ失われるもの。
後でも間に合うもの。
自分が行くべき場所。
他者に託せる場所。
それを、冷静に見た。
そして、封印柱の亀裂へ向かった。
黒星で瘴気を砕き、閃白で亀裂に絡む邪を祓う。
次に、助けを求める精霊へ向かった。
次に、子ども。
次に、橋。
すべては救えなかった。
燃える村の一部は燃え落ちた。
倒れた兵士の何人かは消えた。
ゴルドの鍛冶場の幻は、煙に包まれた。
ミレーヌの泣き声のような幻もあった。
それでも、セレスティアは戻らなかった。
最初の選択を変えなかった。
金樹の精霊王が問うた。
「後悔はあるか」
「あります」
「ならば、選択を誤ったか」
「分かりません」
「では、なぜ進む」
「選んだからです」
セレスティアは、真っ直ぐ立った。
「選ばなかったものを忘れません」
「ほう」
「けれど、選べなかった痛みに潰れて、次の選択を誤るわけにはいきません」
金樹の鹿は、静かに頭を下げた。
「金樹の試練、了」
第五の祝福。
すべてを救えぬ痛みを知り、それでも選ぶ者への祝福。
白樹。
赤樹。
黒樹。
青樹。
金樹。
五つの試練を越えた時、すでに三年が過ぎていた。
通常ならば、それぞれに数年。
十の森すべてを巡るなら、五十年、百年とかかる者もいる。
だが、セレスティアは三年で五つを越えた。
白樹の王宮では、ルシェルが記録を見て頭を抱えた。
「早すぎる」
王妃は心配そうに言った。
「無理をしていないかしら」
王は静かに答えた。
「無理はしていない。だが、恐ろしく速い」
ミレーヌは、姉から届いた手紙を大切に抱えていた。
「お姉様、また強くなったのですね」
ルシェルは呟いた。
「強くなったというより、遠くへ行っているようで少し怖い」
グランガルドでは、ゴルドがその報告を読んでいた。
鍛冶場の前には、また看板が増えていた。
バカ姫、五つの森を突破。
修行速度、親方基準でも速い。
自己犠牲は今のところ未確認。
古参の職人が尋ねた。
「親方、喜ばしいのでは?」
ゴルドは腕を組んだ。
「喜ばしい」
「では、その顔は」
「速すぎる」
「心配ですか」
「当たり前だ」
ゴルドは、封印地の監視図を見た。
眷属セレスティアは、まだ封印地を出ていない。
前世の黒星と閃白にも、大きな変動はない。
だが、邪神格の反応は、時折強くなっている。
まるで、セレスティアの成長に反応しているかのように。
ゴルドは低く呟いた。
「急ぐなとは言わねぇ」
だが、と続ける。
「壊れるなよ、バカ姫」
その頃、セレスティアは六つ目の森へ向かっていた。
灰樹の森。
そこは、終わったものの森と呼ばれていた。
灰色の葉が舞う森。
燃え尽きた後に残るもの。
終焉を学ぶための森。
セレスティアは、森の入口で足を止めた。
背には黒星。
左腰には閃白。
二振りの神格位の剣は静かだった。
だが、セレスティアには分かっていた。
ここから先は、さらに重い。
守るだけでは進めない。
終わらせることを学ばなければならない。
セレスティアは、灰色の森へ一礼した。
「参ります」
灰のような風が吹いた。
十の試練は、後半へ入る。




