第27話 神となる者への問い
白樹の試練は、剣を振ることではなかった。
白樹の森の古記録庫。
白い根が幾重にも絡み合い、その奥に作られた静かな空間。
そこに、セレスティアは座っていた。
目の前には、三賢者の封印記録が広げられている。
大賢者アルトリウス。
星詠みの賢者メルティナ。
竜脈術師ガーランド。
三人は、邪神戦争末期に邪神本体を封じた。
魂を。
名と記憶を。
魔力核と肉体を。
それぞれ代価として捧げた。
理封の柱。
星封の柱。
地封の柱。
三つの封印柱によって、邪神本体は神代封印層へ押し込まれた。
だが、完全には終わらなかった。
邪神格の欠片が残った。
その欠片は、死してなお立っていた剣聖セレスティアの肉体に入り込んだ。
魂の座に邪神格が入り、前世の肉体は封印地の護り手にされた。
そこから先は、もう知っている。
公爵家は断絶した。
家族も家臣も、前世のセレスティアの肉体によって斬られた。
黒星と閃白は、負の神格を宿した可能性がある。
セレスティアは、古文書の一節を指でなぞった。
そこには、星詠みの賢者メルティナが残したとされる言葉があった。
封印は勝利ではない。
猶予である。
邪神は眠らず。
封印は永遠ではなく。
命を代価にした封印は、命ある者によって越えられねばならない。
剣聖よ。
今度は、死んで守るな。
生きて封じよ。
セレスティアは、静かに目を閉じた。
前世の自分は、死んで守った。
それは間違いではなかった。
あの時、誰かが退路を守らなければ、兵も負傷者も全滅していた。
だから、前世の自分は剣を振った。
魂が尽きかけても。
身体中を斬られても。
黒星を右手に。
閃白を左手に。
死してなお立っていた。
けれど、その死は邪神に使われた。
ならば、今生では違う道を選ばなければならない。
セレスティアは、古文書を閉じた。
「命を代価にする封印を、命ある者が越える」
声は、古記録庫に静かに響いた。
その時。
白樹の根の奥で、淡い光が揺れた。
精霊光ではない。
白樹の森そのものが、呼吸するように光った。
セレスティアは顔を上げる。
古記録庫の奥。
白い根の間に、精霊王の姿が現れた。
泉の上に現れた時とは違い、今は根と光の間に立っている。
森そのものが、記録庫に形を持って現れたようだった。
「セレスティア」
「精霊王」
セレスティアは立ち上がり、頭を下げた。
「記録を読んだか」
「はい」
「三賢者が何を捧げたか」
「読みました」
「剣聖セレスティアが何を守り、何を失ったか」
「はい」
「ならば、次の問いを与える」
セレスティアは、静かに息を吸った。
「問い」
「そうだ」
精霊王の声は、古記録庫の白い根の奥へ広がっていく。
「お前はいずれ、眷属セレスティアと対峙する」
「はい」
「その時、邪神とも言葉を交わすことになる」
セレスティアの瞳が細くなった。
「邪神と」
「そうだ」
「封印されている邪神本体が、眷属セレスティアを通して語りかけるのですか」
「その可能性が高い」
セレスティアは、前世の肉体を思い出した。
右手に前世の黒星。
左手に前世の閃白。
魂のない瞳。
そこに宿る邪神格。
もし、その奥から邪神本体が語りかけるなら。
自分は、前世の自分の顔をした存在から、邪神の言葉を聞くことになる。
それは、剣で斬られるよりも重いかもしれない。
精霊王は続けた。
「邪神は、ただの悪ではない」
セレスティアは沈黙した。
「邪神にも、邪神なりの理がある」
「理」
「邪神は、自らを悪とは思っていない」
古記録庫の光が、少し暗くなる。
「邪神にとって、世界とは停滞する器である」
「停滞する器」
「命は増え、文明は肥大し、神々は守ることばかりを選ぶ」
「……」
「だが、増え続けるものは、いずれ腐る」
セレスティアは、静かに聞いていた。
「生まれること。育つこと。栄えること。朽ちること。滅びること。そのすべてが循環である」
「はい」
「邪神は、滅びもまた世界の機能だと考えている」
「滅びを」
「そうだ」
精霊王の声は、邪神を擁護しているわけではなかった。
ただ、神としての理を語っている。
「守る神だけでは、世界は歪む」
「はい」
「育てる神だけでも、世界は歪む」
「はい」
「ならば、滅びをもたらす神もまた、世界には必要である」
セレスティアは、胸の奥が重くなるのを感じた。
滅び。
死。
終わり。
それらを否定したい気持ちはある。
だが、完全には否定できない。
十の瘴気溜まりで、セレスティアは多くの死者を葬送した。
死者は眠るべきだ。
終わるべきものは、終わらなければならない。
終わりがあるから、命は進む。
それは分かる。
だが。
邪神がしたことは、終わりではなかった。
死者を眠らせなかった。
竜を狂わせた。
魂の座を穢した。
前世の身体を操った。
家族を、愛した者の肉体で斬らせた。
それは滅びなのか。
それは循環なのか。
精霊王は、セレスティアの思考を読んだように言った。
「邪神は問うだろう」
古記録庫の空気が、さらに静かになる。
「セレスティア」
「はい」
「お前の正義とは、世界の正義か、と」
セレスティアは、息を止めそうになった。
「わたくしの正義が」
「そうだ」
精霊王は続ける。
「お前は邪神を邪と呼ぶ」
「はい」
「だが、それは世界の正義か」
「……」
「それとも、お前が守りたい者だけを守る個の正義か」
セレスティアは、すぐには答えられなかった。
精霊王の問いは続く。
「神格を得たお前は、もはやただの剣士ではない」
「はい」
「神となった者が、己の情で邪神を斬るのか」
「はい」
「それを正義と呼ぶのか」
セレスティアの拳が、わずかに握られた。
「神となれば、守るだけが役目ではない」
「……はい」
「滅びをもたらすのもまた、神の役目である」
その言葉は、重かった。
神となること。
不老不死となること。
世界に生きる側から、見守る側になること。
そして、場合によっては滅びをもたらす側にもなること。
セレスティアは、ゆっくりと息を吐いた。
「精霊王」
「何だ」
「わたくしは、邪神を止めたいと思っています」
「知っている」
「前世の身体を利用されたから」
「そうだ」
「家族を殺されたから」
「そうだ」
「死者を眠らせず、不死の軍勢としたから」
「そうだ」
「瘴気によって魔物も竜も歪めたから」
「そうだ」
「その怒りは、私情ですか」
「私情である」
精霊王は、迷わず答えた。
セレスティアは目を伏せた。
精霊王は続ける。
「だが、私情であること自体は罪ではない」
セレスティアは顔を上げた。
「私情を世界の正義と偽ることが危ういのだ」
「……」
「お前が邪神を憎む理由には、個の痛みがある」
「はい」
「前世の死。公爵家の断絶。家族の喪失。ゴルドの苦しみ。眷属セレスティアへの怒り」
「はい」
「それらをなかったことにして、世界のためだとだけ言えば、お前の神格は歪む」
セレスティアは、その言葉を胸に受けた。
自分の怒りを否定してはいけない。
だが、それを世界の正義と偽ってもいけない。
精霊王は言う。
「邪神はそこを突く」
「はい」
「お前は、世界のために我を斬るのか」
「……」
「それとも、自分の痛みのために我を斬るのか」
「……」
「神となったお前が、その区別をつけられぬなら、邪神格に呑まれる」
セレスティアは、古戦場の眷属セレスティアを思い出した。
魂の座に邪神格が入った肉体。
あれは魂なき器だった。
だが、もし今生の自分が神格を得ながら、怒りや私情を世界の正義と偽ればどうなるのか。
神格が歪む。
邪神格に似たものになるのかもしれない。
セレスティアは、静かに問うた。
「では、わたくしは何を答えればよいのですか」
「それを、十の試練で見つける」
「今すぐ答えるものではない」
「そうだ」
精霊王は頷いた。
「答えを借りることはできぬ」
「はい」
「王の答えでも、ゴルドの答えでも、三賢者の答えでもない」
「はい」
「神格を得るお前自身の答えが必要だ」
「はい」
セレスティアは、少し沈黙した。
だが、何も言わないままではなかった。
「今のわたくしに、完全な答えはありません」
「よい」
「ですが、今、思うことはあります」
「言え」
セレスティアは、古文書へ目を落とした。
三賢者の封印。
命を対価にした者たち。
邪神に操られた前世の身体。
死者の軍勢。
瘴気溜まり。
補給陣地跡の邪竜。
それらを思い出しながら、言葉を選んだ。
「滅びそのものは、否定できません」
精霊王は黙っている。
「終わるべきものが終わることも、世界の理なのでしょう」
「そうだ」
「死者は眠るべきです」
「そうだ」
「役目を終えたものが去ることも、必要なのでしょう」
「そうだ」
「けれど」
セレスティアの声が、少しだけ低くなる。
「死者を眠らせず、不死の軍勢にすることは、滅びではありません」
白樹の根が、わずかに光った。
「魂の座を穢し、死した肉体を操ることは、循環ではありません」
「……」
「愛した者の身体で、家族を斬らせることは、終わりではありません」
黒星が背で重く沈む。
閃白が左腰で白く震える。
「それは、冒涜です」
セレスティアは、まっすぐ精霊王を見た。
「少なくとも、今のわたくしはそう思います」
精霊王は、目を細めた。
「では、セレスティア」
「はい」
「お前が邪神を斬った後、世界が腐ったならどうする」
セレスティアは息を呑んだ。
精霊王の問いは、邪神の問いを先取りしているのだと分かった。
「命が増えすぎ、文明が驕り、神々が守ることしか選ばず、世界が自らの重みに沈む時」
「はい」
「お前は滅びを選べるか」
セレスティアは答えられなかった。
「お前は、自らの愛するものを終わらせる神になれるか」
「……」
「神格とは、守る力ではない」
「はい」
「終わらせる覚悟でもある」
古記録庫の光が、静かに揺れる。
セレスティアは、胸の奥を掴まれたような感覚を覚えた。
守りたい。
それが自分の原点だ。
前世でも、退路を守るために死んだ。
今生でも、前世の身体を解放するために神格を求めている。
だが、神となるなら、それだけでは足りない。
守るだけでは、世界は歪む。
滅びもまた、神の役目。
では、自分は何を終わらせるのか。
何を守るのか。
どこまでが循環で、どこからが冒涜なのか。
その線を、誰かに決めてもらうことはできない。
神格を得るなら、自分で決めなければならない。
セレスティアは、静かに言った。
「今は、まだ答えられません」
「よい」
「ですが、逃げません」
「ほう」
「守るだけでは足りないなら」
「……」
「滅びを否定するだけでは届かないなら」
「……」
「わたくしは、何を終わらせ、何を送るべきなのかを学びます」
セレスティアは、胸に手を当てた。
「それが、十の試練なのですね」
精霊王は、静かに頷いた。
「そうだ」
その言葉は、白樹の根に染み込むように響いた。
「十の試練とは、神になるための力を得る道ではない」
「はい」
「神となった後、何を守り、何を終わらせるかを知る道である」
「はい」
「お前の正義が、世界の正義である必要はない」
セレスティアは目を上げた。
「ですが」
「だが、お前の正義を世界の正義と偽ってはならぬ」
「はい」
「お前は、お前の痛みを抱えたまま神となる」
「はい」
「その痛みを、他者を裁く刃にするな」
「はい」
「その痛みを、邪を祓い、死者を送り、生きる者を守る在り方へ変えよ」
セレスティアは、その言葉を深く胸に刻んだ。
痛みを消すのではない。
怒りを否定するのでもない。
それを在り方へ変える。
黒星の芯のように。
閃白の線のように。
精霊王は続けた。
「お前の神格は、守護だけでは成り立たぬ」
「はい」
「剣だけでも足りぬ」
「はい」
「破邪」
「はい」
「葬送」
「はい」
「守護」
「はい」
「終焉」
セレスティアは、その言葉に息を止めた。
「終焉」
「そうだ」
精霊王は言う。
「お前が至る神格は、邪を祓い、死者を送り、守るべきものを守り、終わるべきものを終わらせる剣の神格となる」
「剣の神格」
「単なる剣神ではない」
「はい」
「葬送と破邪と守護と終焉を背負う剣神だ」
セレスティアは、黒星と閃白を感じた。
黒星。
不壊。
鋭刃。
守るために前へ出る剣。
閃白。
永続斬撃。
破邪。
邪を祓い続ける剣。
そこに、自分の在り方が加わる。
葬送。
守護。
終焉。
死者を送ること。
生きる者を守ること。
終わるべきものを終わらせること。
それが、邪神に対抗するための神格。
精霊王は言った。
「邪神は、お前に問う」
「はい」
「お前の正義は世界の正義か、と」
「はい」
「神となったお前に、滅びを否定する資格があるのか、と」
「はい」
「その時、お前は答えねばならぬ」
「はい」
「剣で斬る前に、在り方で立て」
セレスティアは、深く頭を下げた。
「承知しました」
「白樹の試練は、記憶を受け止める試練」
「はい」
「そして、問いを受け取る試練でもある」
「はい」
「お前は今日、邪神の問いを知った」
「はい」
「答えは、まだない」
「はい」
「ならば、試練の中で作れ」
「必ず」
精霊王の姿が、少しずつ薄れていく。
だが、最後にもう一度、声が響いた。
「セレスティア」
「はい」
「邪神を悪と呼ぶことは容易い」
「はい」
「だが、神となる者は、敵の理を理解した上で斬らねばならぬ」
「はい」
「理解と許容は違う」
「はい」
「邪神の理を理解せよ」
「はい」
「その上で、許せぬものを斬れ」
セレスティアは、静かに答えた。
「はい」
精霊王は消えた。
古記録庫の光が、元の静けさを取り戻す。
セレスティアは、しばらくその場に立っていた。
邪神の正義。
滅びの理。
世界の循環。
自分の私情。
神格を得る者の在り方。
そのすべてが、胸の中で重く沈んでいる。
簡単な答えはない。
綺麗な答えもない。
だが、逃げることはできない。
セレスティアは、古文書をもう一度開いた。
三賢者の記録。
命を代価にした封印。
星詠みの賢者メルティナの言葉。
今度は、死んで守るな。
生きて封じよ。
セレスティアは、小さく呟いた。
「生きて封じる」
そして、少し考えた。
「いいえ」
黒星が背で重く応える。
閃白が左腰で澄んだ気配を返す。
「生きて終わらせる」
それは、まだ未完成の答えだった。
だが、セレスティアの中に生まれた最初の言葉だった。
その頃。
古記録庫の外では、ルシェルが待っていた。
手には、新しい写しの束。
三賢者の封印記録。
星封の柱の記述。
邪神戦争末期の戦況。
そして、精霊王からの問いを記録するための白紙。
セレスティアが出てくると、ルシェルは静かに言った。
「姉上」
「ルシェル」
「顔が、難しいです」
「難しい問いを受けましたから」
「邪神に関することですか」
「ええ」
ルシェルは、少し考えてから言った。
「父上と母上にも共有しますか」
「します」
「ゴルド親方にも?」
「もちろん」
「では、写しを作ります」
セレスティアは少し微笑んだ。
「ありがとうございます」
「看板にはしません」
「珍しいですわね」
「これは、看板にするには重すぎます」
「そうですわね」
その時、遠く離れたグランガルドで、ゴルドがくしゃみをした。
鍛冶場の前には、相変わらず看板が並んでいる。
三賢者は命で封じた。
バカ姫は生きて勝て。
古参の職人が、ふと呟いた。
「親方、新しい看板は増やさないのですか」
ゴルドは腕を組んだ。
「まだだ」
「まだ」
「あいつが答えを見つけたら、その時だ」
「何と書くのです」
ゴルドは少し考えた。
「邪神の理を聞いても、バカ姫は斬る」
古参の職人は苦笑した。
「結局、バカ姫なのですね」
「当たり前だ」
ゴルドは、封印地の方角を見た。
「だが、ただ斬るんじゃねぇ」
声は低かった。
「何を終わらせるか、分かってから斬るんだ」
鍛冶場の火が揺れる。
遠く白樹の森では、セレスティアが三賢者の記録を抱えて歩き出していた。
十の試練は、まだ始まったばかり。
白樹の試練。
記憶を受け止め、問いを受け取る試練。
邪神は、いずれ問う。
お前の正義は世界の正義か。
神となったお前に、滅びを否定する資格があるのか。
その答えを探すため、セレスティアは次の森へ向かうことになる。
神となる者への問いは、静かに彼女の胸に刻まれた。




