第20話 邪神封印の真実
邪神の別眷属討伐へ向かう前日。
ゴルドの鍛冶場に、一通の精霊通信が届いた。
白樹の森からだった。
セレスティアは、鍛冶場の奥で黒星の手入れをしていた。
黒銀の剣身に、ゴルドから渡された黒い砥石を滑らせる。
強く研ぎすぎない。
刃だけを見るのではなく、剣身の芯に魔力を通す。
黒星は、三カ月前よりも静かに応えるようになっていた。
重い。
だが、ただ重いのではない。
深い。
黒星の奥に、何かが沈み始めている。
準神格位へ至るための器が、少しずつ形になっている。
まだ届いていない。
だが、近づいてはいる。
その時、鍛冶場の入口で弟子の声がした。
「親方! 白樹の森から精霊通信です!」
ゴルドは、作業台で閃白の導線記録を見ていた。
顔を上げる。
「セレスティア宛か」
「王家連名です。姫様と親方宛てです」
セレスティアは黒星から手を離した。
「王家連名」
嫌な予感ではない。
だが、軽く見てよいものでもない。
白樹の森の王家が、ゴルド親方宛てにも通信を送ってきた。
つまり、ただの見舞いではない。
セレスティアは立ち上がった。
「読みましょう」
ゴルドは鼻を鳴らした。
「どうせ、また王女の名誉に配慮しろとか書いてあるんだろうが」
「そこは配慮してくださいませ」
「必要な看板は撤去しねぇ」
「必要性の判断が親方基準なのが問題ですわ」
「親方基準で何が悪い」
「すべてですわ」
弟子たちが小さく笑った。
だが、精霊通信の光が強まると、鍛冶場は静かになった。
翠の光が、作業台の上に広がる。
白樹の森の精霊術式。
そこには、王家の紋章と、正式な封印が刻まれていた。
セレスティアは、姿勢を正した。
ゴルドも、無言で腕を組む。
通信の光が文字を形作る。
最初は、王からの言葉だった。
生きて戻ったことを、まず良しとする。
敗北を恥じるな。
勝てぬと知り、退いた判断を評価する。
傷を治し、鍛え、必要な時は白樹の森へ戻れ。
精霊王への道は、開いておく。
父と母は、お前の帰る場所を守っている。
セレスティアは、その文字を見つめたまま動かなかった。
胸の奥が、静かに熱くなる。
叱責を覚悟していた。
無断で森を出た。
前世の記憶を辿った。
古戦場へ行き、眷属セレスティアに敗北し、怪我をした。
王女としては、叱られるべきことばかりである。
だが、最初に書かれていたのは、帰る場所を守っている、という言葉だった。
セレスティアは、ゆっくりと息を吐いた。
「……お父様」
ゴルドは横目で見る。
「泣くなよ」
「泣いておりません」
「目が少し潤んでいる」
「精霊通信の光が眩しいのです」
「そういうことにしておいてやる」
「ありがとうございます」
「調子に乗るな」
「はい」
通信は続いた。
次に現れたのは、王妃からの言葉だった。
怪我を軽く見てはなりません。
前世の閃白による傷ならば、肉体だけでなく魔力線の治癒も必要です。
高位精霊薬と白樹蜜を送ります。
よく食べ、眠りなさい。
酒は控えること。
セレスティアは、最後の一文で目を細めた。
「お母様まで」
ゴルドが即座に言う。
「正しい」
「わたくし、修行中は飲んでおりません」
「だから書かれたんだろうが」
「酒強姫という呼び名が白樹の森まで届いている気がしますわ」
「届いているだろうな」
「不本意です」
「酒でわしに勝つからだ」
「あれは親方が勝負を受けたからです」
「うるせぇ」
通信の次の部分で、ルシェルからの短い追伸が現れた。
姉上。
看板の写しを王家記録として保管するかどうか、父上が機密扱いにしました。
なお、私は歴史資料として価値があると考えています。
次に帰ってきたら、詳しく聞きます。
セレスティアは、無言で額に手を当てた。
「ルシェル……」
ゴルドが少し笑った。
「弟は分かっているじゃねぇか」
「分かっておりませんわ。何を歴史資料にしようとしているのですか」
「バカ姫看板集だろう」
「その名称は絶対に却下ですわ」
さらに、ミレーヌからの追伸が続いた。
お姉様。
無事でよかったです。
黒星の姫でも、武器庫姫でも、お姉様はお姉様です。
でも、酒強姫は少し面白いです。
帰ってきたら、抱きしめさせてください。
セレスティアは、少しだけ微笑んだ。
「ミレーヌまで」
ゴルドは何も言わなかった。
鍛冶場の空気が、少しだけ柔らかくなる。
だが、その後に現れた文面で、空気は一変した。
白樹の森王家、古記録庫調査報告。
邪神戦争末期の封印に関する記録。
セレスティアは表情を引き締めた。
ゴルドも、目を細める。
通信の光が、古い文書の写しを映し出した。
邪神戦争末期。
邪神本体の顕現は、人間王国、ドワーフ諸侯、エルフ諸森、精霊術師、賢者団を含む連合軍によって迎撃された。
剣聖セレスティアは、戦線崩壊時、撤退する兵と負傷者の退路を守るため、最前線に残留。
その間、後方では賢者団による邪神本体封印儀式が実行された。
セレスティアは、息を止めた。
「賢者団……」
ゴルドが低く言う。
「やはり、一人で封じたわけじゃなかったか」
通信は続く。
封印儀式は、通常の魔法体系では成立せず。
邪神本体を世界から完全に切り離すことは不可能。
そのため、賢者団は邪神本体を古戦場地下の神代封印層へ押し込み、複数の封印柱によって縛る方式を採用。
封印柱の成立には、賢者自身の生命、魂、魔力核、名、記憶、存在の一部を代価とする必要があった。
セレスティアの指が、わずかに震えた。
「生命の対価」
ゴルドの表情が険しくなる。
「命を杭にしたのか」
通信の文字は、さらに続いた。
確認されている封印参加者。
大賢者アルトリウス。
星詠みの賢者メルティナ。
竜脈術師ガーランド。
白銀塔の賢者ロゼリア。
無銘の結界師。
その他、記録欠損。
封印後、賢者団の生還者なし。
セレスティアは、目を伏せた。
邪神戦争の記憶は、まだ完全ではない。
だが、名前のいくつかには覚えがあった。
大賢者アルトリウス。
厳しい老人だった。
いつも杖で床を叩いていた。
星詠みのメルティナ。
夜空を見るのが好きな、穏やかな女性だった。
ガーランド。
口の悪い竜脈術師。
ロゼリア。
白銀塔の賢者。
無銘の結界師。
顔は思い出せない。
だが、黒い外套と、いつも静かに結界陣を書いていた手だけは覚えている。
彼らは、死んだ。
邪神本体を封印するために。
生命を対価に。
魂を対価に。
名を対価に。
存在を対価に。
セレスティアは、低く呟いた。
「わたくしだけでは、なかったのですね」
ゴルドは黙っていた。
セレスティアは続ける。
「わたくしは退路を守り、賢者たちは封印を守った」
「そういうことだ」
「皆、死んだ」
「ああ」
「それでも、邪神は完全には消えなかった」
通信の最後の部分が光る。
封印は成立したが、完全封殺には至らず。
邪神格の欠片の一部が封印地周辺に残留。
封印内外への干渉痕あり。
後年、封印地の護り手と思われる異常存在の報告あり。
王家見解。
死してなお立っていた剣聖セレスティアの肉体に、邪神格の欠片が入り込んだ可能性が高い。
また、前世の黒星および閃白は、五十一年間にわたり邪神格の近傍に存在したため、負の神格を帯びている可能性を否定できない。
この見解は、ゴルド・ガルガンドの見立てと一致する。
ゴルドは、ゆっくりと息を吐いた。
「白樹の森も同じ見立てか」
セレスティアは、静かに頷いた。
「負の神格」
「認めたくはねぇがな」
ゴルドは作業台に手をついた。
「前の黒星と閃白は、ただの剣じゃなくなっている」
「はい」
「眷属セレスティアも、ただの死体ではない」
「はい」
「邪神格、負の神格、封印地の護り手。全部揃ってやがる」
セレスティアは、黒星を見る。
今生の黒星。
閃白を見る。
今生の閃白。
この二振りは、まだ準神格位にすら届いていない。
三カ月の修行で器は整ってきた。
だが、負の神格を帯びた前世の剣に対抗するには足りない。
邪神格を裂くには、さらに足りない。
通信の最後に、王家からの方針が続いた。
セレスティア殿下が白樹の森へ帰還した際、精霊王への謁見路を開く準備を進める。
ただし、祝福の儀は本人の意思に基づくものとする。
神格位への到達には、本人、黒星、閃白のいずれか、またはすべてが神性と接続する必要あり。
白樹の森は、その道を支援する。
セレスティアは、その文を見つめた。
精霊王。
白樹の森の根源に近い存在。
王家の血を引く自分でも、軽々しく謁見できる相手ではない。
しかし、そこへ至らなければならない。
生命を対価に封印した賢者たちと同じ道を辿らないために。
命を燃やして勝つのではなく、命を残して勝つために。
神格位へ至る必要がある。
セレスティアは、静かに言った。
「ゴルド親方」
「あん?」
「賢者たちは、命を代価に邪神を封じました」
「ああ」
「前世のわたくしも、結果として命を使い切りました」
「ああ」
「今生のわたくしは、同じことをしてはいけないのですね」
ゴルドは、即答した。
「当たり前だ」
「命を燃やせば、届くかもしれない」
「やめろ」
ゴルドの声が鋭くなった。
セレスティアは、目を逸らさずに続ける。
「可能性としては、あるはずです。前世のわたくしが命を使い切って退路を守ったように、賢者たちが命を代価に封印したように、今生のわたくしも命を燃やせば、一時的に神格位へ届くかもしれない」
「やめろと言った」
鍛冶場の空気が凍った。
ゴルドの目は本気だった。
「その考えを捨てろ」
「……はい」
「命を代価にする道は、最後に何も残らねぇ」
ゴルドは低く言った。
「前のお前がそれをやった。賢者どももやった。その結果、邪神は封じられたが、完全には終わらなかった」
「はい」
「なら、同じやり方で終わると思うな」
セレスティアは、その言葉を受け止めた。
重かった。
だが、必要な言葉だった。
命を燃やす道は、美しいかもしれない。
英雄らしいかもしれない。
物語なら称えられるかもしれない。
だが、残された者にとっては違う。
公爵家は滅びた。
ゴルドは五十一年笑わなかった。
白樹の森の家族は、今生の自分を心配している。
同じことをしてはいけない。
今度は、生きて戻る。
それが、前世を超えるということだ。
セレスティアは、深く息を吸った。
「分かりました」
「本当にか」
「はい」
「命を対価にしようとしたら、剣を取り上げる」
「ゴルド親方に?」
「当たり前だ」
「できるのですか」
「やる」
ゴルドは本気だった。
セレスティアは、少しだけ微笑んだ。
「では、取り上げられないようにします」
「違う。命を燃やすな」
「はい」
ゴルドは、精霊通信の文をもう一度見た。
賢者団。
生命の対価。
封印柱。
邪神格の欠片。
負の神格。
神格位。
すべてが一本の線に繋がっていく。
そして、その線の先に、眷属セレスティアがいる。
ゴルドは作業台の羊皮紙へ、新しい計画を書き加えた。
邪神眷属討伐。
準神格位への到達。
封印柱調査。
賢者残留思念の探索。
白樹の森帰還。
精霊王祝福。
神格位到達後、眷属セレスティア再戦。
セレスティアは、その文字を見た。
「封印柱調査」
「ああ」
「賢者たちの封印跡を巡るのですか」
「必要だ」
ゴルドは言った。
「邪神本体を命で封じた連中だ。そこには、神格位へ至る手がかりが残っているかもしれねぇ」
「残留思念」
「あるかもしれん」
「もし会えたら」
「封印の真実を聞け」
「はい」
「それと、前世のお前が最後に何をしたかもな」
セレスティアは、静かに頷いた。
前世の記憶は戻り始めている。
だが、まだ全てではない。
賢者たちの封印儀式。
自分が退路を守っていた間に、何が行われたのか。
邪神本体はどう封じられたのか。
なぜ邪神格の欠片が残ったのか。
前世の黒星と閃白が負の神格を帯びるまで、何があったのか。
知らなければならない。
知らずに挑めば、また同じ失敗をする。
セレスティアは、黒星の柄に手を置いた。
「黒星」
黒星は静かだった。
「閃白」
閃白も、澄んだ白い気配を返す。
「命を燃やすのではなく、格を上げる」
セレスティアは、二振りへ語りかけるように言った。
「わたくしたちは、その道を行きます」
ゴルドは、何も言わずに聞いていた。
やがて、低く言う。
「明日の予定は変えねぇ」
「邪神の別眷属討伐ですね」
「ああ」
「補給陣地跡」
「小さい残滓からだ」
「分かっています」
「だが、今日の通信で意味が増えた」
「はい」
セレスティアは頷いた。
「これは、ただの討伐ではありません」
「そうだ」
「黒星と閃白が、邪神性を斬る最初の経験」
「ああ」
「そして、賢者たちが命で封じた邪神本体へ近づく、最初の一歩」
ゴルドは頷いた。
「その通りだ」
その時、入口の弟子が、恐る恐る板を持って立っていた。
セレスティアは、それに気づいて目を細める。
「まさか」
弟子は視線を泳がせた。
ゴルドは当然のように言った。
「必要事項だ」
「この流れで看板ですの?」
「危険度が変わった」
「それは分かりますが」
「書け」
「何を書くおつもりですか」
ゴルドは少し考えた。
「邪神封印調査開始」
「それはよろしいです」
「命を燃やすな」
「それもよろしいです」
「バカ姫、自己犠牲禁止」
セレスティアは言葉に詰まった。
弟子たちは笑わなかった。
その一文は、いつもの悪ふざけとは違っていた。
バカ姫。
いつもの呼び名。
だが、その後に続く言葉が重かった。
自己犠牲禁止。
セレスティアは、静かに息を吐いた。
「……それは、許可します」
ゴルドは少しだけ目を細めた。
「珍しいな」
「必要事項ですもの」
「そうだ」
看板は、その日の夕方に追加された。
邪神封印調査開始。
命を燃やすな。
バカ姫、自己犠牲禁止。
町の者たちは、その看板を見ていつものように笑いかけた。
しかし、三行目を読んだ後、誰も大きく笑わなかった。
そこに込められた意味を、なんとなく察したからだ。
グランガルドの鍛冶場には、また新しい段階が訪れた。
邪神の別眷属。
封印柱。
賢者たちの命。
負の神格。
精霊王の祝福。
そして、自己犠牲ではなく神格位へ至る道。
セレスティアは、その看板を見上げた。
風が吹く。
看板がかすかに揺れる。
バカ姫、自己犠牲禁止。
ひどい呼び名だ。
だが、正しい。
前世の自分は、命を使い切った。
今生の自分は、命を使い切るのではなく、生きて勝つ。
セレスティアは黒星と閃白を感じながら、静かに頷いた。
「分かりましたわ」
誰に向けた言葉かは、自分でも分からない。
ゴルドか。
白樹の森の家族か。
命を賭けた賢者たちか。
前世の自分か。
それとも、黒星と閃白か。
だが、確かに言った。
「わたくしは、生きて勝ちます」
鍛冶場の奥で、剣炉の火が静かに揺れた。




