第21話 補給陣地跡
翌朝。
グランガルドの空は、薄く曇っていた。
鍛冶町の煙突から上がる煙が、低い雲の下で横に流れている。
いつものように槌の音が響き、荷車が石畳を鳴らし、職人たちが朝から声を張っていた。
だが、ゴルドの鍛冶場の前だけは、少し空気が違っていた。
看板が増えている。
邪神封印調査開始。
命を燃やすな。
バカ姫、自己犠牲禁止。
セレスティアは、その看板の前に立っていた。
背には黒星。
左腰には閃白。
背中の下側にはミスリルの小剣。
外套の内側と腰帯には投げナイフ十二本。
三カ月の修行を経て、武装の重みは完全に身体へ馴染んでいた。
黒星は、もはや単なる背中の重りではない。
背にあることで、身体の中心を決める存在になっている。
閃白は、左腰で静かに白い線を待っている。
小剣も、投げナイフも、それぞれの場所で沈黙している。
セレスティアは、看板の文字をもう一度見た。
命を燃やすな。
バカ姫、自己犠牲禁止。
ひどい呼び名だ。
だが、今日は抗議しなかった。
必要な言葉だったからだ。
前世の自分は、命を燃やして退路を守った。
それは間違いではなかった。
だが、今生の自分が同じことをしてはならない。
命を対価にするのではなく、格を上げて届く。
生きて勝つ。
それが、今回の旅の芯だった。
ゴルドが鍛冶場から出てきた。
手には、黒い革袋。
中には、手入れ道具、予備の包帯、魔力測定用の小水晶、そして投げナイフの回収用具が入っている。
セレスティアは首を傾げた。
「親方も来ますの?」
「ああ」
「鍛冶場は」
「弟子どもに任せる」
「珍しいですわね」
「今回は剣を見る必要がある」
ゴルドは短く言った。
「黒星と閃白が、邪神の残滓を斬った時にどう変わるか。現場で見なきゃ分からん」
「危険ですわ」
「お前より前には出ねぇ」
「それは当然です」
「なら問題ねぇ」
「問題はありますわ」
「黙れ。お前がまた無茶をしないように見張る」
セレスティアは、少しだけ頬を膨らませた。
「信用がありませんわね」
「古戦場で一時間斬り合って、怪我して戻ってきたバカ姫を信用しろと?」
「戻ってきましたわ」
「そこは評価している」
ゴルドは、少しだけ目を細めた。
「だから、今回は見届ける」
セレスティアは、それ以上何も言わなかった。
ゴルドが同行する。
それは心強い。
同時に、責任も重い。
鍛冶師の前で剣を振るということは、ただ勝てばよいという話ではない。
黒星と閃白の変化を見せる。
自分の戦い方を見せる。
神格位へ至る道の第一歩を、正しく踏む。
セレスティアは静かに頷いた。
「では、参りましょう」
「待て」
「何ですの?」
「飯は食ったか」
「食べました」
「肉は」
「食べました」
「魚は」
「食べました」
「豆は」
「食べました」
「酒は」
「飲んでおりません」
「よし」
「この確認、旅先でも続きますの?」
「当然だ」
「親方は過保護ですわね」
「鍛冶師は、自分の剣を雑に扱う奴が嫌いなんだ」
「わたくしは剣ですの?」
「黒星と閃白の使い手だ。似たようなものだ」
「雑な理屈ですわ」
「合っている」
弟子たちが鍛冶場の前に並んでいた。
若い弟子が、緊張した顔で頭を下げる。
「姫様、親方、お気をつけて」
「はい。留守をお願いします」
別の弟子が、小さな板を持っていた。
セレスティアは目を細めた。
「それは何ですの?」
弟子は固まった。
ゴルドが平然と言う。
「出立看板だ」
「またですか」
「必要事項だ」
「何と書きましたの?」
弟子は、恐る恐る板を見せた。
邪神眷属討伐へ出立。
バカ姫、命を燃やすな。
ゴルド親方、見張り中。
セレスティアは、しばらくその看板を見つめた。
「……親方も巻き込まれておりますわね」
「事実だ」
「見張り中なのですね」
「そうだ」
「では、わたくしも安心ですわ」
「調子に乗るな」
「少しだけです」
「その少しが信用ならん」
弟子たちが笑った。
だが、笑いの奥には不安があった。
邪神の別眷属。
普通の魔物とは違う。
小さい残滓とはいえ、神性に触れた異形である。
セレスティアは笑みを少し引き締め、弟子たちへ一礼した。
「必ず戻ります」
ゴルドが横から言う。
「戻らせる」
弟子たちは、深く頭を下げた。
セレスティアとゴルドは、グランガルドを出た。
目指すは、古戦場北西の補給陣地跡。
五十一年前、邪神戦争末期に放棄された場所。
撤退する兵へ物資を送るために設けられた陣地だったが、戦線崩壊により放棄された。
その後、邪神の魔力が残留し、夜になると異形の影が出るという。
町を出てからしばらくは、普通の街道だった。
荷馬車が通り、旅人が歩き、遠くには畑が見える。
だが、古戦場へ近づくにつれ、景色は変わっていった。
草の色が薄くなる。
木々がねじれる。
風が冷たくなる。
鳥の声が減る。
地面に黒い斑点のようなものが増える。
セレスティアは、その変化を肌で感じていた。
「邪神の残滓が濃くなっていますわ」
「ああ」
ゴルドは、腰に下げた小水晶を見た。
水晶の内側に、黒い粒が浮かんでいる。
「まだ封印地ほどじゃねぇ」
「はい」
「だが、普通の人間なら気分が悪くなる」
「親方は平気ですの?」
「ドワーフを舐めるな」
「頼もしいですわ」
「お前に言われると腹が立つ」
「なぜですの」
「平然と邪気の中を歩くハイエルフ王女に言われたくねぇ」
セレスティアは少し笑った。
だが、すぐに表情を戻す。
今回の目的は、討伐だけではない。
黒星と閃白に邪神性を斬る経験を刻むこと。
そして、自分自身が邪神格へ近づく戦い方を学ぶこと。
無駄な消耗は避ける。
怒りを燃やさない。
命を燃やさない。
剣を神格位へ向かわせる。
セレスティアは、背の黒星にそっと魔力を通した。
黒星は、静かに応える。
まだ通常剣の最上位。
だが、その奥に準神格位へ向かう器がある。
閃白にも、細く魔力を送る。
白い剣は、静かに澄んだ気配を返した。
補給陣地跡に着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
そこは、低い丘に囲まれた広場だった。
かつては物資置き場だったのだろう。
崩れた木組み。
半ば地面に埋もれた車輪。
壊れた樽。
錆びた矢じり。
焼け焦げた石壁。
古い戦争の痕跡が、そのまま放置されている。
ただし、普通の廃墟ではない。
中央に、黒い水たまりのようなものがあった。
水ではない。
魔力の淀み。
邪神の残滓が、液体のように大地へ滲み出している。
その周囲には、いくつもの足跡があった。
獣ではない。
人でもない。
細長く、歪み、ところどころ地面を腐らせている足跡。
セレスティアは、黒星の柄に手を置いた。
「いますわね」
「ああ」
ゴルドはすでに後ろへ下がっていた。
小水晶と記録板を手にしている。
「忘れるな」
「はい」
「命を燃やすな」
「はい」
「黒星と閃白に覚えさせろ」
「はい」
「勝ち方より、斬り方だ」
「承知しております」
セレスティアは、黒星を抜いた。
黒銀の大剣が、曇った光を吸い込む。
左腰の閃白には、まだ手をかけない。
まずは黒星。
邪神残滓の圧を、黒星に受けさせる。
黒い水たまりが、ぼこりと泡立った。
地面が揺れる。
壊れた樽の陰から、何かが立ち上がった。
人型。
だが、人ではない。
黒い泥を固めたような身体。
顔はない。
腕は異様に長い。
背中から骨のような突起が生えている。
その胸の中心には、小さな黒い核があった。
邪神の残滓。
小眷属。
封印地から漏れ出した邪神性が、補給陣地跡の死と怨嗟を材料に形を取ったもの。
セレスティアは、呼吸を整えた。
怒りは出さない。
嫌悪も混ぜない。
黒星の芯へ、守るために前へ出る意志だけを送る。
小眷属が動いた。
速い。
泥の身体が伸び、腕が鞭のようにしなる。
セレスティアは黒星で受けた。
重さは眷属セレスティアの黒星ほどではない。
だが、嫌な粘りがある。
受けた瞬間、黒い魔力が黒星の表面へまとわりついた。
ゴルドが後方から叫ぶ。
「弾くな! 見ろ!」
「はい!」
セレスティアは、反射的に魔力で弾き飛ばそうとしたのを止めた。
黒星に触れた邪神性。
それを観察する。
重い。
冷たい。
腐った祈りのような感触。
だが、黒星は折れない。
むしろ、中央芯がわずかに沈んだ。
邪神性を受け、耐え、押し返す準備をしている。
セレスティアは黒星の面を傾けた。
邪神の腕を滑らせる。
そのまま踏み込む。
黒星を横へ振る。
黒い泥の腕が砕けた。
小眷属は痛みを感じない。
すぐに再生しようとする。
胸の核が脈打った。
セレスティアは、その核を見た。
黒星では届く。
だが、今回はただ砕けばいいわけではない。
黒星に邪神性を砕く感覚を刻む。
閃白に邪神核を裂く感覚を刻む。
順番が必要だ。
セレスティアは黒星で小眷属の身体を崩した。
足。
肩。
腕。
胴。
重く叩き、邪神性の泥を剥がす。
黒星が、黒い魔力を受けながら少しずつ鳴り始めた。
低く。
深く。
怒っているように。
だが、暴れてはいない。
セレスティアは呼吸を乱さない。
黒星の重さを足で受ける。
魔力で無理に押さえ込まない。
角度で逃がす。
芯で耐える。
中央芯に、邪神性の圧を覚えさせる。
ゴルドが記録を取る。
「黒星の中央芯、反応あり」
古い補給陣地跡に、ゴルドの声が響く。
「まだ格は上がらん。だが、覚え始めている」
セレスティアは頷いた。
小眷属が叫んだ。
声ではない。
耳の奥を擦るような音。
黒い泥が一気に膨らむ。
骨の突起が刃のように伸び、セレスティアへ降り注ぐ。
セレスティアは閃白を抜いた。
白い線が走る。
ただ斬るのではない。
邪神性の流れを見て、薄い部分だけを裂く。
外層。
中層。
芯。
閃白の三層導線へ、魔力を細く流す。
白銀の刃が、黒い泥の中にある魔力線を斬った。
小眷属の動きが一瞬止まる。
ゴルドが叫ぶ。
「そこだ! 核の外側を裂け!」
セレスティアは踏み込んだ。
黒星で泥の身体を押し開く。
閃白で核の外層を裂く。
黒い核が露出した。
そこには、小さな邪神性が渦巻いている。
神格ではない。
邪神格の欠片というには薄い。
だが、神性の残滓ではある。
通常の魔物にはない、気配。
セレスティアの心に、古戦場の眷属セレスティアがよぎった。
邪神格。
前世の身体。
家族。
怒りが、わずかに浮かびかける。
黒星が重くなる。
閃白の白線が揺れる。
ゴルドの声が飛んだ。
「燃やすな!」
セレスティアは、息を吸った。
怒りを燃やさない。
芯に沈める。
ここで命を燃やす必要はない。
感情で斬るのではない。
目的で斬る。
「……はい」
セレスティアは静かに答えた。
閃白を構える。
狙うのは肉体ではない。
黒い核の中の、邪神性の筋。
斬るべき線は一つ。
邪神性だけを裂く線。
白い刃が、静かに走った。
音はなかった。
閃白が核を斬った。
黒い核が二つに割れる。
その瞬間、黒い霧が爆ぜた。
セレスティアは黒星を前に出し、霧を受ける。
黒星の剣身に黒い魔力が絡む。
だが、今度は逃げない。
受ける。
耐える。
砕く。
黒星の中央芯が、低く鳴った。
黒い霧が、剣身の表面で弾ける。
その一部が、黒星の奥へ沈んだように見えた。
汚染ではない。
記憶。
黒星が、邪神性を受け止め、砕いた経験を刻んだ。
閃白も、白い剣身の中に淡い線を一瞬走らせた。
邪神性を裂いた感覚を、導線の奥へ刻んでいる。
小眷属は崩れた。
黒い泥が地面へ落ち、煙のように消えていく。
補給陣地跡に残っていた淀みが、少し薄くなった。
セレスティアは、黒星を下ろした。
呼吸は乱れていない。
魔力消費も少ない。
だが、胸の奥には重い感触が残っていた。
邪神性を斬った。
初めて。
眷属セレスティアではなく、小さな残滓。
それでも、黒星と閃白にとっては第一歩だった。
ゴルドが近づいてきた。
「動くな」
セレスティアは、その場で止まった。
ゴルドは黒星を見る。
剣身に触れない。
小水晶を近づける。
水晶の中に、黒い粒と白い線が浮かぶ。
「……反応あり」
次に閃白を見る。
白い剣身の中央導線に、淡い金にも似た線が一瞬だけ流れた。
ゴルドの目が細くなる。
「閃白も反応している」
「準神格位に近づきましたか」
「一歩だけな」
「一歩」
「そうだ。一歩だ」
ゴルドは厳しい声で言った。
「だが、確かな一歩だ」
セレスティアは、静かに微笑んだ。
「それで十分ですわ」
「調子に乗るな」
「少しだけです」
「その少しが信用ならん」
いつもの言葉。
だが、ゴルドの声には少しだけ安堵があった。
セレスティアは、補給陣地跡を見回した。
黒い水たまりは小さくなっている。
だが、完全には消えていない。
小眷属は一体だけではなかったのだろう。
周囲には、まだ邪神性の淀みが残っている。
ゴルドもそれを見ていた。
「一体では終わらねぇな」
「はい」
「今日は無理をしない」
「分かっています」
「本当だな」
「本当です」
「看板を思い出せ」
「自己犠牲禁止」
「そうだ」
セレスティアは頷いた。
命を燃やさない。
神格位へ至るために、段階を踏む。
今日の目的は、一体を確実に斬り、黒星と閃白の反応を見ること。
それは果たした。
まだ奥に気配はある。
だが、今日は深追いしない。
セレスティアは、閃白を納めた。
黒星を背へ戻す。
「撤退します」
ゴルドが少しだけ目を見開いた。
「自分から言ったな」
「戦術的撤退ですわ」
「今日は認める」
「今日は、ですの?」
「ああ」
ゴルドは小水晶を革袋へ入れた。
「戻るぞ。剣の反応を記録する」
「はい」
補給陣地跡を離れる前、セレスティアは黒い水たまりの方を見た。
奥に、まだ何かがいる。
小さな邪神の残滓。
不死の軍勢の欠片。
五十一年前の戦争の澱み。
いずれ、すべて斬る。
だが、今日は一歩でよい。
黒星と閃白が、邪神性を斬ることを覚えた。
それが、準神格位への最初の刻印となる。
グランガルドへ戻ったのは、夕方だった。
鍛冶町の門をくぐると、町の者たちがこちらを見た。
セレスティアは怪我をしていない。
外套も裂けていない。
投げナイフも失っていない。
黒星と閃白は、静かに収まっている。
門番が安堵したように言った。
「姫さん、無事か」
「はい」
「討伐は」
「一体、斬りました」
門番が目を丸くする。
「邪神の眷属を?」
「小さな残滓ですわ」
ゴルドが横から言う。
「それでも普通なら死ぬ」
「親方」
「事実だ」
町へ入る。
鍛冶場の前に戻ると、弟子たちが待っていた。
若い弟子が駆け寄ってくる。
「姫様! 親方!」
「戻ったぞ」
ゴルドが短く言う。
「剣炉に火を入れろ。水晶板も用意しろ。黒星と閃白の反応を見る」
「はい!」
鍛冶場が一気に動き出す。
セレスティアは、看板の横を通った。
邪神眷属討伐へ出立。
バカ姫、命を燃やすな。
ゴルド親方、見張り中。
その下に、弟子が新しい板を持って立っていた。
セレスティアは静かに言った。
「何を書くおつもりですの?」
弟子は、少し笑って答えた。
「親方から、戻ったら出せと言われています」
「親方」
セレスティアがゴルドを見る。
ゴルドは平然としている。
「必要事項だ」
「内容は」
弟子が板を掲げた。
邪神眷属、一体討伐。
黒星・閃白、第一刻印確認中。
バカ姫、深追いせず帰還。
セレスティアは、その最後の一行を見た。
しばらく黙る。
そして、少しだけ微笑んだ。
「それは、悪くありませんわ」
ゴルドが鼻を鳴らす。
「だろうが」
「深追いせず帰還、ですものね」
「ああ」
「成長記録のようですわ」
「実際そうだ」
弟子たちは笑った。
だが、その笑いはいつもより温かかった。
セレスティアは鍛冶場へ入った。
黒星と閃白を作業台に置く。
剣炉の火が、二振りを照らす。
黒星の黒銀は、以前よりほんの少し深く。
閃白の白銀は、以前よりほんの少し澄んでいた。
まだ準神格位には届かない。
だが、第一刻印は刻まれた。
邪神性を斬ったという、小さくも確かな経験。
セレスティアは、二振りを見つめて静かに言った。
「第一歩ですわね」
黒星が重く沈む。
閃白が白く震える。
それは、答えのようだった。




