第2話 五十一年眠った剣炉
ドワーフの鍛冶町グランガルドは、山の腹に張り付くように造られていた。
石を積み、鉄を渡し、炉を並べ、煙突を空へ突き出した町である。
白樹の森とは、何もかもが違っていた。
森には、葉擦れの音がある。
精霊の囁きがある。
花の香りと、清らかな水の音がある。
だが、この町にあるのは火だった。
鉄を焼く匂い。
石炭の匂い。
汗と油と金属の匂い。
槌の音。
怒鳴り声。
削られる鉄の悲鳴。
それらが混ざり合い、町全体を一つの巨大な鍛冶場にしていた。
セレスティアは、その音を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「……懐かしいですわね」
口からこぼれた声は、今生のものだった。
だが、胸を満たしている感情は、前世のものだった。
前世のセレスティア。
人間の公爵令嬢であり、剣聖と呼ばれた女。
彼女は何度もこの町を訪れた。
剣を折り。
鎧を砕き。
魔物の血を浴び。
大剣の柄を削り直せと文句を言い。
両手剣の魔力導線をもう少し伸ばせと無茶を言い。
そのたびに、老いたドワーフの鍛冶師に怒鳴られていた。
ゴルド・ガルガンド。
ドワーフ一の鍛冶師。
前世のセレスティアが背に負った大剣、黒星。
左腰に差した両手剣、閃白。
その二振りを打った男である。
セレスティアは町の門をくぐった。
門番のドワーフが、彼女を見て眉をひそめる。
「エルフの嬢ちゃんが一人旅か」
「はい」
「その背中の木剣は何だ」
「剣ですわ」
「見れば分かる。なぜそんなもんを背負っている」
「落ち着くからです」
門番はしばらく黙った。
それから、深くため息をついた。
「……エルフにも変なのがいるんだな」
「よく言われますわ」
「どこの鍛冶場に用だ」
「ゴルド親方を訪ねて参りました」
その名を出した瞬間、門番の顔つきが変わった。
「ゴルド親方にか」
「はい」
「紹介状は」
「ありません」
「予約は」
「ありません」
「金は」
「あります」
「何を頼む気だ」
セレスティアは、にこりと微笑んだ。
「剣を」
門番は顔をしかめた。
「やめとけ」
「あら」
「ゴルド親方は剣を打たん」
「存じております」
「なら、なぜ行く」
「頼みに来たからです」
「だから、剣は打たんと言っている」
「それでも、頼みに来たのです」
門番は黙った。
そして、セレスティアを上から下まで見た。
銀糸のような髪。
白磁の肌。
翠玉の瞳。
尖った耳。
明らかにハイエルフ。
しかも、ただのハイエルフではない。
立ち姿に気品がある。
身にまとう魔力が深い。
王族だろう。
だが、背には巨大な木剣。
腰には旅装。
目には、妙な覚悟があった。
門番は鼻を鳴らした。
「町の奥だ。一番でかい炉がある鍛冶場だ」
「ありがとうございます」
「怒鳴られて追い返されても知らんぞ」
「慣れておりますわ」
「何にだ」
「ゴルド親方に怒鳴られることに」
門番の表情が固まった。
セレスティアは軽く会釈して、町の奥へ進んだ。
ゴルドの鍛冶場は、記憶より少し古びていた。
当然だった。
前世のセレスティアがこの場所に立ってから、五十一年が経っている。
石壁には煤が深く染みつき、扉の金具も何度か付け替えられている。
それでも、炉の位置は同じだった。
水桶の場所も。
作業台の高さも。
壁に並ぶ工具も。
奥の棚に積まれた鉱石も。
少しずつ変わりながら、根の部分は何も変わっていない。
セレスティアは、扉の前で立ち止まった。
中から槌の音が聞こえる。
重い音ではない。
薄い鉄を整える音。
剣ではない。
包丁だ。
それでも、その一打には無駄がなかった。
金属の芯を見抜き、必要な分だけ叩く音。
力任せではない。
火と鉄を知り尽くした職人の音だった。
間違いない。
ゴルドだ。
セレスティアは扉を開けた。
熱気が押し寄せた。
炉の前に、一人のドワーフがいた。
低い背。
岩のように分厚い身体。
白髪の混じった長い髭。
深い皺の刻まれた顔。
前世で見た頃より、ずいぶん老けていた。
だが、目は変わっていなかった。
赤熱した鉄を見つめる、頑固で、鋭く、妥協を知らない職人の目。
ゴルドは、入ってきたセレスティアをちらりと見た。
「客なら外で待て」
低い声だった。
懐かしい声だった。
セレスティアは一歩踏み出した。
「相変わらず、愛想がありませんのね」
ゴルドの槌が止まった。
鍛冶場から、音が消えた。
弟子たちが一斉に顔を上げる。
炉の火だけが、ごう、と低く唸っていた。
ゴルドは振り返らない。
「……誰だ、お前」
「セレスティアですわ」
「エルフの名じゃねぇ。家名は」
「セレスティア・リュミエール・アルヴァレイン。白樹の森のハイエルフ王家第1王女です」
「王女様が何の用だ」
「作剣の依頼に参りました」
ゴルドは鼻を鳴らした。
「剣なら弟子に頼め」
「いいえ」
「わしは剣を打たん」
「存じております」
「なら帰れ」
「帰りません」
ゴルドの眉間に、深い皺が刻まれた。
弟子たちは息を呑んだ。
この鍛冶場で、ゴルド親方に正面から言い返す者など、ほとんどいない。
まして、相手はハイエルフの王女である。
普通なら、もっと丁寧に頼む。
普通なら、もっと遠慮する。
だが、セレスティアは違った。
静かに、自然に、まるで昔からそうしていたかのように、ゴルドの前に立っていた。
セレスティアは背中の木剣を下ろした。
床に置く。
重い音が鳴った。
ゴルドの目が、わずかに細くなる。
セレスティアは言った。
「ゴルド親方」
「何だ」
「黒星と閃白を、もう一度造ってくださいませ」
ゴルドの顔から、表情が消えた。
鍛冶場の空気が凍った。
若い弟子たちには、その名の意味が分からなかった。
だが、古参の職人が息を呑んだ。
黒星。
閃白。
五十一年前、その名を持つ二振りの剣があった。
背に負うアダマンタイトの大剣、黒星。
左腰に差すオリハルコンの両手剣、閃白。
それは剣聖セレスティアの愛剣であり、ゴルド・ガルガンドが打った最高傑作だった。
だが、その二振りの名は、この鍛冶場では禁句に近かった。
剣聖セレスティアが死んでから、誰も口にしなかった名である。
ゴルドの太い指が、槌の柄を握り締めた。
「……今、何と言った」
「黒星と閃白を、もう一度造ってくださいませ、と申しました」
「誰に聞いた」
「誰にも」
「なら、なぜその名を知っている」
「覚えておりますもの」
その一言で、ゴルドの目が揺れた。
五十一年前。
ゴルドが最後に剣聖セレスティアと会った日。
彼女は黒星を背負い、閃白を腰に差していた。
いつものように笑っていた。
まるで近くの森へ魔物でも斬りに行くような顔で、邪神に挑むと言った。
そのとき、ゴルドは怒鳴った。
「死ぬな」
剣聖セレスティアは、少しだけ驚いた顔をした。
それから、困ったように笑った。
「あなたの作った剣がある限り、死ぬつもりはないわ」
いつもの強がりだった。
だが、その日の声だけは少し違っていた。
「ただ、もし死んでしまったら」
「縁起でもねぇことを言うな」
「聞いて、ゴルド親方」
セレスティアは黒星の柄に手を置いた。
そして、いつになく真面目な顔で言った。
「エルフ神話には、輪廻転生というものがあるのでしょう」
「エルフどもの昔話だ」
「ええ。けれど、もし本当に魂が巡るのなら」
彼女は笑った。
公爵令嬢らしい優雅な笑みではない。
剣を愛し、戦場を駆け、命を預ける道具を作った鍛冶師へ向ける、剣士の笑みだった。
「わたしは必ず生まれ変わって、ゴルド親方のところへ来るわ」
「馬鹿を言うな」
「そして、もう一度頼むの」
セレスティアは言った。
「黒星と閃白を造ってください、って」
その言葉を最後に、彼女は旅立った。
そして、帰ってこなかった。
それから五十一年。
ゴルドは笑わなくなった。
怒鳴りはした。
弟子を叱り飛ばした。
出来の悪い鉄を見れば、今でも炉ごと蹴り飛ばしそうな顔をした。
だが、笑わなかった。
そして、剣を打つことをやめた。
ゴルド・ガルガンドは、ドワーフ一の鍛冶師だった。
王侯貴族が金を積んだ。
騎士団長が頭を下げた。
名のある剣士が、自ら炉の前まで来た。
それでも、ゴルドは首を縦に振らなかった。
「剣なら弟子に頼め」
それだけだった。
弟子は育てた。
炉の火も絶やさなかった。
鉄も叩いた。
だが、ゴルドが自ら作るものは、包丁、鋸、鎌、鍋、鉈、釘、蝶番、農具。
人が生きるために必要な道具ばかりだった。
それを悪く言う者はいない。
ゴルドの包丁を持った料理人は泣いて喜んだ。
ゴルドの鋸を持った大工は、一生ものだと頭を下げた。
ゴルドの鉈を持った猟師は、森で命を救われたと言った。
だが、剣ではない。
ゴルドは剣を打たなかった。
最高の剣を失ったからではない。
最高の剣士を失ったからである。
剣は、使い手がいて初めて剣になる。
ゴルドにとって、剣聖セレスティアこそが、自分の剣の答えだった。
黒星を背負い。
閃白を腰に差し。
馬鹿げた注文を当然のように出し。
打ち上がった剣を見て、子どものように笑う女。
その女が死んだ。
ならば、もう打つ剣はない。
ゴルドはそう決めた。
そのはずだった。
だが今、目の前にいるハイエルフの王女が、あの日の約束を口にした。
黒星と閃白を、もう一度造ってくださいませ。
ゴルドは、ゆっくりと振り返った。
そこにいたのは、前世のセレスティアではなかった。
銀糸の髪を持つ、若いハイエルフの王女。
翠玉の瞳。
長い耳。
人間ではない身体。
けれど、その目だけは。
剣を求める目だけは。
五十一年前、邪神に挑む前のあの女と同じだった。
「……お前」
ゴルドの声が、ひどく低くなる。
「本当に、戻ってきやがったのか」
セレスティアは、静かに微笑んだ。
「約束しましたもの」
「馬鹿野郎」
ゴルドは吐き捨てるように言った。
だが、その声は震えていた。
「本当に来る奴があるか」
「来ましたわ」
「エルフ神話だぞ」
「ええ」
「昔話だ」
「ですが、わたくしはここにおります」
セレスティアは一歩進み、炉の前に立った。
熱が頬を撫でる。
懐かしい熱だった。
「ゴルド親方」
前世と同じ呼び方だった。
ゴルドの顔が歪む。
セレスティアは、深く頭を下げた。
「黒星と閃白を、もう一度造ってくださいませ」
鍛冶場に沈黙が落ちた。
弟子たちは息を呑んでいた。
伝説の剣聖。
邪神に挑み、五十年前に死んだ女。
その生まれ変わりが、今、親方の前に立っている。
若い弟子には信じられなかった。
だが、古参の職人たちは動けなかった。
彼らは知っていた。
五十一年前、ゴルド親方がどれほど剣聖セレスティアを信じていたか。
彼女の死後、どれほど変わってしまったか。
そして今。
その親方の手が震えていた。
老いではない。
怒りでもない。
五十一年間、炉の底に沈めていたものが、ようやく火を噴こうとしている震えだった。
ゴルドは低く言った。
「剣は打たねぇ」
「聞いております」
「五十一年、一本も打ってねぇ」
「はい」
「弟子には打たせた。だが、わしは打たなかった」
「なぜですの」
セレスティアは分かっていて聞いたわけではなかった。
前世の死後、ゴルドがどう生きたのかを、彼女は知らない。
ゴルドは答えなかった。
代わりに、作業台の上に置かれた包丁を見た。
鋼の肌は美しい。
研ぎは完璧。
紛れもなく名工の仕事だった。
けれど、剣ではない。
「わしにとっての最高の剣士は死んだ」
鍛冶場の空気が止まった。
「最高の剣士が死んだのに、次の剣を打つ気になどなれるか」
セレスティアは言葉を失った。
ゴルドは続けた。
「お前は馬鹿だった。無茶だった。注文は毎度毎度、頭がおかしかった。アダマンタイトの厚みをもう少し増やせだの、閃白の魔力導線を限界まで通せだの、普通の剣士なら腕が折れるような剣を平然と欲しがった」
「……」
「だが、お前は振った」
ゴルドの声が低くなる。
「わしが打った剣を、誰よりも正しく使った。誰よりも乱暴に使った。誰よりも信じた」
セレスティアは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「だから、打てた」
ゴルドは吐き出すように言った。
「お前がいたから、わしは剣を打てた」
沈黙。
炉の火が、ごう、と鳴った。
セレスティアは一歩進んだ。
「ゴルド親方」
「何だ」
「わたくしは、戻りましたわ」
ゴルドの目が細くなる。
「前の身体ではありません。前の技も、すべては戻っておりません。記憶も欠けています。今のわたくしは、ハイエルフ王家の第1王女です」
セレスティアは木剣を手に取った。
そして、まっすぐゴルドを見る。
「ですが、あなたの剣を信じる心だけは、変わっておりません」
ゴルドの口元が歪んだ。
「よく言う」
「ええ。よく言いますわ」
「五十一年も待たせておいて」
「そこは申し訳ありません」
「謝って済むか」
「では、剣で返します」
ゴルドの眉が動いた。
セレスティアは言った。
「あなたがもう一度剣を打ちたくなるほどの剣士に、今のわたくしがなります」
弟子たちは息を止めた。
傲慢。
あまりにも傲慢な言葉だった。
だが、ゴルドだけは笑った。
本当に、わずかに。
五十一年ぶりに。
「言ったな」
「はい」
「なら、構えろ」
ゴルドは槌を置いた。
包丁を打っていた炉の前で、老いたドワーフが立ち上がる。
「今のお前が、わしに剣を打たせるだけの剣士かどうか、見てやる」
セレスティアは微笑んだ。
「相変わらず、面倒な親方ですわね」
「相変わらず、口の減らねぇ女だ」
そのやり取りを聞いて、古参の職人が目を見開いた。
若い弟子には分からない。
だが、古参は知っている。
五十一年前。
剣聖セレスティアとゴルドは、いつもこうだった。
喧嘩のように話し。
罵倒のように褒め。
そして、互いの腕だけは誰よりも信じていた。
セレスティアは木剣を構えた。
前世と同じではない。
身体が違う。
骨格が違う。
筋肉の付き方も、魔力の巡りも、重心も違う。
だが、逃げてはいない。
懐かしさに縋ってもいない。
今の身体で。
今の魔力で。
今の自分として。
剣を振ろうとしている。
ゴルドの目に、火が戻った。
「振れ」
セレスティアは踏み込んだ。
木剣が空気を裂いた。
重く。
速く。
鋭い。
だが、ゴルドが見たのは、それだけではなかった。
剣筋が、細かい。
前世のセレスティアの剣は、凄まじかった。
豪快で、速く、強く、迷いがなかった。
黒星を振れば、鎧も魔物も地形ごと叩き割った。
閃白を抜けば、白い閃きが戦場を裂いた。
だが、それでも人間の剣だった。
人間の骨格。
人間の筋力。
人間の魔力。
その限界の中で、無理やり頂点まで届かせた剣だった。
しかし、今のセレスティアは違う。
ハイエルフの身体はしなやかだった。
筋力だけで剣を振っていない。
骨で支え、関節で逃がし、足裏で大地を噛み、背中から肩、肘、手首へと力を滑らかに流している。
さらに、その全てに魔力が通っていた。
剣を強化するためだけの魔力ではない。
剣の重心を読む魔力。
刃筋を微修正する魔力。
踏み込みの瞬間に身体の軸を整える魔力。
振り終わりの反動を殺し、次の一手へ繋げる魔力。
木剣でありながら、まるで一本の生き物のように扱っている。
ゴルドは、奥歯を噛み締めた。
違う。
前のセレスティアではない。
前世の癖は残っている。
踏み込みも、間合いの奪い方も、斬る瞬間の呼吸も、確かにあの女のものだ。
だが、剣の精度は上がっている。
魔力制御は比べものにならない。
人間だった頃の剣聖セレスティアが、力と技と勘で到達していた場所へ、今のセレスティアは魔法による緻密な制御を重ねている。
五歳で前世を思い出し。
不完全な記憶を頼りに剣を振り。
魔法を学び。
精霊術を学び。
ハイエルフの身体を使い潰すほど修行してきた。
その十八年が、剣に出ていた。
ゴルドは、その一振りで理解した。
戻ってきただけではない。
この女は、前より強くなっている。
「……本当に、しぶとい女だ」
セレスティアは木剣を下ろし、微笑んだ。
「死ぬつもりはないと、申し上げたでしょう?」
「死んだだろうが」
「ですが、戻りましたわ」
「屁理屈を言うな」
「剣士ですもの」
「関係ねぇ」
ゴルドは吐き捨てるように言った。
だが、その目は笑っていた。
五十一年ぶりに、剣を見る目だった。
「それにしても、前より厄介な剣になってやがる」
「あら。お分かりになりますの」
「誰に向かって言っている」
ゴルドはセレスティアの木剣を指さした。
「昔のお前は、力と勘で剣を振っていた。馬鹿みたいな速度で踏み込み、馬鹿みたいな力で叩き斬り、馬鹿みたいな胆力で押し切っていた」
「随分な言い方ですわね」
「事実だ」
「褒めておりますの?」
「半分はな」
「半分だけですのね」
「今のお前は違う」
ゴルドの声が低くなる。
「剣を魔法で制御している。いや、魔法で補助しているというより、剣術そのものに魔力を縫い込んでいる。刃筋、重心、踏み込み、反動、次の動き。その全部を細かく調整してやがる」
弟子たちがざわめいた。
彼らには、今の一振りがそこまで異常なものだとは分からなかった。
だが、ゴルドには分かる。
剣を打つ者だからだ。
剣士が何を求めているか。
どこに重心を置くか。
どの瞬間に刃へ力を乗せるか。
どんな剣なら、その剣士の力を殺さず伸ばせるか。
それを見るのが、鍛冶師である。
「前のお前に黒星を打つなら、重さと耐久性と破壊力を優先した」
ゴルドは言った。
「閃白は、魔力の通りと斬撃の伸びを優先した」
「はい」
「だが、今のお前に同じものを渡したら、足りねぇ」
セレスティアの目が細くなる。
「足りない?」
「そうだ」
ゴルドは乱暴に作業台の下から古い木箱を引き出した。
鍵を開ける。
中から、一枚の羊皮紙を取り出す。
古びていた。
端は擦り切れ、インクは少し薄くなっている。
だが、そこには細かな寸法が書き込まれていた。
剣身の長さ。
厚み。
重心。
柄の長さ。
鍔の形状。
魔力導線。
補強位置。
黒星と閃白の設計図だった。
五十一年前から、捨てられなかったもの。
忘れられなかった約束。
セレスティアは息を呑んだ。
「残していてくださったのですか」
「捨てる理由がねぇ」
「五十一年も」
「五十一年くらいで、わしの打った剣の仕様を忘れるか」
セレスティアは羊皮紙に触れた。
指先がわずかに震える。
前世の自分が、ここにいた。
この寸法の中に。
この線の中に。
この職人の記憶の中に。
「……懐かしいですわ」
ゴルドは羊皮紙を見下ろしたまま言った。
「黒星と閃白は造らん」
セレスティアの目が、わずかに揺れた。
ゴルドは続ける。
「五十一年前の黒星と閃白は、お前と一緒に死んだ」
「……はい」
「だから、今から造るのは、今のお前の黒星と閃白だ」
セレスティアは静かに頭を下げた。
「お願いしますわ」
「前の剣をなぞるだけなら死人の形見だ。そんなものを持たせる気はねぇ」
「はい」
「今のお前は、前より剣を細かく扱える。魔法で制御できる。なら、それに応える剣にする」
ゴルドは五十一年前の設計図に指を置いた。
「黒星は、ただ重いだけでは駄目だ。重心を変える。魔力を流した瞬間に、刃の芯が前へ出るようにする。振り下ろしの破壊力は殺さず、返しの動作を速くする」
セレスティアは黙って聞いていた。
「閃白はもっと難しい。前の閃白は、魔力を通して斬撃を伸ばす剣だった。だが、今のお前なら、斬撃を伸ばすだけじゃなく、斬る角度そのものを魔力で微修正できる」
「できますわ」
「なら、魔力導線を増やす。だが増やしすぎれば剣身が弱くなる。オリハルコンの粘りを殺さず、魔力の流れを細かく分ける必要がある」
ゴルドは笑った。
短く、荒く、不器用に。
「面倒な女になって帰ってきやがった」
「失礼ですわね」
「褒めている」
「あなたの褒め言葉は、相変わらず分かりにくいですわ」
「分かる奴だけ分かればいい」
セレスティアの胸が熱くなる。
前世の自分を認められたのではない。
今生の自分を見られている。
ハイエルフとして生まれ、五歳で記憶を取り戻し、十八歳まで剣と魔法を磨いてきた今の自分を。
ゴルドは、確かに見てくれている。
「ゴルド親方」
「あん?」
「やはり、あなたに頼みに来てよかったですわ」
「当然だ」
「そこは謙遜しませんのね」
「わしよりお前の剣を分かる鍛冶師がいるか」
セレスティアは少しだけ笑った。
「おりませんわ」
「なら黙って任せろ」
「はい」
ゴルドは五十一年前の設計図を見下ろした。
そして、その上に新しい線を引いた。
前世の黒星と閃白をなぞる線ではない。
今生のセレスティアへ向かう線だった。
ゴルドは弟子たちに向かって怒鳴った。
「弟子ども」
鍛冶場中の者が振り返る。
「炉を変える」
弟子たちは固まった。
「親方……炉を変えるって」
「剣炉だ」
その一言で、鍛冶場が凍りついた。
奥に封じられていた大炉。
五十一年間、火を入れられることのなかった、ゴルドの剣炉。
黒星と閃白を打った炉。
剣聖セレスティアが死んでから、一度も使われなかった炉。
ゴルドは言った。
「火を入れろ」
誰も動けなかった。
信じられなかった。
だが、ゴルドは怒鳴った。
「聞こえねぇのか! 剣炉に火を入れろ!」
弟子たちが弾かれたように動き出した。
古参の職人が、震える手で炉の封印布を外す。
煤を払い。
送風管を開き。
燃料を運び込む。
五十一年眠っていた炉が、再び口を開ける。
ゴルドはセレスティアを見た。
「今度は死ぬな」
セレスティアは、五十一年前と同じ言葉を返した。
「あなたの作った剣がある限り、死ぬつもりはありませんわ」
ゴルドは鼻で笑った。
荒く、短く、不器用な笑いだった。
だが、それは確かに笑いだった。
鍛冶場の者たちは、誰も声を出せなかった。
剣を打たなくなったドワーフ一の鍛冶師。
五十一年間、笑わなかった老鍛冶師。
そのゴルドが、再び剣炉に火を入れた。
理由は一つ。
最高の剣士が、戻ってきたからだった。




