第1話 白樹の森の大剣姫
セレスティア・リュミエール・アルヴァレインは、白樹の森に生まれたハイエルフ王家の第1王女である。
銀糸のような髪。
白磁の肌。
翠玉の瞳。
精霊に愛され、花に祝福され、白樹の民すべてから慈しまれる王女。
本来ならば、彼女は森の奥深くで詩を学び、魔法を学び、礼法を学び、やがて王家の姫として気高く穏やかに生きるはずだった。
だが、五歳の春。
セレスティアは思い出した。
自分がかつて、人間であったことを。
人間の公爵令嬢であったことを。
そして、王国最強の剣聖と呼ばれた女であったことを。
名は、セレスティア。
奇しくも、今生と同じ名だった。
前世のセレスティアは、大剣を背負っていた。
左腰には、両手剣を差していた。
背の大剣の名は、黒星。
アダマンタイトで打たれた、重く、黒く、星を落とすような大剣。
左腰の両手剣の名は、閃白。
オリハルコンで打たれた、白い閃光のような両手剣。
その二振りを打ったのは、ドワーフ一の鍛冶師、ゴルド・ガルガンド。
頑固で。
口が悪く。
愛想がなく。
そして、誰よりもセレスティアの剣を理解した鍛冶師だった。
前世のセレスティアは、公爵令嬢として舞踏会にも出た。
王宮にも上がった。
礼法も、政治も、貴族の駆け引きも知っていた。
けれど、彼女が最も長く共に過ごしたのは、絹の扇でも、宝石の首飾りでもない。
黒星。
そして、閃白。
その二振りだった。
五歳のセレスティアは、寝台の上で目を覚ました。
白樹の枝で作られた天蓋。
薄絹の帳。
窓辺に舞う淡い光の精霊。
それらを見つめながら、彼女はしばらく動けなかった。
頭の中に、知らないはずの記憶があった。
石造りの城。
人間の王都。
血の匂い。
鋼の重み。
槌の音。
竜の咆哮。
邪神の影。
そして、炉の前で怒鳴る老いたドワーフの顔。
セレスティアは、小さな手を見つめた。
白く、細く、柔らかい手。
剣を握るには、あまりにも幼い手。
前世の手ではない。
だが、魂の奥に残っていた。
柄を握る感覚。
剣を振る感覚。
踏み込む感覚。
斬る瞬間の呼吸。
セレスティアは、ぽつりと呟いた。
「……わたくし、剣聖でしたのね」
侍女は、最初それを子どもの夢だと思った。
だが、セレスティアはその日から変わった。
詩を学ぶ。
礼法も学ぶ。
精霊魔法も学ぶ。
王族として必要な教育は、何一つ怠らなかった。
むしろ、完璧にこなした。
だが、それ以上に剣を求めた。
木の枝を拾い。
細い訓練剣を握り。
庭の隅で、何度も素振りをした。
最初は、ただの遊びに見えた。
王女が兵士の真似をしている。
周囲の者は、そう思った。
だが、違った。
セレスティアの動きには、子どもの遊びにはないものがあった。
踏み込み。
間合い。
重心。
呼吸。
剣を振る前に、すでに相手を斬る位置へ身体を置こうとする感覚。
五歳児の身体では、前世の技は再現できない。
筋力が足りない。
骨格も違う。
腕の長さも、脚の使い方も、魔力の流れも違う。
けれど、セレスティアは諦めなかった。
思い出した技を、そのままなぞろうとはしなかった。
今の身体で、どう振ればいいか。
今の魔力で、どう支えればいいか。
今の自分が、どうすれば前世の自分へ届くのか。
幼いながらに考え続けた。
ハイエルフにとって、前世の記憶は忌むべきものではない。
エルフは輪廻の輪に生きている。
長き命を終え、魂はまた巡る。
人に生まれることもある。
獣に生まれることもある。
再びエルフとして生まれることもある。
だから、セレスティアが前世を思い出したこと自体は、不吉ではなかった。
王宮の賢者たちも、巫女たちも、静かに頷いた。
「姫様の魂は、かつて人の世を歩まれたのでしょう」
「それもまた、輪廻の一つです」
「記憶は不完全なもの。焦らず、今生をお生きください」
問題は、前世のセレスティアがあまりにも武人すぎたことだった。
王女は、花を愛でる。
王女は、詩を読む。
王女は、精霊と語らう。
それらは、たしかにセレスティアも好んだ。
だが、彼女はその後に剣を振った。
朝に振り。
昼に振り。
夜に振った。
木剣を握り、足を運び、呼吸を整え、前世の感覚を一つずつ今生の身体に落とし込んでいく。
侍女たちは困惑した。
近衛兵たちは青ざめた。
王と王妃は、何度も頭を抱えた。
白樹の森の者たちは噂した。
「王女殿下は、前世で人間だったらしい」
「しかも、剣聖だったそうだ」
「剣聖とは、詩人の称号か」
「いや、剣で竜を斬る者らしい」
「なぜ王女殿下が竜を斬る必要があるのだ」
「分からぬ」
分からぬまま、年月は過ぎた。
セレスティアは成長した。
エルフは十六歳になると、成人と同じ容姿になる。
そして、その姿のまま老化が止まる。
十六歳を迎えたセレスティアは、白樹の森の誰もが息を呑むほど美しい姫となった。
銀糸の髪は腰まで流れ。
翠玉の瞳は深く澄み。
立ち姿は、森の白樹そのもののように気高かった。
だが、その手には剣があった。
細剣ではない。
儀礼剣でもない。
庭の奥で、王女専用として作らせた巨大な木剣である。
普通の兵士なら、持ち上げるだけで息を切らすような代物だった。
セレスティアは、それを背に負った。
そして、涼しい顔で振った。
前世の剣聖セレスティアは、力と技と勘で剣を極めた。
人間の身体で。
人間の魔力で。
人間の限界の中で、無理やり頂点へ届かせた。
だが、今生のセレスティアはハイエルフだった。
身体はしなやかで、魔力の通りが異常なほど良い。
精霊との親和性も高い。
筋力だけで剣を振る必要はなかった。
魔力で重心を読む。
魔力で刃筋を支える。
踏み込みの瞬間、身体の軸を整える。
振り終わりの反動を殺し、次の動作へ繋げる。
最初は、前世の技を取り戻すためだった。
だが、いつしか違っていた。
セレスティアは、前世の自分をなぞっているだけではなかった。
ハイエルフの身体と魔法を使い、前世の剣をさらに緻密に作り替えていた。
大剣は、力で振るものではない。
重さと共に動くもの。
両手剣は、速さだけで斬るものではない。
魔力と刃筋を重ね、斬るべき線へ置くもの。
その理解は、年を追うごとに深まっていった。
十八歳の春。
セレスティアは、白樹の王宮にある訓練庭で木剣を振っていた。
近衛兵たちが遠巻きに見守っている。
誰も近づかない。
近づけない。
セレスティアの木剣は、空気を裂いていた。
重いはずの木剣が、しなやかに動く。
振り下ろす。
止める。
返す。
踏み込む。
身を引く。
魔力が細い糸のように剣へ絡み、軌道を整えている。
荒々しいのに、精密。
重いのに、速い。
優雅なのに、剣としてはあまりにも実戦的。
訓練を見ていた王宮剣士長が、思わず呟いた。
「……あれは、もはや剣舞ではない」
隣の兵が尋ねた。
「では、何です」
「戦場の剣だ」
セレスティアは木剣を止めた。
額に薄く汗が浮かんでいる。
呼吸は乱れていない。
だが、胸の奥には、どうしようもない渇きがあった。
木剣では足りない。
王家の訓練剣では足りない。
白樹の森にある細剣では足りない。
今の自分に合う剣が必要だった。
ただの剣ではない。
自分の魔力制御に応えられる剣。
大剣でありながら、緻密な制御に耐える剣。
両手剣でありながら、魔力導線の微細な流れに応じる剣。
そんな剣を打てる者を、セレスティアは一人しか知らない。
ゴルド・ガルガンド。
前世の自分に、黒星と閃白を打ったドワーフ。
前世の最期は、まだ完全には思い出せない。
邪神へ挑んだことは覚えている。
黒星を背負い、閃白を腰に差し、ゴルドの鍛冶場を出たことも覚えている。
そのとき、ゴルドに言われた。
死ぬな、と。
自分は笑って答えた。
「あなたの作った剣がある限り、死ぬつもりはないわ」
そして、続けた。
「ただ、もし死んでしまったら」
ゴルドは怒った。
縁起でもないことを言うな、と。
それでも、前世のセレスティアは言った。
エルフ神話には、輪廻転生というものがあるのでしょう、と。
もし魂が巡るのなら、必ず生まれ変わって、ゴルド親方のところへ行く。
そして、もう一度頼む。
黒星と閃白を造ってください、と。
そこまでは、覚えている。
その後は、霞んでいる。
邪神との戦い。
黒い空。
砕ける大地。
血の味。
折れた何か。
叫び声。
自分がどう死んだのかは、まだ思い出せない。
けれど、約束は覚えている。
ならば、行かなければならない。
セレスティアは木剣を背負った。
その夜。
王宮の自室で、旅装を整えた。
白銀の髪を一つに束ねる。
王女の衣ではなく、動きやすい外套を羽織る。
魔法具を腰に下げる。
金貨を袋に詰める。
地図を畳む。
そして、長年使い込んだ巨大な木剣を背負った。
侍女が青ざめた。
「姫様。まさか、本当にお出になられるのですか」
セレスティアは微笑んだ。
森の花が開くような、優雅な笑みだった。
「ええ」
「どちらへ」
「ドワーフの鍛冶町グランガルドへ」
「なぜでございますか」
「ゴルド親方に、剣を造っていただくためです」
侍女は絶句した。
セレスティアは窓の外を見た。
白樹の森の先。
そのさらに向こう。
前世で歩いたはずの道がある。
前世で笑った者たちがいた。
前世で剣を振った戦場があった。
そして、前世の自分に剣を打ってくれた頑固なドワーフがいた。
生きているかは分からない。
ドワーフは長命だが、ハイエルフほどではない。
それでも、確かめずにはいられなかった。
セレスティアは、胸に手を当てる。
そこには今も、前世の重みが残っている。
背に黒星を負っていた感覚。
左腰に閃白があった安心感。
あの二振りがなければ、自分はまだ完成していない。
そんな気がしてならなかった。
「わたくしには、剣が必要です」
侍女が震える声で言った。
「王女殿下には、王家の細剣がございます」
セレスティアは、壁に掛けられた美しい儀礼剣を見た。
細く、軽く、宝石で飾られた王族の剣。
美術品としては見事だった。
だが、武器として見れば、あまりにも軽い。
そして、今の自分の魔力制御には耐えられない。
セレスティアは困ったように笑った。
「軽すぎますわ」
その一言で、侍女はすべてを察した。
この王女は止まらない。
白樹の森が育てた姫でありながら、その魂は剣の道に焦がれている。
侍女は泣きそうな顔で尋ねた。
「陛下と王妃様には、何と」
「置き手紙を書いておきました」
「それは家出でございます」
「旅ですわ」
「同じでございます」
「では、王女としての視察も兼ねますわ」
「詭弁でございます」
「剣士は多少の詭弁を使うものです」
「王女殿下でございます」
「剣士でもありますわ」
侍女は額に手を当てた。
止められない。
幼い頃から仕えてきたから分かる。
セレスティアは、こうと決めたら止まらない。
王族としての責務を捨てる姫ではない。
民を軽んじる姫でもない。
だが、剣に関してだけは、どうしようもなく頑固だった。
侍女は小さく息を吐いた。
「せめて護衛を」
「目立ちますわ」
「姫様お一人の方が目立ちます」
「それもそうですわね」
「では」
「ですが、今回は一人で行きます」
「なぜですか」
セレスティアは少しだけ目を伏せた。
「前世の約束を果たしに行くのです。これは、わたくし自身で行かなければなりません」
侍女は黙った。
その言葉には、王女の我が儘ではない重みがあった。
前世。
約束。
輪廻。
侍女には、すべてを理解することはできない。
だが、セレスティアの目が本気であることだけは分かった。
セレスティアは窓を開けた。
夜風が銀髪を揺らす。
森の精霊たちがざわめいた。
王女が森を出る。
それは、白樹の森にとって小さな事件だった。
だが、世界にとっては違う。
一万年を生きるハイエルフの王女。
前世は人間の剣聖。
その少女が、再び大剣を求めて旅に出る。
それは後に、諸国の王を巻き込み、竜を斬り、神剣を生み、世界の歴史に名を刻む旅の始まりだった。
セレスティアは、最後に白樹の森を振り返った。
月光に照らされた森は美しかった。
静かで、清らかで、優しい。
けれど、セレスティアの胸には、炉の火の記憶があった。
鉄を焼く匂い。
槌の音。
怒鳴るドワーフの声。
そして、黒星と閃白の重み。
セレスティアは小さく呟いた。
「待っていてくださいませ、ゴルド親方。今度も、わたくしの剣を造っていただきますわ」
そうして、ハイエルフ王家第1王女セレスティアは、白樹の森を出た。
背にあるのは木剣。
胸にあるのは前世の記憶。
目指すは、ドワーフの鍛冶町グランガルド。
そして、五十一年前に交わした約束。
黒星。
閃白。
剣聖セレスティアの二振りを、今生のセレスティアの剣として、もう一度造ってもらうために。
セレスティアの旅は、ここから始まった。




