第18話 バカ姫再鍛錬中
翌朝。
ゴルドの鍛冶場の前には、新しい看板が立っていた。
神格位修行中。
剣戟・魔力干渉注意。
バカ姫再鍛錬中。
セレスティアは、その看板の前でしばらく立ち止まった。
上二行は良い。
内容も正確である。
神格位へ至るための修行。
剣戟と魔力干渉の危険。
どちらも必要な注意喚起だ。
問題は三行目である。
バカ姫再鍛錬中。
小さな字で書くと言っていたはずなのに、思ったより大きい。
少なくとも、通りすがりの者には十分読める大きさだった。
セレスティアは、隣にいた若い弟子を見た。
「小さく書く、というお話でしたわね」
弟子は目を逸らした。
「親方基準では、小さいそうです」
「親方基準」
「はい」
「便利な基準ですわね」
「僕に言われましても」
セレスティアは小さく息を吐いた。
鍛冶町グランガルドの朝は、今日も騒がしい。
槌の音。
炉の音。
荷車の音。
職人たちの怒鳴り声。
そして、看板を見に来た町の子どもたちの声。
「バカ姫、また鍛えるんだって!」
「神格位って何だ?」
「すごく強いやつだろ!」
「じゃあ、バカ姫がもっと強くなるのか!」
セレスティアは、にこりと微笑んだ。
子どもたちは、ぴたりと止まる。
「皆様」
「は、はい!」
「バカ姫ではなく、セレスティアですわ」
「黒星の姫!」
「それは許容します」
「武器庫姫!」
「やや不本意ですが、否定しきれません」
「酒強姫!」
「却下ですわ」
子どもたちは笑いながら走っていった。
セレスティアは額に手を当てる。
もう、この町での呼び名の統制は不可能に近い。
それでも、今日から始まる修行を思えば、些細な問題だった。
些細ではない。
だが、些細と考えるべきだった。
セレスティアは鍛冶場の扉を開けた。
中には、すでにゴルドがいた。
腕を組み、剣炉の前に立っている。
黒星と閃白は、作業台の上に並べられていた。
その横には、ミスリルの小剣と、残っている投げナイフ十二本。
古戦場に置いてきた三本の分が空いている。
空いた溝を見るたびに、セレスティアは少しだけ肩身が狭かった。
ゴルドは、こちらを見ずに言った。
「飯は食ったか」
「食べましたわ」
「肉は」
「食べました」
「魚は」
「食べました」
「豆は」
「食べました」
「酒は」
「飲んでおりません」
「よし」
「朝から飲むと思われておりますの?」
「酒でわしに勝ったバカ姫だからな」
「それは一度きりですわ」
「一度でも十分だ」
ゴルドは振り返った。
その目は、いつもの不機嫌なものだった。
だが、奥にある火は昨日より鋭い。
鍛冶師の目。
師の目。
そして、戦いの準備をする者の目だった。
「傷は」
「痛みはありますが、動けます」
「動くな」
「はい?」
「今日は剣を振らせねぇ」
セレスティアは目を瞬かせた。
「修行初日ですのに?」
「だからだ」
ゴルドは作業台を叩いた。
「お前はすぐ剣を振りたがる」
「剣士ですので」
「それが駄目だ」
「駄目」
「今必要なのは、剣を振る前の修行だ」
セレスティアは黙った。
ゴルドは、黒星と閃白を指した。
「今のお前は、黒星と閃白を使える」
「はい」
「だが、眷属のお前と戦った時、使いすぎた」
「……はい」
「一手ごとに魔力を使いすぎだ。閃白の補正も多い。黒星の受け流しも、角度ではなく魔力で逃がしすぎている」
「自覚はあります」
「なら、今日は振るな」
ゴルドは、石床に描かれた測定陣を指した。
「立て」
セレスティアは、測定陣の中央に立った。
弟子たちが水晶板と銀線の測定具を用意する。
肩。
肘。
手首。
腰。
膝。
足首。
そして今回は、胸元と背中にも細い銀線が通された。
セレスティアは首を傾げる。
「これは?」
「呼吸を見る」
「呼吸」
「黒星と閃白を使う時、お前は魔力制御に意識を寄せすぎる。その結果、呼吸が浅くなる瞬間がある」
「古戦場で?」
「ああ。報告の中にあった」
セレスティアは少し考えた。
一時間の斬り合い。
黒星と閃白。
疲れない眷属。
自分は呼吸を整えていたつもりだった。
だが、閃白の線を置く瞬間、わずかに呼吸が止まっていた。
言われてみれば、心当たりがある。
「呼吸が止まると」
「魔力の巡りが詰まる」
「はい」
「詰まれば、次の一手で余分な魔力を使う」
「それで消耗する」
「そうだ」
ゴルドは水晶板の横に立った。
「剣を持つな。構えだけ取れ」
セレスティアは、何も持たずに黒星の構えを取った。
右手に黒星があるつもりで。
左手に閃白があるつもりで。
足を置く。
背を整える。
魔力を流す。
その瞬間、ゴルドが怒鳴った。
「止めろ」
「はい?」
「今、呼吸が止まった」
「まだ構えただけですわ」
「構えただけで止めるな」
セレスティアは、少し驚いた。
水晶板を見る。
確かに、胸元の銀線が一瞬だけ途切れたように光っている。
呼吸の流れが止まっていた。
ゴルドは眉間に皺を寄せる。
「お前は、剣を持つ前から戦いに入りすぎる」
「悪いことですの?」
「相手が人間ならな」
「邪神格相手には違う」
「そうだ」
ゴルドは言った。
「相手は疲れねぇ。お前が勝手に自分を削れば、それだけで負ける」
セレスティアは頷いた。
「もう一度お願いします」
「頼む相手は自分の身体だ」
「……はい」
もう一度、構える。
今度は呼吸を意識する。
吸う。
吐く。
魔力を流す。
構える。
だが、構えた瞬間、わずかに呼吸が固まる。
「止まった」
「もう一度」
「止まった」
「もう一度」
「浅い」
「もう一度」
「魔力が先に出た」
「もう一度」
「肩が硬い」
「もう一度」
剣を持たない修行が続いた。
ただ立つ。
ただ構える。
ただ呼吸する。
だが、それが難しい。
黒星と閃白が手元にないからこそ、身体の癖が露骨に出る。
前世の記憶がある。
剣聖としての勘がある。
今生の魔力制御がある。
それらが優れているからこそ、セレスティアは戦闘に入る瞬間、無意識に魔力を先走らせていた。
眷属セレスティアとの戦いでは、それが消耗になった。
前世の自分の剣を相手にするため、過剰に細かく対応しすぎた。
ゴルドは、それを潰そうとしている。
セレスティアは、汗をかき始めた。
剣を振っていない。
走ってもいない。
それなのに、神経が削られる。
呼吸。
魔力。
重心。
意識。
それらを一つずつ整える。
ゴルドは容赦しない。
「息を止めるな」
「はい」
「魔力を先に出すな」
「はい」
「怒りを混ぜるな」
「……はい」
その言葉に、セレスティアの動きが止まった。
ゴルドは見逃さない。
「今、入ったな」
「怒りが?」
「ああ」
セレスティアは目を伏せた。
構える時、封印地の眷属セレスティアを思い出した。
前世の身体。
邪神格。
黒星と閃白。
家族を滅ぼした事実。
それが、魔力に混ざった。
わずかだが、黒い揺れとして水晶板に映っていた。
セレスティアは小さく息を吐く。
「難しいですわね」
「当たり前だ」
ゴルドは言った。
「剣を振る方が簡単だろう」
「はい」
「だから、今日は振らせねぇ」
「……なるほど」
剣を振れば、怒りを力に変えられる。
悲しみを勢いにできる。
だが、それでは眷属セレスティアに勝てない。
疲れない相手に、燃える感情で挑めば先に燃え尽きる。
怒りを芯にしろ。
炎ではなく、芯に。
昨日、ゴルドはそう言った。
それを今、身体で叩き込まれている。
セレスティアは、もう一度構えた。
怒りはある。
消えない。
消す気もない。
だが、表に出さない。
魔力に混ぜない。
胸の奥に沈める。
黒星の芯のように。
ただ、そこに置く。
呼吸。
吸う。
吐く。
魔力。
細く。
静かに。
重心。
足裏へ。
肩。
落とす。
視線。
前へ。
水晶板の光が、今までより静かに流れた。
ゴルドが、少しだけ目を細める。
「悪くねぇ」
セレスティアは、息を吐いた。
「少し掴めましたわ」
「掴んだ気になるな」
「はい」
「十回続けろ」
「十回」
「乱れずにだ」
セレスティアは頷いた。
一回。
二回。
三回。
四回目で怒りが混じった。
「やり直し」
「はい」
一回。
二回。
三回。
四回。
五回目で呼吸が浅くなった。
「やり直し」
「はい」
一回。
二回。
三回。
四回。
五回。
六回目で魔力が先に出た。
「やり直し」
「はい」
弟子たちは、黙って見ていた。
最初は、剣を振らない修行に不思議そうな顔をしていた。
だが、今は誰も軽く見ていない。
セレスティアほどの剣士が、ただ構えるだけで何度もやり直している。
それは、剣の根本を鍛える作業だった。
古参の職人が、小さく呟いた。
「剣を打つ前の鉄を見るようなものだな」
若い弟子が尋ねる。
「鉄を見る?」
「叩く前に、熱の入り方を見る。曲げる前に、芯の状態を見る。そこで誤れば、どれだけ叩いても歪む」
「姫様自身の芯を見ているのですか」
「そうだ」
ゴルドが振り返らずに言った。
「しゃべっている暇があるなら記録を取れ」
「はい!」
修行は午前いっぱい続いた。
十回連続で、呼吸も魔力も怒りも乱さず構える。
それだけの修行。
しかし、終わった時、セレスティアの額には汗が浮かんでいた。
脇腹の傷にも少し熱がある。
ゴルドはそれを見て言った。
「今日はここまでだ」
「まだできますわ」
「やらせねぇ」
「ですが」
「傷が開く」
セレスティアは反論を飲み込んだ。
自分の身体の状態は分かっている。
確かに、これ以上続ければ傷に響く。
ゴルドは水を投げてよこした。
「飲め」
「ありがとうございます」
「飯を食え」
「はい」
「寝ろ」
「昼ですわ」
「昼寝しろ」
「子ども扱いですわね」
「怪我人扱いだと言っただろうが」
「はい」
セレスティアは水を飲んだ。
冷たい水が喉を通る。
身体の奥で、魔力が少し落ち着いた。
その時、入口の弟子が駆け込んできた。
「親方」
「あん?」
「看板を見た町の者が、神格位修行とは何かと聞いています」
「追い返せ」
「それが、見学はできないのかと」
「できるわけねぇだろうが」
ゴルドは不機嫌そうに言った。
「近づけば巻き込まれると書いておけ」
セレスティアは即座に顔を上げた。
「また看板を増やすおつもりですの?」
「必要事項だ」
「見学不可と書けば十分ですわ」
「神格位修行見学不可」
「はい。それでよろしいかと」
ゴルドは少し考えた。
「下に小さく、バカ姫が集中できないため」
「不要です」
「集中できねぇだろうが」
「できます」
「本当にか」
「……できるよう努力します」
「なら書く」
「お待ちくださいませ」
結局、看板はこうなった。
神格位修行見学不可。
剣戟・魔力干渉の危険あり。
小さく。
バカ姫の集中保持のため。
セレスティアは、外に出てそれを見た。
「また小さくありませんわ」
弟子は申し訳なさそうに言った。
「親方基準です」
「親方基準、恐るべしですわね」
町の者たちは看板を見て笑っていた。
だが、同時に距離を取った。
神格位修行。
剣戟。
魔力干渉。
危険。
その言葉は、ただの冗談ではないと誰もが分かっていた。
セレスティアは鍛冶場へ戻った。
黒星と閃白は、まだ作業台の上にある。
今日は触らなかった。
それでも、修行は確かに始まっていた。
剣を振る前の修行。
怒りを芯にする修行。
呼吸と魔力を整え、消耗を抑える修行。
眷属セレスティアに勝つための、一番地味で、一番必要な一歩。
セレスティアは、黒星に手を伸ばしかけた。
だが、止めた。
今日は振らない。
そう決められている。
ゴルドが横目で見る。
「触るなよ」
「まだ何もしておりませんわ」
「顔が触りたいと言っている」
「黒星と閃白が寂しそうでしたので」
「剣のせいにするな」
「少しだけ」
「駄目だ」
セレスティアは残念そうに手を下ろした。
ゴルドはため息をつく。
「やっぱり看板が要るな」
「何の看板ですの?」
「修行中、バカ姫に剣を触らせるな」
「それは本当に不要ですわ」
「必要だろうが」
「……今日は我慢します」
「今日は、か」
「はい」
「明日も我慢しろ」
「明日は剣を振るのでは?」
「傷次第だ」
「では、治します」
「気合で治すな。寝て治せ」
セレスティアは小さく笑った。
そして、ようやく椅子に座った。
身体は疲れている。
剣を振っていないのに、深く疲れている。
だが、その疲労は悪くなかった。
無駄ではない。
確かに、強くなるための疲れだった。
ゴルドは作業台の設計図を見つめていた。
今生の黒星と閃白。
前世の黒星と閃白。
そして、神格位へ至るための段階。
通常剣。
準神格位。
神格位。
大神格位。
神剣。
道は遠い。
だが、今日一日で、セレスティアは一つ理解した。
神格位へ至るとは、剣だけを鍛えることではない。
使い手の芯を鍛えることでもある。
怒りを燃やすのではなく、芯にする。
悲しみを剣筋に混ぜるのではなく、目的として置く。
前世の自分を憎むのではなく、解放するために斬る。
その在り方に、黒星と閃白が応えるかどうか。
そこから、神格位への道は始まるのだ。
セレスティアは、静かに目を閉じた。
明日は、もっと難しくなる。
明後日は、さらに。
いずれ邪神の別眷属を斬りに行く。
黒星と閃白を準神格位へ近づける。
そして、白樹の森へ戻り、精霊王の祝福を受ける。
そのすべての最初が、今日の呼吸だった。
ゴルドが言った。
「寝る前に飯だ」
「はい」
「肉を食え」
「はい」
「魚も食え」
「はい」
「豆も食え」
「はい」
「酒は飲むな」
「飲みませんわ」
「本当だな」
「本当です」
「酒強姫は信用ならん」
「その呼び名は却下ですわ」
鍛冶場に、また小さな笑いが起きた。
セレスティアも笑った。
脇腹は痛む。
心にも傷は残っている。
だが、もう膝をついてはいない。
今のままでは勝てない。
だから、今のままではいない。
バカ姫再鍛錬中。
不名誉な看板の下で、セレスティアの神格位修行は静かに始まった。




