第17話 神格位へ至る剣
翌朝。
ゴルドの鍛冶場には、いつもより重い空気が満ちていた。
剣炉には火が入っている。
だが、黒星や閃白を打っていた時のような高揚はない。
赤い火は静かに燃え、石壁を照らし、鍛冶場の奥に長い影を作っていた。
セレスティアは作業台の前に座っていた。
脇腹には包帯。
傷は浅い。
だが、前世の閃白による傷である。
肉だけではなく、魔力の流れまで細く裂かれていた。
古参の職人の処置によって歪みは整えられている。
それでも、まだ剣を振るべき状態ではない。
黒星は作業台の横に置かれていた。
閃白も、その隣にある。
いつもなら背負い、左腰に差している二振りが、今日はセレスティアの手元から離れている。
それだけで、少し落ち着かない。
だが、今は身体を休める時だった。
ゴルドは作業台の向こうに立っていた。
前には、二枚の羊皮紙。
一枚は、今生の黒星と閃白の設計図。
もう一枚は、五十一年前の黒星と閃白の古い設計図。
さらに、セレスティアが古戦場で見た眷属セレスティアの動きを書き出した記録が並んでいる。
黒星の重さ。
閃白の伸び。
連携。
疲労なし。
痛覚なし。
魂なし。
邪神格。
その文字の一つ一つが、鍛冶場の空気を重くしていた。
ゴルドは、長い沈黙の後、口を開いた。
「結論から言う」
セレスティアは顔を上げた。
「はい」
「今のお前では勝てねぇ」
はっきりした言葉だった。
慰めもない。
遠回しでもない。
だが、セレスティアは目を逸らさなかった。
「はい」
「剣技の話じゃねぇ」
ゴルドは黒星と閃白を見た。
「剣士としてのお前は、前より強い」
鍛冶場の弟子たちが息を呑む。
ゴルドがここまではっきり褒めることは珍しい。
だが、セレスティアは喜ばなかった。
この先に続く言葉が分かっていたからだ。
ゴルドは続けた。
「黒星も閃白も悪くねぇ。むしろ、今のお前にはよく合っている。黒星は前より細かく受け流せる。閃白は前より魂の座に近い線を描ける」
「はい」
「だが、それでも届かねぇ」
ゴルドは、羊皮紙に書かれた一語を指で叩いた。
邪神格。
「相手は剣士じゃねぇ」
声が低くなる。
「邪神格だ」
セレスティアは黙って聞いていた。
「前のお前の肉体を使っている。前の黒星と閃白も持っている。だが、問題の本質はそこじゃねぇ」
「邪神格そのものを斬れないこと」
「そうだ」
ゴルドは頷いた。
「今のお前の剣は、肉体には届く。前の黒星も受けられる。前の閃白とも打ち合える。だが、邪神格までは届かねぇ」
「肉体を斬っても止まらない」
「ああ」
「魂がないから、痛みも恐怖もない」
「ああ」
「なら、魂の座に入った邪神格を斬るしかない」
「その通りだ」
セレスティアは、閃白を見た。
今生の閃白。
三層導線を持つ白銀の剣。
魂の座へ届く可能性を持つ剣。
だが、まだ可能性でしかない。
実際には、届かなかった。
ゴルドは言った。
「今の閃白は、魂の座の位置をなぞることはできる」
「はい」
「だが、邪神格を裂くには格が足りねぇ」
「格」
「ああ」
ゴルドは、作業台の端に置いていた別の羊皮紙を広げた。
そこには、荒い字でいくつかの段階が書かれていた。
通常剣。
準神格位。
神格位。
大神格位。
神剣。
セレスティアは、その文字を見つめる。
「剣の格ですのね」
「そうだ」
ゴルドは槌の柄で、最初の文字を叩いた。
「普通の剣は、どれほど名剣でも通常剣だ」
「黒星と閃白も、今はそこですの?」
「通常剣の最上位だ」
ゴルドは即答した。
「ただの剣とは比べものにならねぇ。伝説級の剣だ。お前の魔力にも応える。竜も魔物も斬れる。だが、まだ神格位じゃねぇ」
「邪神格を斬るには足りない」
「そうだ」
ゴルドは次の文字を指した。
「準神格位」
「神性に触れ始めた剣、ですわね」
「ああ。神獣の血、邪神眷属の核、高位精霊の祝福、神域の鍛錬。そういうものを経て、普通の剣を超え始める段階だ」
「黒星と閃白は、そこへ至る器がありますか」
ゴルドは鼻を鳴らした。
「なければ打たねぇ」
セレスティアは少しだけ微笑んだ。
ゴルドは続ける。
「次が神格位」
「神性を斬れる剣」
「そうだ。邪神格や神格に干渉できる。魂の座へ入った邪神格を裂くなら、最低でもここが必要だ」
「最低でも」
「ああ」
ゴルドは、さらに次の文字を叩いた。
「大神格位」
「神格そのものに対抗する剣」
「神の眷属じゃねぇ。神に近いものを斬る領域だ」
「そして、神剣」
セレスティアが言う。
ゴルドは、少しだけ目を細めた。
「神剣は、剣というより神話だ」
「神話」
「世界の理に名前を刻まれた剣だ。持ち主だけの武器じゃねぇ。存在そのものが意味を持つ」
鍛冶場の中が静かになる。
弟子たちも、古参の職人も、その言葉を聞いていた。
神剣。
ただ強い武器ではない。
世界に刻まれる剣。
神話となる剣。
セレスティアは、黒星と閃白を見た。
「黒星と閃白は、神剣になれますか」
ゴルドは黙った。
しばらく、炉の火だけが鳴った。
やがて、ゴルドは低く答えた。
「なれる可能性はある」
セレスティアの胸が、静かに震えた。
「だが、今じゃねぇ」
「はい」
「順番を間違えるな。いきなり神剣にはならねぇ。まずは準神格位だ」
「準神格位へ至るには」
「邪神の別眷属を斬る」
ゴルドの言葉に、鍛冶場の空気が引き締まった。
「邪神の別眷属」
「ああ。封印地の外へ漏れた邪神の残滓。邪神の血を受けた魔獣。邪神格の欠片を持つ小眷属。そういうものを狩る」
「黒星と閃白に、神性を斬る経験を刻むのですね」
「そうだ」
ゴルドは黒星を指した。
「黒星は、邪神の力を受けても折れない芯を作る必要がある」
次に、閃白を見る。
「閃白は、邪神格の薄皮を裂く感覚を覚える必要がある」
「わたくし自身も」
「ああ」
ゴルドはセレスティアを見る。
「お前自身も、邪神格と戦う感覚を身につける必要がある。古戦場の眷属セレスティア相手に、それを初見でやるな」
「はい」
「次に行く時は、練習では済まねぇ」
「分かっております」
セレスティアは静かに頷いた。
古戦場での一時間。
あれは実戦だった。
命を落としていてもおかしくなかった。
だが、同時に情報を得た。
今のままでは届かない。
なら、届かせる。
ゴルドは、今度は別の文字を書いた。
精霊王。
セレスティアは目を細める。
「白樹の森へ戻る必要がありますのね」
「最終的にはな」
「精霊王の祝福」
「ああ」
ゴルドは頷いた。
「お前はハイエルフ王家の第1王女だ。精霊との親和性も高い。白樹の森には精霊王がいる」
「精霊王に祝福していただければ、神格位に近づける」
「お前自身か、剣か、あるいは両方だ」
セレスティアは、少しだけ沈黙した。
白樹の森。
父。
母。
弟。
妹。
家族。
密偵がついていることは、薄々分かっている。
おそらく、王家は自分の行動を把握している。
戻れば叱られるだろう。
王女として無断で森を出た。
公爵家の跡へ行き、古戦場へ行き、怪我をして戻ってきた。
叱られないはずがない。
だが、戻らなければならない。
邪神格と戦うために。
神格位へ至るために。
そして、自分が一人で背負わないために。
セレスティアは静かに言った。
「白樹の森には戻ります」
「今すぐじゃねぇ」
「はい」
ゴルドは羊皮紙に線を引いた。
「まずはここで修行だ」
「黒星と閃白の扱いを詰める」
「ああ。特に省魔力化と撤退だ」
「戦術的撤退ですわ」
「逃げる訓練だ」
「まだそこは譲っていただけませんのね」
「譲らん」
セレスティアは少しだけ笑った。
ゴルドは続ける。
「次に、邪神の別眷属を狩る」
「場所は分かりますか」
「古戦場周辺に残滓があるなら、周辺の廃村、地下墓地、封印の裂け目、昔の戦陣跡にいるはずだ」
「なるほど」
「だが、いきなり強いのに行くな。小さい残滓からだ」
「子ども扱いですわね」
「怪我人扱いだ」
セレスティアは反論できなかった。
脇腹の傷が、まだじんわりと痛む。
ゴルドは、さらに書き足す。
「邪神眷属を斬り、黒星と閃白を準神格位へ近づける」
「はい」
「その後、白樹の森へ戻る」
「はい」
「精霊王の祝福を受ける」
「はい」
「そこで、お前か剣が神格位に届くかを見る」
セレスティアは、ゆっくりと息を吸った。
「もし届かなければ」
「さらに狩る」
ゴルドの答えは単純だった。
「足りなければ増やす。届かなければ鍛える。神格位が必要なら、神格位まで上げる。それだけだ」
「簡単に言いますのね」
「お前なら言うだろう」
「言いますわ」
セレスティアは微笑んだ。
「では、上げます」
「簡単に言うな」
「難しいから、やる意味があります」
「バカか」
「剣士ですもの」
「関係ねぇ」
鍛冶場の弟子たちが、少し笑った。
重かった空気が、わずかに動く。
だが、すぐにゴルドが睨んだため、弟子たちは作業へ戻った。
セレスティアは、黒星と閃白を見る。
「黒星と閃白が神格位を得れば、眷属セレスティアを斬れますか」
「可能性は高い」
「わたくし自身が神格位を得れば」
「もっと高い」
「両方なら」
「ようやく戦いになる」
セレスティアは、その言葉の重さを受け止めた。
ようやく戦いになる。
つまり、神格位を得ても勝利が確定するわけではない。
相手は、前世の剣聖セレスティアの肉体。
前世の黒星と閃白。
邪神格。
封印地の護り手。
存在の格を揃えて、ようやく同じ土俵。
そこから先は、剣士として勝たねばならない。
「望むところですわ」
「顔を緩めるな」
「少しだけです」
「その少しが信用ならん」
ゴルドはため息をついた。
そして、弟子へ向かって言った。
「板を持ってこい」
セレスティアは即座に顔を上げた。
「ゴルド親方」
「あん?」
「まさか、また看板ですの?」
「必要事項だ」
「何を書くおつもりです」
ゴルドは当然のように言った。
「バカ姫、神格位修行開始」
セレスティアは目を閉じた。
弟子たちがすでに笑いを堪えている。
「却下ですわ」
「なぜだ。分かりやすい」
「分かりやすすぎますし、王女の名誉がどこにもありません」
「まだ残っていたのか」
「残っております」
「本当にか」
「あります」
セレスティアは強めに言った。
ゴルドは少し考えた。
「なら、こうだ」
「嫌な予感しかしません」
「神格位修行中。バカ姫に近づくと巻き込まれる」
「ほとんど変わっておりません」
「注意喚起だ」
「それなら、せめて」
セレスティアは少し考えた。
「神格位修行中。剣戟・魔力干渉注意」
ゴルドは不満そうに眉を寄せた。
「バカ姫要素がねぇ」
「不要です」
「看板の統一感が」
「捨ててください」
「前にも聞いたな」
「何度でも申し上げます」
古参の職人が、静かに口を挟んだ。
「親方、今回は神格位に関わる修行です。外向きには姫様の案がよろしいかと」
ゴルドは古参を睨んだ。
だが、少しして鼻を鳴らした。
「……下に小さく書く」
「何をですか」
「バカ姫再鍛錬中」
「結局書くのですね」
「小さくだ」
「大きさの問題ではありませんわ」
弟子が板を持ってきた。
最終的に、看板はこうなった。
神格位修行中。
剣戟・魔力干渉注意。
小さな字で。
バカ姫再鍛錬中。
セレスティアは、それを見て深くため息をついた。
「最後の一行がなければ完璧でしたわ」
「最後の一行が大事だ」
「大事ではありません」
「近所の者には分かりやすい」
「分かりやすさが名誉を殺しております」
「名誉で邪神格は斬れねぇ」
セレスティアは言葉に詰まった。
便利に使われている。
だが、反論しづらい。
名誉で邪神格は斬れない。
確かに、その通りだった。
セレスティアは、黒星と閃白へ視線を戻す。
「ゴルド親方」
「あん?」
「神格位へ至るには、黒星と閃白も変わりますか」
「変わる」
「剣として?」
「存在としてだ」
ゴルドは低く答えた。
「今の黒星と閃白は、よくできた剣だ。だが、まだ剣は剣だ」
「神格位へ至れば」
「剣でありながら、ただの剣ではなくなる」
「怖いですわね」
「怖がれ」
ゴルドの声は真剣だった。
「神格位ってのは、飾りじゃねぇ。強くなるだけでもねぇ。剣に意思のようなものが宿り始めることもある。使い手を選ぶこともある。神性に触れるってのは、そういうことだ」
「黒星と閃白が、わたくしを選ばない可能性もありますか」
「ないとは言わん」
セレスティアは静かに頷いた。
「なら、選ばれる剣士になります」
「当然だ」
「そこは励ましてくださらないのですね」
「選ばれる気がねぇ奴に神格位の剣は持てん」
「正論ですわ」
ゴルドは、黒星の剣身を見た。
「黒星は、お前の前へ出る意志を食う」
「意志を」
「ああ。守るものを背に置き、前へ出る意志だ。それが鈍れば、黒星は重くなる」
次に、閃白を見る。
「閃白は、お前の迷いを嫌う」
「迷い」
「斬るべき線を置けないなら、閃白は走らない。神格位へ近づけば、その傾向は強くなる」
セレスティアは、息を整えた。
黒星は意志。
閃白は迷いなき線。
どちらも、ただの道具ではなくなっていく。
神格位とは、剣の力を増すだけではない。
使い手の在り方まで問う段階なのだ。
ゴルドは言った。
「だから修行だ」
「はい」
「身体を鍛えるだけじゃねぇ。剣に選ばれる中身を作れ」
「はい」
「前の自分を救うために戦うのか」
「はい」
「家族の仇を討つためか」
「それもあります」
「邪神を許せないからか」
「はい」
「なら、それを混ぜるな」
セレスティアは顔を上げた。
「混ぜるな?」
「怒りも悲しみも仇もあるだろう。だが、剣を振る時に全部混ぜれば濁る」
ゴルドの声が重くなる。
「黒星で前へ出る理由を一つにしろ」
「一つ」
「閃白で斬る線も一つにしろ」
セレスティアは黙った。
胸の中には、多くの感情がある。
前世の家族を滅ぼされた悲しみ。
邪神への怒り。
前世の身体を使われた嫌悪。
ゴルドの剣を汚された悔しさ。
公爵家が断絶した痛み。
自分自身への責任。
それらが混ざっている。
ゴルドは、それを見抜いている。
「今のお前は、怒りで剣を振りかねねぇ」
「……はい」
「怒りは力になる。だが、長くは持たん」
「はい」
「眷属のお前は疲れねぇ。なら、怒りだけで行けば先に尽きる」
「分かりました」
「怒りを消せとは言わねぇ」
ゴルドは言った。
「芯にしろ。炎じゃなく、芯にだ」
セレスティアは、その言葉を胸に置いた。
怒りを燃やせば、消耗する。
怒りを芯にすれば、折れない。
悲しみも同じ。
後悔も同じ。
それを剣の軸に変える。
セレスティアは、深く息を吸った。
「守るために前へ出る」
ゴルドは黙っていた。
「前世のわたくしは、退路を守るために死にました」
「ああ」
「今生のわたくしは、前世のわたくしを解放するために前へ出ます」
「それで」
「今度は、一人で背負わず、生きて戻る」
ゴルドの目が細くなる。
「悪くねぇ」
セレスティアは静かに微笑んだ。
「それを黒星の芯にします」
「閃白は」
「邪神格だけを斬る」
セレスティアは閃白を見た。
「前世の肉体を憎むのではなく、そこに巣食う邪神格を斬る。迷いなく、その線だけを置く」
ゴルドは、しばらく何も言わなかった。
やがて、短く言う。
「悪くねぇ」
セレスティアは頭を下げかけた。
だが、途中で止めた。
ゴルドが言ったからだ。
修行する者が、最初から下を向くな、と。
だから、顔を上げたまま答える。
「ありがとうございます」
「まだ礼を言う段階じゃねぇ」
「はい」
「傷を治せ」
「はい」
「飯を食え」
「はい」
「寝ろ」
「はい」
「明日から、神格位へ至るための地獄だ」
セレスティアは、少しだけ口元を緩めた。
「楽しみですわ」
「楽しむな」
「無理ですわ」
「やっぱりバカだな」
「剣士ですもの」
「関係ねぇ」
鍛冶場に、久しぶりに笑いが戻った。
だが、その笑いの奥に、全員が理解していた。
これから始まるのは、ただの修行ではない。
邪神格へ届くための再鍛錬。
剣を神格位へ至らせる道。
セレスティア自身が、神格位へ近づくための旅。
ゴルドは剣炉へ薪を足した。
火が強くなる。
赤い炎の奥に、黒星の黒銀と閃白の白銀が照らされる。
セレスティアは、その二振りを見つめた。
今のままでは勝てない。
だが、勝てないままでいるつもりはない。
準神格位。
神格位。
大神格位。
神剣。
その道は遠い。
だが、歩くしかない。
前世の自分を解放するために。
邪神が穢した死を取り戻すために。
そして、今生のセレスティアとして、前世の剣聖を本当に超えるために。
鍛冶場の外では、新しい看板が風に揺れていた。
神格位修行中。
剣戟・魔力干渉注意。
バカ姫再鍛錬中。
それを見た町の者たちは、また何かが始まるのだと悟った。
そして、鍛冶場の中では、黒星と閃白が静かに火を映していた。
神格位へ至る剣として、最初の一歩を踏み出すために。




