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神剣のセレスティア  作者: 玉響すばる


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第14話 死してなお立つ者

 古戦場へ向かう道は、地図には載っていなかった。


 かつては軍道だったはずだ。


 兵が通り。


 補給馬車が進み。


 負傷者が運ばれ。


 祈りと怒号と鉄の音が満ちていたはずの道。


 だが今は、草に埋もれている。


 石畳は割れ、黒い苔が張りつき、ところどころ地面が不自然に沈んでいた。


 セレスティアは、その道を歩いていた。


 背には黒星。


 左腰には閃白。


 背中にはミスリルの小剣。


 外套の内側には投げナイフ十五本。


 風は冷たい。


 空は重い。


 白樹の森を出てから、何度も街道を歩いた。


 鍛冶町グランガルドでは、火と鉄と酒と笑いの中にいた。


 だが、この道には何もなかった。


 鳥の声すら少ない。


 獣の気配も薄い。


 ただ、空気の奥に古い血の匂いが残っているような気がした。


 五十一年前の血が、まだ大地から消えていない。


 セレスティアは足を止めた。


 前方に、黒い丘が見えた。


 焼けたような土。


 ねじれた木々。


 草が生えていない地面。


 そこだけ、世界から切り取られたように死んでいる。


 古戦場。


 前世のセレスティアが、邪神に挑んだ場所。


 そして、おそらく前世の自分が死んだ場所。


 セレスティアは、胸に手を当てた。


 鼓動は静かだった。


 恐怖がないわけではない。


 だが、それ以上に、身体の奥が覚えている。


 この空気。


 この重さ。


 この嫌な魔力。


 邪神の気配。


「……ここですわね」


 黒星が、背でわずかに重くなった気がした。


 閃白も、左腰で静かに震える。


 二振りは、ここに何かがあると知っているようだった。


 セレスティアは、古戦場へ足を踏み入れた。


 一歩。


 空気が変わった。


 冷たい。


 だが、ただ寒いのではない。


 魂を撫でるような冷たさだった。


 黒い土を踏むたびに、前世の記憶が揺れる。


 兵の叫び。


 馬の嘶き。


 砕ける盾。


 空から降る黒い光。


 邪神の声。


 逃げろ、と誰かが叫んだ。


 いや。


 違う。


 叫んだのは自分だ。


「退け!」


 記憶の中のセレスティアが叫んでいる。


「ここはわたしが受け持つ! 負傷兵を下げなさい!」


 誰かが叫ぶ。


「セレスティア様!」


「振り返るな!」


 前世の自分の声。


 鋭く。


 強く。


 そして、少しも迷っていない声。


 黒星を右手に。


 閃白を左手に。


 あり得ない持ち方だった。


 本来、黒星は両手で振る大剣。


 閃白も両手で扱う剣。


 だが、その時のセレスティアは、もう常識の中にいなかった。


 剣聖ではなく。


 剣鬼だった。


 兵を逃がすために。


 守るべき者を逃がすために。


 ただ前へ出て、斬り続けた。


 セレスティアは、古戦場の中央へ向かって歩いた。


 記憶が押し寄せる。


 邪神の眷属が迫る。


 黒い獣。


 骨の翼を持つ異形。


 人の形をした影。


 倒しても倒しても湧いてくる。


 黒星が唸る。


 閃白が走る。


 右手の黒星で群れを砕く。


 左手の閃白で隙間を斬る。


 鎧は裂けていた。


 左肩は血に濡れていた。


 脇腹も斬られていた。


 足も傷ついていた。


 それでも立っていた。


 後ろには兵がいた。


 負傷者がいた。


 泣きながら逃げる若い騎士がいた。


 肩を貸されて退く兵がいた。


 守るべき人がいた。


 だから、倒れるわけにはいかなかった。


 セレスティアは、黒い丘の上で立ち止まった。


 そこに、折れた旗竿が刺さっていた。


 腐らず、風化もせず、黒く焼け焦げた旗竿。


 その根元に、錆びた兜が転がっている。


 セレスティアは膝を折り、兜に触れた。


 その瞬間、記憶が弾けた。


 兵が叫んでいる。


「殿下! もう無理です!」


「無理でも退くのです!」


「ですが!」


「命令です!」


 前世のセレスティアは笑っていた。


 血まみれで。


 身体中を斬られて。


 魂が削れ、魔力が尽きかけていて。


 それでも、笑っていた。


「行きなさい。わたしは剣聖ですもの」


 兵が泣きながら退く。


 セレスティアは振り返らない。


 振り返れば、足が止まる。


 足が止まれば、退路が潰れる。


 だから、前だけを見た。


 邪神がいた。


 空を覆うほどの黒い影。


 人の形をしているようで、人ではない。


 神と呼ぶには醜く。


 魔と呼ぶには大きすぎる。


 世界の裂け目から覗く、悪意そのもの。


 邪神が笑った。


 声ではなく、魂へ響く笑いだった。


 前世のセレスティアは、黒星を握り直した。


 右手の指は、すでに何本か折れていた。


 閃白を握る左手は、血で滑っていた。


 それでも離さなかった。


「あなたをここで止めます」


 邪神の眷属が殺到する。


 セレスティアは斬った。


 一体。


 二体。


 三体。


 数えきれない。


 黒星が骨を砕く。


 閃白が影を裂く。


 黒い血を浴びる。


 白い肌が赤と黒に染まる。


 足元に死骸が積み上がる。


 それでも、敵は減らない。


 身体が限界を超える。


 魔力が枯れる。


 呼吸が浅くなる。


 視界が暗くなる。


 それでも、剣を振った。


 魂が削れていく。


 命が尽きかける。


 それでも、守るべき人たちはまだ退ききっていない。


 だから、振った。


 振った。


 振った。


 剣聖セレスティアは、最後まで剣を振り続けた。


 やがて、音が遠くなった。


 兵の声が遠い。


 邪神の笑いも遠い。


 自分の呼吸すら分からない。


 黒星は右手にある。


 閃白は左手にある。


 立っている。


 まだ立っている。


 退路は守った。


 兵は逃げた。


 それだけが分かった。


 前世のセレスティアは、そこで死んだ。


 だが。


 倒れなかった。


 死してなお、立っていた。


 黒星を右手に。


 閃白を左手に。


 邪神の前に。


 退路を塞ぐように。


 剣聖セレスティアは、死んでもなお立っていた。


 現在のセレスティアは、息を呑んだ。


 膝をつきそうになる。


 だが、黒星の重みが背を支えた。


 閃白が左腰で震えた。


 セレスティアは、ゆっくりと立ち上がる。


「……そう、でしたのね」


 死んだ。


 自分は、そこで死んだ。


 負け戦だった。


 邪神を倒せなかった。


 勝てなかった。


 ただ、逃がした。


 兵を。


 守るべき人を。


 退路を守るために、剣鬼となって剣を振り続けた。


 その果てに、死んだ。


 セレスティアは、目を閉じた。


 胸の奥に痛みが走る。


 敗北の痛み。


 死の痛み。


 それでも、後悔ではなかった。


 あの時の自分は、そうするしかなかった。


 逃げるわけにはいかなかった。


 誰かが退路を守らなければ、全滅していた。


 だから、立った。


 だから、死んだ。


 そこまでは、受け入れられる。


 だが。


 記憶は、そこで終わらなかった。


 死んだはずの身体。


 魂が抜けたはずの肉体。


 その身体を、邪神は見逃さなかった。


 セレスティアの背筋が冷たくなる。


 記憶ではない。


 これは、大地に残った残響だった。


 邪神が見ていた。


 死してなお立つ剣聖の身体を。


 魂は尽きた。


 肉体は残った。


 それも、ただの肉体ではない。


 限界まで鍛え上げられた剣聖の身体。


 黒星と閃白を握り、死してなお倒れなかった肉体。


 邪神にとって、それは最適な器だった。


 魂の座が空いている。


 肉体は強い。


 剣は握られている。


 ならば、使える。


 邪神は、自らの欠片をそこへ入れた。


 邪神格。


 神格の断片。


 魂なき肉体の座へ、それを押し込んだ。


 死んだセレスティアの身体が、動いた。


 黒星が持ち上がる。


 閃白が白く光る。


 だが、それはもうセレスティアではなかった。


 剣聖の技を残したまま。


 剣聖の身体を使い。


 魂だけが違うものに置き換えられた。


 邪神の眷属。


 封印地の護り手。


 死してなお剣を振る、邪神格の器。


 セレスティアは、思わず口元を押さえた。


「……そんな」


 声が震えた。


 死んだことよりも。


 負けたことよりも。


 自分の身体が邪神に使われたことの方が、はるかに重かった。


 黒星と閃白を握る身体。


 守るために立った身体。


 それが、邪神の護り手にされた。


 セレスティアは、震える手で黒星の柄に触れた。


 今生の黒星。


 ゴルドが打ってくれた剣。


 前世の黒星は、あの死体の手にあったのだろうか。


 前世の閃白も。


 邪神格を入れられた自分の肉体が、それを振り続けたのか。


 その時、さらに記憶が流れ込んだ。


 いや。


 これは記憶ではない。


 古戦場に残された、誰かの悲鳴だった。


 公爵家の馬車。


 壊れた軍道。


 泣きながら走る人々。


 前世の両親。


 家族。


 公爵家に仕える騎士たち。


 使用人たち。


 彼らは、セレスティアを探していた。


 セレスティアが生きていると信じて。


 あの子は死んでいない。


 剣聖セレスティアは帰ってくる。


 黒星と閃白がある限り、あの子は死なない。


 そう信じて。


 彼らは、古戦場へ来た。


 そして、見つけた。


 立っているセレスティアを。


 腐敗もせず。


 朽ちもせず。


 死してなお美しいまま。


 黒星を右手に。


 閃白を左手に。


 血に染まった戦場の中央に立つ、剣聖セレスティアを。


 父が叫んだ。


「セレスティア!」


 母が泣きながら駆け出した。


 騎士が止めようとした。


 だが、遅かった。


 死したセレスティアの身体が、動いた。


 黒星が振るわれた。


 音が消えた。


 母の叫びが途切れた。


 父が剣を抜いた。


 公爵家の騎士たちが前へ出た。


 使用人たちが逃げようとした。


 だが、相手は剣聖セレスティアの身体だった。


 魂はなくとも。


 剣技は残っていた。


 邪神格が動かす肉体は、疲れを知らなかった。


 痛みを知らなかった。


 迷いを知らなかった。


 黒星が砕く。


 閃白が裂く。


 公爵家の騎士たちは、次々に倒れた。


 父も。


 母も。


 家族も。


 仕える者たちも。


 誰一人、セレスティアを斬れなかった。


 目の前にいるのは、愛した娘だったから。


 敬愛した主だったから。


 守ろうとした剣聖だったから。


 だから、滅ぼされた。


 公爵家は、古戦場で滅んだ。


 セレスティアの死体によって。


 邪神の眷属となった、剣聖セレスティアの肉体によって。


 現在のセレスティアは、ついに膝をついた。


 黒い土に手をつく。


 息が乱れる。


 胸の奥が、握り潰されるように痛い。


「わたくしが……」


 違う。


 自分ではない。


 魂はなかった。


 邪神が操った。


 自分の意思ではない。


 分かっている。


 理屈では分かっている。


 だが、その肉体は前世の自分だった。


 その手に黒星と閃白があった。


 その剣技で、家族を殺した。


 公爵家に仕える者たちを滅ぼした。


 だから、公爵家は断絶した。


 だから、人々は理由を言わなかった。


 言えなかった。


 英雄であるはずの剣聖セレスティア。


 兵を逃がすために死んだはずの女。


 その肉体が、家族と家臣を滅ぼしたなど。


 誰が口にできる。


 誰が記録に残せる。


 だから、肖像画は外された。


 記録は焼かれた。


 名は避けられた。


 人々は沈黙した。


 セレスティアという名は、五十一年経ってなお恐れられた。


 英雄の名であり。


 災厄の名でもあったから。


 セレスティアは、黒い土を握り締めた。


 指が震える。


「お父様……お母様……」


 前世の両親の顔が、ようやく少しだけ見えた。


 優しい父。


 厳しくも温かい母。


 剣の稽古で服を汚した自分を叱った母。


 それを見て笑った父。


 舞踏会より剣の稽古を好む娘に呆れながらも、最後には認めてくれた家族。


 彼らは、自分を探しに来た。


 生きていると信じて。


 そして、自分の死体に殺された。


 セレスティアの目から、涙が落ちた。


 ハイエルフの涙が、黒い土に染み込む。


 黒星が背で重い。


 閃白が左腰で静かに震えている。


 まるで、怒っているようだった。


 今生の黒星と閃白。


 ゴルドが打った二振り。


 前世の黒星と閃白ではない。


 けれど、その名を継ぐ剣。


 セレスティアは、ゆっくりと立ち上がった。


 涙は拭わなかった。


 そのまま、古戦場の中央を見る。


 遠くに、黒い柱のようなものが見えた。


 封印地。


 邪神が封じられた場所。


 そして、その護り手がいる場所。


 死した前世のセレスティア。


 邪神格を魂の座に入れられた肉体。


 黒星と閃白を握り続けた、もう一人のセレスティア。


 おそらく、そこにいる。


 今も。


 腐敗せず。


 朽ちず。


 死してなお剣を振り続けて。


 セレスティアは、深く息を吸った。


 胸の痛みは消えない。


 悲しみも消えない。


 罪悪感も消えない。


 だが、それ以上に、怒りがあった。


 邪神への怒り。


 前世の自分の死を利用したことへの怒り。


 守るために死んだ身体を、殺すための道具にしたことへの怒り。


 家族を滅ぼさせたことへの怒り。


 ゴルドが打った黒星と閃白を、邪神の護りに使わせたことへの怒り。


 セレスティアは、背の黒星を抜いた。


 黒銀の大剣が、古戦場の空気を裂く。


 左手で閃白を抜く。


 白銀の両手剣が、静かに光る。


 右手に黒星。


 左手に閃白。


 前世の最期と同じ構え。


 だが、今のセレスティアは生きている。


 魂がある。


 意思がある。


 怒りがある。


 そして、前世より強い。


 セレスティアは、封印地を見据えた。


「邪神」


 声は静かだった。


 だが、古戦場の空気が震えた。


「あなたは、わたくしの死を穢しました」


 黒星が重く鳴る。


「わたくしの身体を使い、家族を殺しました」


 閃白が白く震える。


「ゴルド親方の剣を、あなたの護りに使いました」


 セレスティアの瞳に、冷たい光が宿る。


「許しませんわ」


 風が止まった。


 黒い丘の向こうで、何かが動いた気配がした。


 セレスティアは剣を構えた。


「前世のわたくしが守った退路」


 一歩踏み出す。


「前世のわたくしが死した戦場」


 さらに一歩。


「前世のわたくしの肉体」


 黒星と閃白が、今生の魔力を受けて光る。


「すべて、わたくしが取り戻します」


 その時。


 封印地の方角から、白い閃きが走った。


 セレスティアは黒星で受けた。


 重い衝撃。


 黒星の左右芯が唸る。


 受け流す。


 返す。


 地面が裂ける。


 セレスティアの前方に、白銀の斬撃痕が走っていた。


 閃白の斬撃。


 前世の閃白。


 まだ、あの死体が持っている。


 セレスティアは、静かに笑った。


 悲しく。


 怒りを込めて。


 そして、剣士として。


「そこにいますのね」


 黒い霧の向こうに、人影が立っていた。


 血に染まった古い戦装束。


 右手に黒い大剣。


 左手に白銀の剣。


 長い髪。


 かつての人間の身体。


 死してなお腐らぬ、剣聖セレスティアの肉体。


 その瞳には、魂がなかった。


 代わりに、邪神の黒い光が宿っていた。


 今生のセレスティアは、黒星を構え直した。


 左手の閃白をわずかに下げる。


 前世の自分が、そこにいる。


 だが、あれは自分ではない。


 救うべき残骸。


 断つべき呪い。


 取り戻すべき名。


 セレスティアは、静かに告げた。


「お待たせしましたわ、前世のわたくし」


 黒い霧が揺れる。


 死した剣聖が、黒星を持ち上げた。


 今生のセレスティアは、一歩踏み込んだ。


「今度こそ、終わらせます」

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