第92話 百年後
邪神戦争から、百年が過ぎた。
世界は、変わった。
封印地外縁に建てられた邪神戦争記録所は、今も静かに立っている。
神殿ではない。
祠でもない。
巡礼地でもない。
祈るための場所ではなく、記録を読むための場所である。
入口の石碑には、今も同じ言葉が刻まれていた。
祈る前に、記録を読め。
生者は、死者を利用せず、死者から学ぶべし。
その横の中庭には、何度も板を替えられながらも、変わらず掲げられている補助掲示がある。
拝むな。
読め。
覚えろ。
飯を食え。
百年の間に、世界連合は何度も制度を改めた。
死者名簿保全官は各地に根づいた。
死者名簿への追加申請には、慎重な照合が行われるようになった。
家伝だけでは名を加えない。
証言だけでは刻まない。
分からないものは、分からないまま守る。
探索継続対象。
忘却せず。
それは、記録官たちの誓いになった。
剣士たちも変わった。
かつて、世界中の剣豪が剣神セレスティアに挑もうとしたことがあった。
だが、剣神は剣を抜かなかった。
斬れることと、斬ってよいことは違う。
剣を抜かない力を持て。
その言葉は、今では多くの剣術院の初等教本に載っている。
子どもたちは、邪神戦争記録所で死者名簿を読む。
三賢者の記録を読む。
ロウガン・エルドの字が汚いことを知り、少し笑う。
干し肉には加護がないことを知り、中庭で保存食を噛み、硬いと言う。
そして、死者の名を商品にしてはいけないと学ぶ。
記録所は、世界の記憶になった。
だが、百年は長い。
人間王国では、王が代わった。
いくつもの貴族家が代替わりした。
ヴァルグレイン侯爵家は爵位を失い、復興貢献記録と死者名簿改竄事件の両方を残す家として、歴史の教材になった。
海の民では、メルゼアの記録を読む祭りが始まった。
ただし、それは祈りではなく、記録朗読会である。
草原諸族では、死者名簿を馬上で運ぶ保全官が生まれた。
竜の谷では、若竜たちが「干し肉は顎の鍛錬ではない」と学ぶようになった。
グランガルドでは、ゴルド工房の看板が、百年の間に何度も更新された。
初代ゴルド・ガルガンドは、まだ生きている。
ドワーフの寿命は長い。
だが、百年はドワーフにとっても短くはない。
髭には白いものが増えた。
槌を振る回数は減った。
長い鍛造は、ほとんどバルドに任せるようになった。
それでも、口の悪さは少しも衰えていない。
工房の前には、今日も看板がある。
バカ姫、百年経ってもバカ姫。
剣神様と呼ぶな。
祠不要。
本人はまだ飯を食う。
剣を見る時は、神を見るな。刃を見ろ。
飯を抜く記録官は信用するな。
バルド・ガルガンドは、その看板の前で腕を組んでいた。
百年前は若手から中堅に差しかかる鍛冶師だった。
今では、グランガルドでも名の知れた鍛冶師である。
工房の実務は、ほとんど彼が回している。
弟子たちも増えた。
炉も増えた。
干し肉用の燻煙室まで増えた。
ゴルドは、その全てを見て鼻を鳴らす。
「余計なもんが増えたな」
バルドは答える。
「父上が始めたのです」
「俺は干し肉工房を作れとは言ってねぇ」
「セレスティア用保存食の規格を作ったのは父上です」
「バカ姫が食うからだ」
「その結果、百年続く保存食規格になりました」
「なら、いいだろ」
「はい。良いことです」
ゴルドは少しだけ不満そうにした。
だが、目は笑っていた。
その日、グランガルドの工房へ、一人の来客があった。
長い銀白の髪。
静かな金色の瞳。
背には黒星。
左腰には閃白。
背には解白。
百年前と変わらぬ姿の、剣神セレスティアだった。
工房の弟子たちが、一斉に顔を上げる。
だが、誰も膝をつかない。
誰も祈らない。
誰も剣神様とは呼ばない。
工房の掟だからである。
若い弟子の一人が、緊張しながらも声を出した。
「お帰りなさい、バカ姫」
セレスティアは、看板を見てから、弟子を見た。
「……百年経っても、それなのですね」
弟子は真剣に頷いた。
「工房の掟です」
ゴルドが奥から声を飛ばす。
「遅ぇぞ、バカ姫」
セレスティアは、少しだけ目を細めた。
「親方」
「何だ」
「百年経っても、それなのですね」
「千年経ってもそれだ」
「そうですか」
セレスティアは、少しだけ笑った。
「ただいま戻りました」
ゴルドは鼻を鳴らした。
「飯は食ったか」
「来る前に食べました」
「干し肉は」
「持っています」
「見せろ」
セレスティアは、小袋を出した。
ゴルド工房製、セレスティア用保存食。
剣神加護なし。
空腹対策。
百年改良版。
ゴルドは袋を見た。
バルドも見た。
「保存状態は悪くありませんね」
バルドが言う。
セレスティアは頷いた。
「神域会議用として持っていました」
ゴルドが顔をしかめる。
「神域で干し肉を食ってんのか」
「必要な時だけです」
「精霊王は何て言ってる」
「食事は現世との繋がりだと」
「分かってるじゃねぇか」
「精霊王をそのように評するのはどうかと」
「事実だ」
セレスティアは、百年経っても変わらないやり取りに、少し安堵した。
百年。
人は変わる。
街も変わる。
制度も変わる。
だが、この工房の前では、セレスティアは今もバカ姫だった。
それは祈りではない。
信仰でもない。
帰ってきた者への、乱暴な挨拶だった。
工房の中へ入る。
炉の熱が頬に触れる。
鉄の匂い。
炭の匂い。
油の匂い。
そして、なぜか干し肉の燻煙の香り。
セレスティアは少しだけ眉を動かした。
「鍛冶工房ですよね」
バルドが答える。
「はい」
「燻煙の香りがします」
「セレスティア用保存食の第百七十二改良版を試作しています」
「まだ改良しているのですか」
「保存性、塩分、硬度、携行性、神域会議中の食べやすさを見直しています」
「神域会議中の食べやすさ」
「はい」
ゴルドが言う。
「硬すぎると話の途中で噛み切れねぇ」
「柔らかすぎると保存食ではありません」
バルドが即座に返す。
ゴルドは鼻を鳴らした。
「だから調整してんだろ」
セレスティアは、百年経っても続く干し肉論争に、少しだけ遠い目をした。
「わたくしの食事で、ここまで」
バルドは真面目に言う。
「現世神の現世接続補助です」
「その言い方は危険です」
「では、空腹対策です」
「それでお願いします」
黒星が低く鳴る。
『よい工房だ』
閃白が澄んで言う。
『濁りがありません』
解白が淡く告げる。
『現世接続補助、分類としては有効』
「解白」
『空腹対策、と記録します』
「そうしてください」
その頃。
白樹の森では、ルシェル・クラルテ・アルヴァレインが記録室にいた。
百年前と比べれば、彼も成熟した。
ハイエルフの血を引く王族であるため、外見上の変化は人間ほど大きくない。
だが、目の奥にある重みは違う。
初代死者名簿保全官統括。
世界連合記録制度の中心人物。
ルシェルの筆跡は、今では若い記録官たちの手本になっている。
その机の上には、百年分の死者名簿保全記録が並んでいた。
ミレーヌ・エトワール・アルヴァレインも、記録室にいた。
彼女もまた、百年前と大きくは変わらない。
だが、死者名簿を読み続けた者として、若い保全官たちから深く敬意を集めている。
彼女は今でも、未判明者欄を読む時、必ず最後に言う。
忘却せず。
その言葉は、制度になり、誓いになり、今では世界中の記録官が使う言葉になった。
アウレリウス王とエルフィリア王妃も、まだ健在である。
ハイエルフの王家であり、長い時間を生きる者たちだからだ。
ただし、百年は百年である。
王の目には、以前より深い静けさがあった。
王妃の食事管理は、以前にも増して徹底していた。
セレスティアが神域会議へ行く時、携行食を持たされたのは、王妃の指示である。
その日、白樹の森の記録室に、邪神戦争記録所から定期報告が届いた。
ルシェルは、それを読み始めた。
最初は通常通りだった。
来訪者数。
閲覧件数。
死者名簿追加申請。
未判明者欄の照合作業。
失敗事例室の教材利用状況。
剣士向け講話資料の再版。
干し肉掲示の更新要求。
ルシェルは最後の項目で少しだけ眉を寄せた。
「干し肉掲示は、もう十分でしょう」
ミレーヌが笑った。
「でも、子どもたちは楽しみにしています」
「記録所です」
「だからこそです」
ルシェルは小さく息を吐いた。
そして、次の紙をめくった。
その瞬間、表情が変わった。
ミレーヌが気づく。
「ルシェル?」
ルシェルは、紙を見つめていた。
報告には、こう書かれていた。
封印資料室定期点検。
異界擦過痕保管箱、異常なし。
ただし、外部記録板の一部に軽微な白化を確認。
再記録済み。
経過観察。
白化。
その言葉に、ルシェルは嫌な感覚を覚えた。
百年前、白い薄片の周囲の文字が薄くなっていた。
その時、精霊王は言った。
別の泡が、いつか近づくこともある。
今すぐ何かが起きるわけではない。
だが、記録せよ。
ルシェルは、静かに紙を置いた。
「ミレーヌ姉上」
「はい」
「セレスティア姉上へ連絡を」
「今、グランガルドでは」
「はい」
「ゴルド親方の工房ですね」
「繋いでください」
ミレーヌはすぐに通信術式を開いた。
グランガルドの工房。
炉の赤。
ゴルドの声。
「何だ」
ミレーヌが言う。
「お姉様はいますか」
画面の向こうに、セレスティアが映った。
「ミレーヌ」
「お姉様、ルシェルからです」
ルシェルが前に出る。
「姉上」
「はい」
「邪神戦争記録所の異界擦過痕に、軽微な白化反応が出ました」
工房の空気が変わった。
ゴルドが腕を組む。
「白いやつか」
「はい」
バルドも顔を上げる。
「百年前の薄片ですね」
「はい」
セレスティアは、静かに問う。
「文字が消えましたか」
「完全には消えていません」
「薄くなった」
「はい。外部記録板の一部に白化」
「再記録は」
「済んでいます」
「封印は」
「異常なし」
セレスティアは少し黙った。
黒星が低く鳴る。
『近いか』
閃白が澄む。
『まだ濁りではありません』
解白が淡く告げる。
『異界側干渉、微弱増加の可能性』
ゴルドが低く言った。
「バカ姫」
「はい」
「行くか」
「行きます」
バルドがすぐに準備を始める。
「私も同行します」
ゴルドが頷く。
「俺も行く」
セレスティアはゴルドを見た。
「親方、無理は」
「誰に言ってる」
「はい」
ゴルドは不機嫌そうに槌を手に取った。
「俺が作った剣が、まだお前の背にある」
「はい」
「変な異界の欠片なら、見てやる」
「お願いします」
邪神戦争記録所。
百年経っても、封印地外縁の風は変わらなかった。
記録所の石壁は、少しだけ色を深めている。
多くの人が訪れた跡がある。
だが、入口の石碑は変わらない。
祈る前に、記録を読め。
生者は、死者を利用せず、死者から学ぶべし。
中庭の補助掲示は、板が新しくなっていた。
拝むな。
読め。
覚えろ。
飯を食え。
その下に、百年の間に増えた掲示がいくつもある。
剣神に挑むな。
まず死者名簿を読め。
斬れることと、斬っていいことは別だ。
分からん物を勝手にいじるな。
硬いですわ、は剣神本人の発言です。
無闇に真似しないこと。
セレスティアは最後の掲示を見て、少しだけ目を細めた。
「まだ残っているのですね」
ルシェルが答える。
「残っています」
「百年も」
「民間理解用として定着しました」
「それは理解とは別の何かでは」
ミレーヌが笑った。
「お姉様、諦めましょう」
ゴルドが鼻を鳴らす。
「諦めろ」
セレスティアは、諦めた。
封印資料室へ向かう。
七つの印。
剣神セレスティアの承認。
扉が開く。
中は百年前と変わらない。
いや、少し違う。
記録板が増えていた。
紙、石、金属板、記録水晶。
白い薄片に関する記録は、複数の媒体で保管されている。
そのうち、金属板の一枚に白い筋が走っていた。
文字の一部が、薄くなっている。
削れたのではない。
錆びたのでもない。
文字という存在が、白く抜けている。
ルシェルが指す。
「ここです」
セレスティアは近づいた。
触れない。
見るだけ。
記されていた文は、こうだった。
異界擦過痕。
この世界の理に馴染まぬ薄片。
邪神座跡より採取。
未解明。
忘却せず。
そのうち、薄くなっていたのは、最後の一語だった。
忘却せず。
白い筋は、その文字の一部を削るように走っていた。
ミレーヌの顔が変わった。
「忘却せず、が」
ルシェルの目が鋭くなる。
「この語だけを狙ったように見えます」
黒星が低く鳴った。
『気に入らぬ』
閃白が澄む。
『祓うには早い』
解白が淡く光る。
『異界干渉増加。対象語、記録維持概念』
セレスティアは、白い筋を見た。
忘却せず。
この世界が百年かけて積み重ねた言葉。
死者名簿を守る言葉。
未判明者を守る言葉。
削られた記録を守る言葉。
それが、白く薄くなっていた。
「嫌な挨拶ですね」
セレスティアは静かに言った。
ルシェルは頷いた。
「はい」
ゴルドが低く言う。
「ただの劣化じゃねぇな」
バルドも確認する。
「金属板自体に損傷はありません。文字の意味だけが薄れているように見えます」
解白が告げる。
『意味接続への干渉』
ルシェルがすぐ記録する。
「意味接続への干渉」
ミレーヌが、震える声で言った。
「これが広がったら」
ルシェルは答えない。
答えたくなかったのではない。
答えは分かっていた。
死者名簿の文字が薄くなる。
未判明者欄が白くなる。
地名が消える。
人が、自分の祖先の名を忘れる。
記録所が、何を記録していたのか分からなくなる。
それは、邪神とは違う恐怖だった。
邪神は死者を利用した。
この白いものは、死者がいたことを薄くする。
セレスティアは、静かに言った。
「多重記録を増やしてください」
ルシェルが頷く。
「はい」
「口述も」
「はい」
「各地の死者名簿保全官へ、異界擦過痕に関する注意を」
「はい」
「ただし、混乱を招かない形で」
「承知しています」
ゴルドが言った。
「看板も必要だな」
セレスティアはすぐに見た。
「親方」
「こうだ」
ゴルドは少しも迷わず言った。
「白くなった字は、もう一回書け」
「消されるなら、何度でも書け」
「忘却せずを消す奴は、敵だ」
「飯を食え」
ルシェルは、真面目に頷いた。
「民間理解用として有用です」
「ルシェル」
セレスティアが止めようとしたが、ルシェルは記録していた。
ミレーヌも言った。
「分かりやすいです」
セレスティアは、何も言えなくなった。
その時、封印資料室の空気が揺れた。
精霊王の声が届く。
「セレスティア」
「はい」
「近づいている」
全員が静まり返った。
「異界ですか」
「泡が近づいている」
「どの泡かは」
「まだ分からぬ」
「邪神の世界ですか」
「断定できぬ」
「では」
「だが、白い理を持つ世界である可能性が高い」
セレスティアは、白い筋を見た。
「名を消す世界」
「名を重んじぬ世界」
「記録を白紙へ戻す世界」
「はい」
「まだ門は開いていない」
「はい」
「だが、境界が擦れ始めている」
「はい」
精霊王の声は重かった。
「我ら古神は、世界の内側を支える」
「はい」
「海、山、森、風、火、竜脈、魂流、境界」
「はい」
「完全顕現はしない」
「世界を揺らすからですね」
「そうだ」
「では、わたくしは」
「現世に在れ」
精霊王は告げる。
「記録を守れ」
「名を守れ」
「まだ剣を抜く時ではない」
「はい」
「だが、近い」
セレスティアは目を伏せた。
百年前、精霊王は言った。
いつか別の泡が近づくこともある。
その時、この薄片の記録が役に立つ。
その、いつかが近づいている。
まだ戦いではない。
だが、前兆だった。
精霊王の声が遠のく。
封印資料室には、重い沈黙が残った。
ルシェルが、最初に動いた。
「記録します」
「はい」
「白化の進行を日次確認へ変更」
「はい」
「異界擦過痕関連記録を、各地に分散複製」
「はい」
「死者名簿保全官へ、記録白化時の対応手順を通達」
「はい」
「未判明者欄、死者名簿、地名記録、剣神非信仰令、邪神戦争記録所の理念文、すべて複製確認」
「お願いします」
ミレーヌが言った。
「私も読み上げます」
ルシェルが見る。
「姉上」
「忘却せずを、もう一度読み上げます」
「はい」
「文字だけでなく、声でも残します」
ルシェルは頷いた。
「お願いします」
ゴルドは、白い筋を睨んでいた。
「バカ姫」
「はい」
「飯は食え」
「今ですか」
「今だ」
「なぜ」
「こういう時に食わなくなる」
王妃エルフィリアの声が、通信ではなく、背後から聞こえた。
「その通りです」
セレスティアは振り返った。
王妃がそこにいた。
いつの間に来たのか、食事の包みを持っている。
「お母様」
「緊急報告を受けました」
「はい」
「長くなります」
「はい」
「食べなさい」
封印資料室の前室に、簡易の食事が並べられた。
パン。
スープ。
果実。
セレスティア用保存食。
緊張の中でも、王妃はぶれなかった。
セレスティアは保存食を一枚取る。
噛む。
硬い。
だが、今はその硬さがありがたかった。
白く薄れていく文字。
忘却せずを消そうとする異界の理。
その前で、硬い保存食を噛む。
現世の感触だった。
「硬いですが、美味しいです」
ゴルドが頷く。
「よし」
王妃も頷く。
「よろしい」
ルシェルは記録しようとして、王妃に見られ、筆を止めた。
ミレーヌは少しだけ笑った。
その笑いは小さい。
だが、必要な笑いだった。
数日後。
邪神戦争記録所の中庭に、新しい掲示が増えた。
白くなった字は、もう一度書け。
消されるなら、何度でも書け。
忘却せずを消すものは、敵である。
分からないものは勝手に触るな。
記録を分散せよ。
飯を食え。
その横に、ルシェルの整文が置かれた。
記録白化現象を確認した場合、直ちに死者名簿保全官へ報告すること。
対象記録は紙、石、金属、記録水晶、口述の複数媒体により再記録すること。
白化資料は破棄せず、封印し、経過観察すること。
未解明資料に対して、加工、加熱、研磨、販売、祈願利用を行ってはならない。
ミレーヌは、その掲示の前で、死者名簿を開いた。
多くの記録官と保全官が集まっていた。
彼女は、静かに読み上げる。
「氏名未判明」
「探索継続対象」
「忘却せず」
記録官たちも続いた。
「忘却せず」
もう一度。
「忘却せず」
声は、記録所の石壁に響いた。
白い理が何であれ。
世界の外から何が近づいていようと。
この世界は、そう言う。
忘却せず。
その日の夜。
セレスティアは、記録所の屋上から空を見上げていた。
星は、百年前と同じように見える。
だが、今の彼女には分かる。
遠くで、何かが巡っている。
世界泡が近づいている。
まだ見えない。
まだ門はない。
まだ尖兵もいない。
だが、白い擦過音のようなものが、世界の境界を撫でている。
黒星が低く鳴った。
『来るな』
「はい」
閃白が澄む。
『白い濁りではなく、白い無です』
「白い無」
解白が淡く告げる。
『名を薄める理。記録を白紙へ戻す理』
「ならば」
セレスティアは、夜空を見た。
「この世界の名を守ります」
黒星が応じる。
『斬る時が来れば、斬る』
「はい」
閃白が言う。
『祓うべきものなら、祓います』
「はい」
解白が告げる。
『結び目が生じれば、示します』
「お願いします」
セレスティアは、遠くの星を見続けた。
百年後の世界。
記録所。
死者名簿。
ゴルドの看板。
母の食事。
ルシェルの記録。
ミレーヌの読み上げ。
全てが、ここにある。
それを白紙に戻すものが来るなら。
その時は、剣神の案件である。
しかし、今はまだ。
記録する。
食べる。
備える。
セレスティアは、静かに呟いた。
「忘却せず」
夜風が吹いた。
白い薄片は、封印資料室の奥で静かに眠っている。
だが、その白は、もう眠っているだけではなかった。




