第91話 白い薄片
邪神戦争記録所が開かれてから、三か月が過ぎた。
記録所は、少しずつ日常の中へ入り始めていた。
各地の学舎から子どもたちが来る。
記録官が研修に来る。
職人が封印杭や海底楔の構造を学びに来る。
死者名簿保全官が未判明者欄の扱いを確認しに来る。
遺族が、名簿の前で静かに頭を下げる。
祈りではない。
供物でもない。
ただ、名を読む。
記録を読む。
何が起きたのかを知る。
それが、この場所の役目になっていた。
中庭の掲示も、すっかり有名になっていた。
拝むな。
読め。
覚えろ。
飯を食え。
その横には、後から追加された掲示もある。
質問歓迎。
ただし、死者を商品にするな。
剣神を祀るな。
干し肉に加護はない。
食事は中庭で。
硬いですわ、は剣神本人の発言です。
無闇に真似しないこと。
最後の一文については、セレスティアが何度か削除を求めた。
だが、ルシェルは言った。
「既に民間で広がっています」
ミレーヌも言った。
「消すとかえって広がります」
ゴルドは言った。
「諦めろ」
王妃エルフィリアは言った。
「言葉遣いは丁寧です」
結局、掲示は残った。
セレスティアは、納得していない。
だが、祠になるよりはよい。
そう思うしかなかった。
その日、邪神戦争記録所の封印資料室では、定期点検が行われていた。
封印資料室は、一般には公開されない。
危険資料。
禁術記録。
魂流干渉の記録。
地下礼拝堂の術式写し。
邪神座跡の調査記録。
そして、白い薄片。
異界擦過痕と記された未解明の資料が収められている。
点検に立ち会うのは、ルシェル・クラルテ・アルヴァレイン。
死者名簿保全官統括。
人間王国の老記録官。
白樹の森の封印術師二名。
グランガルドからは、バルド・ガルガンド。
そして、セレスティア。
ゴルドは来ていなかった。
代わりに、通信だけが繋がっている。
「バカ姫」
「はい」
「変なもんだったら触るな」
「分かっています」
「お前は分かってると言って触る」
「触りません」
「本当か」
「本当です」
バルドが横から言った。
「父上、私が見ています」
「見てろ」
セレスティアは少しだけ不満そうにした。
「わたくしは信用がないのですね」
黒星が低く鳴る。
『ある』
閃白が澄んで言う。
『ただし、主は必要と判断すると触ります』
解白が淡く告げる。
『監視推奨』
「あなた方まで」
ルシェルは記録板を構えていた。
「封印資料室、定期点検開始」
封印術師が封印を一つずつ解く。
白樹の森。
人間王国。
グランガルド。
海の民。
竜の谷。
草原諸族。
山の隠れ里。
七つの印が確認される。
最後に、剣神セレスティアの承認。
セレスティアは、扉の前へ立った。
「開封を認めます」
黒星が低く鳴り、閃白が澄み、解白が淡く光る。
扉が静かに開いた。
中は冷えていた。
石壁には封印紋が刻まれている。
湿気はない。
空気は動いているが、外へ流出しないように精霊術で制御されている。
まず確認したのは、禁術関連資料。
ヴァルグレイン侯爵家地下礼拝堂の術式写し。
死者残響への偽名接続。
魂の座未満の層への干渉。
術式は封じられ、再現不能な形で記録されている。
ルシェルが確認する。
「封印状態、異常なし」
封印術師が頷く。
「異常なし」
次に、聖遺物詐称事例の出所不明品。
白石。
川石。
古紐。
焦げ木。
これらは危険ではない。
だが、誤用を防ぐため封印資料室にも一部が保管されている。
バルドが白石を見て言った。
「ただの石です」
通信越しにゴルドが言う。
「石と書いとけ」
ルシェルは淡々と答えた。
「既に記録済みです」
次に、邪神座跡の採取資料。
黒い残滓は、すでに完全に封じられている。
邪神そのものの力ではない。
残ったのは、座があった場所の痕跡だけ。
そして、最後の箱。
白い薄片。
異界擦過痕。
箱は、小さい。
だが、その周囲だけ空気が妙に薄い。
見えているのに、見えていないような感覚がある。
セレスティアは、箱の前に立った。
ルシェルが言う。
「開けます」
「はい」
封印術師が慎重に箱を開ける。
中には、白い薄片があった。
前に見た時と変わらない。
紙ではない。
石でもない。
骨でもない。
金属でもない。
ただ、白い。
あまりにも白い。
セレスティアは、それを見た瞬間、また胸の奥が冷えるのを感じた。
邪気ではない。
濁りでもない。
悪意でもない。
だからこそ、不気味だった。
黒星が低く鳴る。
『やはり、邪神ではない』
閃白が続ける。
『祓う対象として掴みにくいです』
解白が淡く光る。
『異界擦過痕。安定状態。ただし、微弱な変動あり』
ルシェルの筆が止まった。
「変動?」
『はい』
セレスティアが問う。
「何が変わっていますか」
『薄片そのものではありません』
「では」
『周囲の文字への影響』
ルシェルがすぐに近くの記録札を見る。
異界擦過痕。
未解明。
開封注意。
その札の文字が、ほんのわずかに薄くなっていた。
インクが落ちたのではない。
削れたのでもない。
ただ、文字としての存在感が薄い。
ルシェルの顔が変わった。
「前回点検時には」
記録官が控えの写しを確認する。
「異常なしです」
「札を交換したのは」
「開所時です」
「劣化にしては早い」
ルシェルは、薄片の近くに置かれていた別の札を見る。
邪神座跡採取資料。
こちらは薄くなっていない。
薄くなっているのは、白い薄片に直接結びつく記録札だけだった。
セレスティアは、解白へ問う。
「これは、名を消す力ですか」
『完全な消去ではありません』
「では」
『記録との接続が薄くなっています』
バルドが眉を寄せた。
「物が文字を薄くする、ということですか」
解白が淡く答える。
『物ではなく、異界側の理の残響』
ゴルドが通信越しに言う。
「分かりやすく言え」
解白は少しだけ間を置いた。
『この世界の記録に馴染まないものです』
セレスティアは、白い薄片を見た。
記録に馴染まない。
名に馴染まない。
この世界の理に馴染まない。
だから、周囲の文字が薄くなる。
それは、邪神の濁りとはまったく違う恐ろしさだった。
邪神は、死者を縛った。
名を利用した。
役目を押しつけた。
この白いものは、縛るのではない。
押しつけるのでもない。
ただ、薄くする。
なかったことへ近づける。
ルシェルが言った。
「記録札を二重にします」
「はい」
「薄片との距離も取るべきです」
封印術師が頷く。
「箱の中に、直接札を入れないようにします」
バルドが言う。
「箱そのものに刻むのはどうでしょう」
「石板ですか」
「はい。紙札よりは安定するかと」
ゴルドが言う。
「石にも効いたらどうする」
バルドは少し考えた。
「複数媒体に分けます」
ルシェルが頷いた。
「紙、石、金属板、記録水晶、口述記録に分散します」
セレスティアは静かに言った。
「忘却せず、ですね」
ルシェルが頷く。
「はい」
「この薄片自体も」
「はい」
「消されるものとして記録する」
「はい」
「消そうとする性質を、記録する」
「その通りです」
その時、封印資料室の空気が静かに揺れた。
精霊流が動く。
精霊王の声が届いた。
「セレスティア」
「はい」
「その薄片は、ただの残骸ではない」
部屋の全員が静かになる。
「では、何ですか」
「境界が擦れた時、異界側の理が剥がれ落ちたものだ」
「異界側の理」
「そうだ」
セレスティアは、薄片を見る。
「邪神が来た世界のものですか」
「可能性はある」
「断定できませんか」
「泡は一つではない」
精霊王の声は深い。
「異界と呼ぶべき世界は無数にある」
「七十年前の邪神が来た世界と、同じとは限らぬ」
「はい」
「だが、共通することがある」
「何でしょう」
「この世界の名と記録に、馴染まぬ」
ルシェルの筆が走る。
精霊王は続けた。
「この世界は、名を持つ」
「大地には地名がある」
「死者には名がある」
「役目には記録がある」
「家には歴史がある」
「神にも神名がある」
「だが、すべての世界が同じではない」
セレスティアは問う。
「名を持たない世界もあるのですか」
「ある」
封印資料室の空気がさらに冷える。
「名を重んじぬ世界」
「個の境界を薄くする世界」
「記録を固定しない世界」
「白紙へ戻ることを浄化と見る世界」
「それらも、泡の一つだ」
ミレーヌはここにはいない。
だが、もし聞いていたら、死者名簿を抱きしめただろう。
ルシェルの筆が止まりかける。
「白紙へ戻ることを、浄化と見る世界」
精霊王は言う。
「そうだ」
セレスティアの目が細くなった。
「この世界とは、相容れませんね」
「相容れぬ部分がある」
「はい」
「だからこそ、境界がある」
「泡は混ざらないために、境界を持つ」
「そうだ」
セレスティアは、ゆっくり息を吐いた。
「では、邪神は」
「境界を破った」
「はい」
「自分の理を持ち込んだ」
「はい」
「だから、お前は斬った」
「はい」
精霊王の声が、少しだけ重くなる。
「今はまだ、これ以上の干渉はない」
「はい」
「だが、記録せよ」
「はい」
「いつか、別の泡が近づくこともある」
「はい」
「その時、この薄片の記録が役に立つ」
セレスティアは頷いた。
「承知しました」
精霊王の声は、そこで少し柔らかくなった。
「それから」
「はい」
「古神たちは、このような場に完全顕現できぬ」
「はい」
「我らは世界に根差しすぎている」
「はい」
「現れれば、守るべき世界を揺らす」
「はい」
「だから、現世を歩くお前が必要になる時が来るかもしれぬ」
セレスティアは、黙って聞いていた。
「お前は、まだ神域を必要としない」
「はい」
「ハイエルフを基盤とし、エンシェントエルフを経て、真神格へ至った現世神だ」
「はい」
「少なくとも一万年は、現世との繋がりを保てる」
「はい」
「その間に、見て、食べて、歩き、覚えよ」
ゴルドが通信越しにぼそりと言った。
「飯を食え」
精霊王は、しばらく沈黙した。
「……その通りだ」
セレスティアは、少しだけ目を伏せた。
「精霊王まで肯定するのですね」
「食事は、現世との繋がりだ」
「はい」
「干し肉が適切かは別として」
ゴルドが言った。
「適切だ」
バルドが横から補足する。
「塩分と硬度は調整済みです」
ルシェルが、なぜか記録しようとした。
セレスティアが見た。
ルシェルは筆を止めた。
精霊王の声は、少しだけ笑ったようだった。
「記録せよ。だが、食べることも忘れるな」
「はい」
声は遠のいた。
封印資料室に、元の静けさが戻る。
ルシェルは深く息を吐いた。
「記録事項が増えました」
セレスティアは頷く。
「重要です」
「はい」
バルドは白い薄片を見た。
「これは、鍛冶の素材としては扱えませんね」
ゴルドが言う。
「扱うな」
「はい」
「削るな。叩くな。熱するな」
「分かっています」
「絶対にだ」
「そこまで言われると、逆に怖いです」
「怖がっていい」
セレスティアも頷いた。
「これは、触らない方がよいです」
黒星が低く鳴る。
『斬る時が来るまではな』
閃白が澄む。
『今は封じ、記録するべきです』
解白が淡く告げる。
『白い薄片、再封印推奨。周辺記録の多重化を推奨』
ルシェルはすぐに指示を出した。
白い薄片は、新しい封印箱へ移される。
中には直接札を入れない。
箱の外に石板。
別棚に紙写し。
封印資料室外に金属板の写し。
白樹の森の記録室に記録水晶。
ルシェル自身の口述記録。
そして、死者名簿保全官用の未解明資料一覧。
同じ内容を、複数の形で残す。
消えにくくするために。
忘却せず。
その言葉は、こういう未解明のものにも使われるようになった。
点検が終わった時には、外は夕方だった。
記録所の中庭には、温かいスープの香りが漂っていた。
王妃エルフィリアの指示で、点検作業に関わった者たちの食事が用意されていたのである。
セレスティアは、中庭の席についた。
パン。
豆の煮込み。
野菜のスープ。
果実。
セレスティア用保存食。
バルドが保存食の包みを確認していた。
「湿気は問題ありませんね」
セレスティアは少し笑う。
「バルド、ここでも確認するのですか」
「保存食ですので」
「はい」
ゴルドの通信がまだ繋がっている。
「食ったか」
「これからです」
「食え」
「はい」
セレスティアは保存食を一枚取った。
噛む。
硬い。
だが、美味しい。
「保存食として、適切です」
ルシェルがこちらを見た。
ミレーヌがいれば笑っていただろう。
バルドは真面目に頷いた。
「ありがとうございます。硬度調整は成功ですね」
ゴルドが言う。
「逃げたな」
「逃げていません」
「硬いって言え」
「保存食として適切です」
「逃げた」
セレスティアは、それ以上答えなかった。
食事の後、ルシェルは中庭の掲示を一枚増やした。
未解明資料について。
分からないものは、分からないまま記録する。
危険なものは、扱い方を決めるまで封じる。
消えそうなものは、複数の形で残す。
忘却せず。
ゴルドは通信越しに言った。
「長い」
ルシェルは答える。
「必要事項です」
「横に短いのも書け」
「短いもの」
「分からん物を勝手にいじるな」
ルシェルは少し考えた。
「採用します」
セレスティアが驚く。
「採用するのですか」
「民間理解用として有用です」
こうして、中庭に小さな補助板が追加された。
分からん物を勝手にいじるな。
ゴルド案。
ルシェル整文。
未解明資料は、正式な鑑定と封印手続を経るまで、移動、加工、加熱、研磨、販売、祈願利用を禁ずる。
セレスティアは、両方を見た。
どちらも必要だった。
夜。
白樹の森へ戻ったセレスティアは、食堂ではなく、少しだけ庭を歩いた。
星が出ていた。
世界は一つではない。
世界は泡のように存在し、巡り合い、時に擦れ合う。
邪神は異界の神だった可能性が高い。
そして、白い薄片は、別の理の残響かもしれない。
黒星が背で低く鳴った。
『考えているな』
「はい」
閃白が言う。
『今すぐ戦う相手ではありません』
「分かっています」
解白が淡く告げる。
『記録済み。封印済み。監視継続』
「はい」
セレスティアは夜空を見上げた。
今は、何も起きていない。
子どもたちは記録所で死者名簿を読み、干し肉を硬いと言い、笑って帰る。
死者名簿保全官は、各地で名を守る。
ゴルド工房は、相変わらず看板を更新する。
白樹の森の食堂では、母が食事を出す。
それが現世だった。
だが、遠くで。
本当に遠くで。
別の泡が巡っている。
いつか、近づくのかもしれない。
その時、自分はどうするのか。
答えは、もう分かっている。
世界を支配しない。
祀られない。
神統を作らない。
ただ、必要な時に、必要な一点を斬る。
セレスティアは、小さく息を吐いた。
「今は、記録ですね」
黒星が答える。
『そして食う』
セレスティアは笑った。
「はい」
庭の向こうから、王妃エルフィリアの声がした。
「セレスティア、夕食です」
セレスティアは振り返る。
「はい、今行きます」
真神格の現世神。
剣神セレスティア。
だが、今は食卓へ戻る。
白い薄片は、封印資料室に眠っている。
未解明。
探索継続対象。
忘却せず。
その記録とともに。
夜は静かに更けていった。




