第90話 祈る前に、記録を読め
邪神戦争記録所が開かれてから、ひと月が過ぎた。
封印地外縁には、日ごとに人が訪れるようになっていた。
王侯貴族。
記録官。
学舎の教師。
復興地の代表。
戦死者の遺族。
名を探す者。
そして、ただ邪神戦争を知りたい者。
訪れる者たちは、最初に入口の石碑を読む。
祈る前に、記録を読め。
生者は、死者を利用せず、死者から学ぶべし。
それから、中庭の補助掲示を見る。
拝むな。
読め。
覚えろ。
飯を食え。
多くの者は、そこで一度戸惑う。
石碑は厳粛である。
補助掲示は妙に乱暴である。
だが、両方を読んだ後、だいたいの者は理解する。
ここは祈る場所ではない。
ここは学ぶ場所である。
そして、学ぶためには腹も必要である。
その日、記録所には人間王国東部から学舎の子どもたちが来ていた。
年齢は十歳から十二歳ほど。
引率の教師が二人。
死者名簿保全官が一人。
そして案内役として、ミレーヌ・エトワール・アルヴァレインが立っていた。
ミレーヌは、子どもたちの前で静かに言った。
「ここは神殿ではありません」
子どもたちは頷く。
「剣神セレスティアを拝む場所でもありません」
何人かが少し残念そうな顔をした。
ミレーヌは、それに気づいて微笑んだ。
「剣神セレスティアは、今も現世にいます」
子どもたちの目が輝く。
「でも、ここに閉じ込められてはいません」
「祠にもいません」
「像にもいません」
「守り札にもいません」
「聖遺物にもいません」
ミレーヌは、中庭の掲示を指した。
「だから、まず記録を読みます」
一人の少年が手を上げた。
「剣神様にお願いしたら、強くなれますか」
ミレーヌは、少し考えた。
「なれません」
少年は肩を落とした。
「でも、記録を読めば、なぜ強くならなければならないのかを考えられます」
「考える?」
「はい」
「剣神セレスティアは、邪神を斬りました」
「はい」
「でも、邪神戦争で世界を支えたのは、剣神だけではありません」
「はい」
「名前の残っている人も、名前の分からない人も、橋を直した人も、食事を作った人も、記録を残した人もいました」
「はい」
「強さとは、剣だけではありません」
少年は、まだ少し分からない顔をしていた。
だが、隣の少女が言った。
「じゃあ、名簿を読むのも強さですか」
ミレーヌは頷いた。
「はい」
「泣いても?」
「泣いてもです」
「怖くても?」
「怖くてもです」
少女は、少しだけ背筋を伸ばした。
「読みます」
「では、行きましょう」
最初に入ったのは、中央記録室だった。
子どもたちは、厚い死者名簿を見て静かになった。
そこには、無数の名があった。
氏名の分かる者。
役目だけが分かる者。
場所だけが分かる者。
そして、氏名未判明。
探索継続対象。
忘却せず。
教師が子どもたちへ言った。
「静かに」
ミレーヌは首を横に振った。
「静かにすることは大切ですが、怖がりすぎなくても大丈夫です」
教師が少し驚く。
ミレーヌは、名簿の前に立つ。
「ここは死者を遠ざける場所ではありません」
「はい」
「死者を利用しないために、死者を忘れない場所です」
子どもたちは名簿を見る。
その中に、ひときわ大きな欄があった。
南方砂漠補助陣地関連。
氏名未判明。
削除痕あり。
探索継続対象。
忘却せず。
少女がそれを指した。
「削除痕あり、って何ですか」
ミレーヌは、少しだけ目を伏せた。
「誰かが、元の記録を削った可能性があるということです」
「消したの?」
「はい」
「悪い人?」
「そうですね。少なくとも、してはいけないことです」
「じゃあ、元の名前は」
「分かりません」
少女は黙った。
ミレーヌは続ける。
「分からないから、別の名前を入れてよいわけではありません」
「うん」
「分からないものは、分からないまま守ります」
「どうやって」
「こう書くのです」
ミレーヌは、名簿の一文を読んだ。
「元記載不明」
「後年削除痕あり」
「探索継続対象」
「忘却せず」
子どもたちは、静かに聞いていた。
少年が言った。
「名前が分からないのに、忘れないってできるの」
ミレーヌは答えた。
「できます」
「どうやって」
「そこに誰かがいたと覚えるのです」
「名前がなくても?」
「名前がなくても」
「でも、名前があった方がいい」
「はい。だから探します」
「見つからなかったら」
「見つからないまま、探し続けます」
少年は、名簿を見た。
「それが、忘却せず?」
「はい」
次に案内されたのは、三賢者の記録棚だった。
子どもたちは、英雄の棚だと思っていた。
だが、そこにあったのは、英雄らしい記録だけではなかった。
アルディスの境界計算。
メルゼアの魂流調整記録。
ロウガン・エルドの圧力結界設計図。
そして、ロウガン・エルドの字が汚い写し。
子どもたちは、それを見て少しざわついた。
「これ、本当に賢者様の字ですか」
ミレーヌは頷いた。
「はい」
「読みにくい」
「読みにくいです」
「賢者様なのに?」
「賢者様でも、字が汚いことはあります」
子どもたちが少し笑った。
教師が慌てて止めようとしたが、ミレーヌは止めなかった。
「笑ってもよいです」
「いいんですか」
「はい」
「馬鹿にしているのではなく、一人の人として知るためなら」
ミレーヌは、ロウガンの記録を見た。
「ロウガン・エルドは、豆の塩煮が好きでした」
「橋の設計に失敗して川へ落ちたことがあります」
「弟子を叱る時、額を小突く癖がありました」
「火酒を飲むと説教が長かったそうです」
子どもたちが笑う。
ミレーヌも少し笑った。
「でも、七十年間、邪神封印を支えました」
笑いが静かになる。
「英雄は、最初から石像だったわけではありません」
「生きていました」
「失敗もしました」
「食べました」
「笑いました」
「怒りました」
「そして、役目を果たしました」
ミレーヌは言った。
「だから、石像ではなく、記録として残します」
子どもたちは頷いた。
次に、失敗事例室へ向かった。
そこには、祠騒動の記録があった。
剣神守り。
干し肉騒動の通達。
死者名簿改竄事件。
聖遺物詐称品。
子どもたちは、剣神守りを見て驚いた。
「これ、売ってたの?」
「はい」
「効くの?」
「効きません」
「じゃあ何で売ったの?」
「売れると思ったからです」
「悪い」
「はい」
ミレーヌは、次に干し肉騒動の掲示を見せた。
剣神セレスティアは、食卓、保存食、干し肉を司る神ではない。
ただし、復興期における食事、保存食、炊き出し、子どもへの食糧配分を重視する。
干し肉を食べても剣神の加護は得られない。
ただし、空腹は避けられる。
それで十分である。
子どもたちは、今度は笑った。
「干し肉の神様じゃないの?」
「違います」
「でも食べるの?」
「食べます」
「硬いって言うの?」
「言います」
「神様なのに?」
「現世神ですから」
教師が少し困った顔をした。
だが、子どもたちは楽しそうだった。
ミレーヌは、それでよいと思った。
神を遠くしすぎない。
だが、祀らない。
その境界を、子どもたちは感覚で学んでいく。
失敗事例室の奥には、聖遺物詐称品があった。
布切れ。
白石。
川石。
古紐。
札も一緒に展示されている。
剣聖セレスティア様の聖布。
封印地の聖骨。
剣神の涙石。
子どもたちは、こちらでは笑わなかった。
ミレーヌが言う。
「これは、笑う話ではありません」
「はい」
「眠った人の名前を使って、物を売ろうとしました」
「はい」
「この布は、剣聖セレスティアのものではありません」
「はい」
「でも、偽物だから軽い問題ではありません」
少女が小さく言う。
「名前を使ったから」
「はい」
「眠った人を、売り物にしたから」
「はい」
ミレーヌは頷いた。
「そうです」
その時、見学の列の後ろから声が聞こえた。
「でも、本物ならよかったのですか」
声の主は、子どもではなかった。
大人の男。
身なりは良い。
商人か、地方の有力者だろう。
教師が慌てて振り返る。
ミレーヌも男を見た。
男は穏やかな顔で言った。
「偽物だから問題なのでしょう。本物の聖布なら、保管し、展示し、敬意を示すことは許されるのではありませんか」
空気が少し変わった。
子どもたちも、不安そうにミレーヌを見る。
ミレーヌは、静かに答えた。
「本物でも、売り物にはしません」
「売るのではなく、祀るなら」
「祀りません」
「なぜです」
「眠った者だからです」
男は少し笑った。
「ですが、剣聖セレスティアは偉大な方でしょう」
「はい」
「ならば、その遺品を敬うのは自然では」
ミレーヌは、少しだけ胸の名簿を抱きしめた。
「敬うことと、眠った者を現世へ縛ることは違います」
「縛る?」
「はい」
「遺品を祀ることで、死者は縛られるのですか」
「縛られることがあります」
男は、まだ納得していない顔だった。
ミレーヌは続けた。
「剣聖セレスティアは、邪神戦争で死にました」
「はい」
「死後、邪神格に肉体を利用されました」
「はい」
「それでも、最後に解放され、葬送されました」
「はい」
「その人を、また聖布や聖骨や聖遺物として現世へ引き戻す必要はありません」
「ですが、後世へ伝えるには」
「記録で伝えます」
ミレーヌは、はっきり言った。
「物ではなく、記録で」
男は黙った。
その時、別の声がした。
「その通りです」
ルシェルだった。
いつの間にか、記録所の入口から入ってきていた。
手には記録板。
仕事の途中で様子を見に来たらしい。
ルシェルは男を見た。
「歴史資料としての遺品と、祈願対象としての聖遺物は違います」
「はい」
「剣聖セレスティアに関する本物の遺品が見つかった場合、まず出所、所有経緯、保存経緯を確認します」
「はい」
「その上で、歴史資料として保管するか、葬送理念に基づき眠りへ返すかを判断します」
「眠りへ返す」
「はい」
「全てを展示するわけではありません」
男は言った。
「貴重なものでも?」
「貴重だからこそです」
ルシェルの声は静かだった。
「貴重なものほど、利用されます」
「……」
「剣聖セレスティアの遺品なら、なおさらです」
「……」
「だから、慎重に扱います」
男は頭を下げた。
「失礼しました。理解しました」
ルシェルは頷いた。
「質問は悪ではありません」
「はい」
「ここは、そういう場所です」
子どもたちは、そのやり取りを真剣に見ていた。
ミレーヌは少しだけ安堵した。
やはり、記録所には質問が必要だ。
ただ読むだけではなく、考えることが必要だった。
見学の最後に、一行は中庭へ戻った。
中庭には、簡素な食事が用意されていた。
豆の煮込み。
パン。
野菜のスープ。
果実。
そして、保存食の小さな試食。
ゴルド工房製のセレスティア用保存食である。
子どもたちは、それを見てざわついた。
「これが剣神様の干し肉?」
案内役の記録官が即座に言った。
「剣神の加護はありません」
子どもたちは一斉に笑った。
もう覚えていた。
「空腹は避けられる!」
ミレーヌも笑った。
「はい。それで十分です」
子どもたちは干し肉を噛んだ。
数人が、同時に顔をしかめた。
「硬い」
「硬いです」
「でも味はする」
「腹にたまりそう」
少年が言った。
「剣神様はこれを食べてるの?」
ミレーヌは頷いた。
「はい」
「硬いって言う?」
「言います」
「じゃあ僕も言う」
少年は干し肉を噛みながら言った。
「硬いですわ」
子どもたちが笑った。
教師も少し笑ってしまった。
ミレーヌは、笑いながらも少しだけ困った。
「それは、お姉様の真似ですね」
「だめ?」
「悪くはありませんが、敬意は忘れないでください」
「はい」
「でも、祀らない」
「はい」
「干し肉の神じゃない」
「はい」
「ただし、食べる」
「はい」
子どもたちは、よく覚えていた。
その日の夕方。
白樹の森へ戻ったミレーヌは、食堂でその話をした。
セレスティアは、干し肉を持ったまま固まった。
「子どもが、何と言ったのですか」
ミレーヌは少し笑いをこらえながら答えた。
「硬いですわ、と」
ルシェルは咳払いした。
王は茶を飲みながら視線を逸らした。
王妃エルフィリアは、真面目に言った。
「言葉遣いとしては、丁寧です」
「お母様」
「ただし、真似を広げすぎると困りますね」
「既に困っています」
セレスティアは、干し肉を見た。
硬い。
だが、今日は言いづらい。
言えば、子どもたちの真似が公式化してしまう気がする。
セレスティアは、慎重に噛んだ。
硬い。
やはり硬い。
しかし、今日は違う言葉を選んだ。
「保存食として、適切です」
ルシェルが記録板に手を伸ばした。
王妃が見た。
ルシェルは止まった。
ミレーヌが笑った。
「お姉様、逃げましたね」
「逃げていません」
「硬かったのですね」
「保存食として、適切でした」
「硬かったのですね」
「保存食として、適切でした」
食堂に笑いが広がった。
その笑いの中で、セレスティアは少しだけ安心した。
記録所は、怖いだけの場所になっていない。
子どもたちは死者名簿を読み、三賢者の字を笑い、聖遺物詐称に怒り、干し肉を硬いと言った。
それでよい。
死者を遠ざけない。
神を閉じ込めない。
記録を読み、考え、食べ、帰る。
それが、この世界の進み方だった。
数日後。
邪神戦争記録所の中庭には、新しい掲示が追加された。
質問歓迎。
ただし、死者を商品にするな。
剣神を祀るな。
干し肉に加護はない。
食事は中庭で。
その下に、小さく手書きで追記があった。
硬いですわ、は剣神本人の発言です。
無闇に真似しないこと。
ルシェルは、その追記を見て頭を抱えた。
「誰ですか、これを書いたのは」
記録官たちは目を逸らした。
ミレーヌは笑っていた。
ゴルドから通信が入った。
「いい掲示だ」
「親方」
「子どもは覚える」
「覚えなくてよいこともあります」
「覚えやすいことは大事だ」
セレスティアは通信越しに言った。
「親方、余計なことを広めないでください」
「硬いもんは硬い」
「保存食として適切です」
「逃げたな」
「逃げていません」
ゴルドは笑った。
通信が切れる。
その夜、セレスティアは白樹の森の外れを歩いた。
星が出ていた。
黒星が背で静かに鳴る。
『記録所は動き始めたな』
「はい」
閃白が澄む。
『祈りではなく、問いが生まれています』
「よいことです」
解白が淡く告げる。
『質問歓迎。学習効率良好』
「そうですね」
セレスティアは、夜空を見上げた。
世界は一つではない。
精霊王はそう言った。
泡のような世界。
異界から来た邪神。
白い薄片。
まだ分からないもの。
それでも、今は記録所に子どもたちが来る。
死者名簿を読む。
質問する。
干し肉を噛む。
硬いと笑う。
それが、現世だった。
セレスティアは、小さく呟いた。
「祈る前に、記録を読む」
黒星が低く応じた。
『そして食う』
セレスティアは少し笑った。
「はい」
記録所の灯りは、夜の封印地外縁に静かに灯っている。
神殿ではない。
祠ではない。
だが、人が訪れる場所になった。
それでよかった。
祈る前に、記録を読め。
生者は、死者を利用せず、死者から学ぶべし。
その言葉は、少しずつ世界へ根を張り始めていた。




