銃殺刑当日 どうして誰も助けてくれないの?
「どうして誰も、助けてくれないの?」
――自分は本来、この場にいるべきではない。
いてはいけないただの子どもだというのは誰に言われるまでもない、一二三自身がいちばんよくわかっている。
朝起きて、次兄の姿が家のどこにも見当たらず、すぐに探すことをやめた長兄はそのときからこの場に来て堀川と会うまで、ただの一度も口を開くことがなかった。
長兄と無言で向かい合わせにすわって朝餉を食べて、大日本帝国海軍の第一軍装に身を包んだ長兄に用意された洋服に袖を通して身なりをととのえてもらい、優しく手をにぎられて家を出て……。
長兄は声を失ったかのように何も言わずに一二三を車に乗せてこの建物まで来たが、一二三にとってそれは長兄が父に合わせてくれるものだと思えたので、彼の無言はさほど苦痛ではなかった。
長兄もそれほど父のことで気落ちしているのだと思い、一二三も口やかましく尋ねることはしなかった。
――今日という日が何なのか、一二三はまだ知らない。
帝都郊外まで車が走り、海も見える地域に差しかかり、最初こそ滅多に見ることがない海の光景に心も弾んだが、高い塀が印象の建物がある敷地内まで乗車し、一二三は幼子特有の本能でその建物から発せられる異様な気配と、帝国海軍に所属している大人たちの第一軍装の集団から発せられる無念や怒気、その一方で、帝国陸軍に所属している大人たちから発せられる不気味な愉悦を感じ取って、怯えが止まらなくなった。
一二三はこの敷地を歩いて目の前にある建物に近づくこと自体が怖いと言って、泣き出した。
この場に到底ふさわしくない幼い子どもの泣き声に周囲の大人たちはぎょっとし、海軍所属の若い士官が子どもを建物のなか――陸海軍軍事関連収容施設および刑場内へ連れて行こうとしていることにぎょっとして、ふたりを囲むように壁となって、
「とにかく退け」
「子どもを連れてくるような場ではない!」
と言って、両手を広げて立ち塞がる。
ふたりの関係性や事情は彼らにはわからないが、幼い子どもに配慮して宥めるような声もあれば、場違いの子連れに怒鳴る声もあって、その声が怖くて、自分のせいで長兄が叱られている姿を見るのがつらくて一二三はさらに泣いた。
だが、
――このときの長兄はすでに幽鬼だった。
何も言わず、何も表情を変えず。
一二三の手をにぎったままただ足が動くのに身を任せて歩くだけ。
ようやくふたりが兄弟だと知る人物たちがあらわれ、やはり長兄に退けと説得にあたるが、これだけの人を前に平素より礼儀正しい長兄が一言も発せず無視しつづけるのは一二三も初めて見ることなので、今度はその長兄にさえ一二三は怯えて怖くなったが、この場で頼れるのは長兄しかいない。
たとえ、いまの長兄がほんとうに幽霊に変じてしまっていても、一二三には彼の手を離すことができなかった。
――そして……。
「本山くんのことは、大変無念だ。だが堪えてくれ」
「誰も閣下のことは失いたくはない。――だが、軍法会議の決定を覆すことはできないのだ」
誰も彼もが長兄を説得するのに、おなじようなことを口にする。
長兄よりも年上、父とおなじ年ごろ、あるいはもっと年配にも感じられる大人たちが口々に「本山くん」「閣下」「長官」「本山大将」と言うのが、それは自分たちの父のことを呼んでいるのだと一二三は理解したが……。
――一二三にはひとつだけ、理解できないものがあった。
帝国海軍の第一軍装に身を包む大人たちが父に下された銃殺刑を心底無念に思い、それに主導権を持つ帝国陸軍に許しがたい怒気を寸前で堪えているようすは伝わるが、誰も彼もが無念だ、無念だ、かわいそうに、護れず許してほしい、と傷み残念がっているにも関わらず、誰ひとり「では、こうしたら救えるのではないか?」と論を講じる者がいないということだ。
父のことがかわいそうだとわかっているのに、どうして誰も助けてくれようとはしてくれないのだろうか。
一二三にはそれが不思議でならない。
「……ねえ、堀川サン……」
一二三は声と身体を震わせながら、涙を堪えることができず、垂れてくる鼻水をすすりながら堀川を見やる。
自分たちを捕えようとした彼の腕は、寸前で止まっている。
――補足ではあるが。
暁久の弟たちにとって堀川は頭にたんこぶをいくつも作るほど実の兄も同然の存在ではあるが、一二三をはじめ、蔽九郎も十七郎も堀川のことを兄呼ばわりや名前では呼ばない。
彼ら弟たちにとって兄は長兄だけ。
――悌史。
と、堀川の名を呼べるのは心友である暁久だけの特権のように思われる。
けっして他人行儀ではないのだが、一二三たち弟は妙なところで線を引いている。
それ以外は、おしめも替えてくれたまさに兄同然だ。
たがいに何の遠慮もない。
――だから、問うことができる。
「ねえ、どうして?」
どうして大人たちはこんなにも大勢いて、銃殺刑の処断が下された父を哀れに思ってくれているというのに、それ以上のことをしようとはしないのだろう。
長兄のようすを見ても、彼にも万策尽きて手の打ちようがないから困り果てて声も出せない状態だというのに、
「どうして誰も、お父さんを助けてくれないの?」
「一二三、それは……」
一二三はまだこの建物がどういう目的を持っているのかを正確には知らないし、ましてや今日、この施設内で父が銃殺刑に処されるなどと夢にも思っていない。
見たところ、たくさんの帝国海軍関係者の大人たちがいるので、ひょっとしたら父を牢屋から助けてくれる話をするのかもしれないと、そんなふうにも思えていた。
だからその素振りがどこにも感じられない大人たちに違和感と疑問が湧き、一二三には不思議でならなかった。
一方で、なぜ誰も助けてくれないのか、と問われた堀川はどうしたら幼い子どもの一二三が正しく理解できるのか、その言葉を必死に捻出するように眼鏡越しから眉根を寄せている。
――それが軍隊組織に所属する者として、失敗したら受けなければならない罰だから。
端的に言えば、これがいちばんの道理だ。
誰もが一二三たちの父である本山大将を救いたいという気持ちを溢れさせても、軍隊という組織に定められた法令、所属する以上軍人として否を唱えることなく頭を垂れて決定に従えという絶対的な精神の枠組みがある以上、これに逆らうことができない。
「一二三……、おまえにはまだ経緯を理解するのは難しいかもしれないが、大人には大人の、軍人には軍人の決まりごとがある。その決まりごとはぜったいに守らなければならないんだ」
――決まりごと……。
そういう事柄があるのは、さすがの一二三にも理解はできる。
ご飯を食べるときは、手を合わせていただきます、終わったら感謝を込めてごちそうさま。
朝起きたら、きちんとあいさつ。
自分にできないことをしてもらったら、ありがとう。
相手を困らせたり、物を壊したり、「悪いこと」をしたらごめんなさい。
目上の者は、下をよく助ける。
――そういった決まりごとをきちんと守って、正しい大人になりなさい。
一二三のそばにいる大人たちや兄たちは日々それをきちんと教えてくれた。
一二三もそれに習っている。
だが、まだ我の強いやんちゃな年ごろだ。大人から見れば失敗を通そうとしたり、わがままを通そうとしたりして、それが結果として叱られる要因となって、とくに三番目の兄である十七郎にはガミガミと言われてしまう。
その十七郎でさえ、ときには伯父や祖父、滅多にはないが父の前でうなだれながら正座をして反省を求められているところに出くわすこともある。
けれどもどんなに悪いことをしたとして叱られても、きちんと「ごめんなさい」と謝って、何が悪かったのかを理解すれば大人たちは頭を撫でてくれて、「よくできた」と言って褒めてくれる。
許してくれるというのに。
――これは子どもにだけ通用する「決まりごと」であって、大人には通用しない「決まりごと」なのだろうか?




