銃殺刑当日 堀川悌史と本山暁久・3
心友である「彼」――暁久を探して陸海軍軍事関連収容施設および刑場の施設内を駆る堀川だが、けっして施設内に明るいわけではない。
帝国陸海軍の上層部、将校、士官。海軍省、陸軍省主要幹部らがこの場に集まってはいるが、彼らのほとんどがこの施設に立ち入るのがはじめてであり、堀川もそのうちのひとりだった。
施設職員や管理者でなければわからぬ部屋や場所、区域も多いが、人を探すぶんにはそれらの知識はさほど必要もない。
走っている最中、海軍次官を見かけて堀川はあわてて足の動きを緩めるが、海軍次官はすまなそうに眼を閉じて、「あちらに」という意味で堀川にすすむ方向を教えるように指差しをしてくる。
刹那、海軍次官のとなりに立つ蔽九郎を目撃して顔をしかめる。
遠目から見てもわかる羅刹の気配に、堀川は兄代わりとして保護すべきか一瞬迷ったが、
――次官が眼を閉じたということは、そういうことなのだろう。
どのような事情で同行に至ったのかは堀川にはわからないが、蔽九郎がとなりに……本来なら横に立つことができない立場の蔽九郎が海軍次官のそばにいるということは、誰にも羅刹に変じた少年を止めることはできないということなのだろう。
羅刹は海軍次官が責任を持って預かるという、そういうふうに意が酌めた。
蔽九郎は前だけを凝視し、こちらには一瞥もしない。
そして、指差しで示した先……そこにいる暁久のほうこそ海軍次官の手にも負えぬから、彼をよろしく頼むと、そういうふうに伝えられたような気がする。
蔽九郎はまだ少年だが、すべてを庇護しなければならない年齢でもない。
自身で覚悟をきめて聯合艦隊司令長官・本山大将の――父の銃殺刑を見届けるというのなら、それは今後の蔽九郎にとっては必要な辛い選択であり、大人たちも尊重しなければならない――あるいは、その意思を抑えることは到底困難だ――と決断したのだろう。
だがそれは、すでに海軍省入省を果たしている蔽九郎に向けての話だ。
――まだ幼い子どもの一二三に、それが当てはまる道理はない。
だからこそ、ようやくのことで暁久の姿を捉えた堀川は、その足にしがみつくように寄り添っている一二三の姿を見て心底残念に思った。
――この目で見るまでは……。
暁久はけっしてそのような行動には出ないと信じていただけに、眩暈を起こしたように目の前が真っ暗になる。
「暁久……」
声をかける前に帝国海軍第一軍装に身を包んでいる暁久がこちらに気がつき、どこか残念そうに、どこか安堵したような表情をわずかに浮かべた。
堀川はそのすべてに賛同できかねると返すように首を振り、走る速度を歩みに変えた。
周囲には、上司や同輩たちが心底困惑したように集まっている。
どうしてこのような日に、まだ幼い子どもを連れて来ているのだろうか。
暁久の足にしがみついている子どもが彼の年の離れた弟だと認識できる者はすくなく、だがそれ以前にこの先には刑場しかないのだから、その子どもを連れて行こうとしている暁久の意図が読み取れず、周囲はかなり困惑している。
どういう事情があるのかは知らないが、それだけは容認できないと一致しているので、とにかく引き下がれと説得の声をかけている。
――なるほど。
先ほど郡司が言ったように、一方の暁久はどのような声をかけられようとも一言も口を開かず、表情を変えず、どうにかして一歩を踏み出そうとしているようすがうかがえる。
周囲はもはや防波堤のような壁となって両の手を広げ、暁久を止めようとするのに精いっぱいのようすだった。
これでは誰もかれもが、自分に「どうにかしろ」と言って、「暁久を止めてこい」と言ってくるのがよくわかる。
ただ、暁久も強引に進もうとはしていない。
――行くか、退くか。
ほんとうに精神ぎりぎりのところで思い悩んでいるようにも思われる。
暁久とはたがいに所属する部署が異なるため、ここ数日顔を合わせる機会も、簡単な一言二言を交わす時間もなかった。
だから堀川には、ここにいたるまでの暁久の事情……切羽詰まった内情がほとんどわからない。
だが暁久にとって今日という日がどのような現実なのかを考えれば、普段は穏やかな瞳もいまはどこか虚ろ、心痛のあまりに幽鬼のように弱々しい姿に見えるのも理解はできるし、だからこそ見ているこちらも同等に胸が痛む。
「――暁久、思うところがあるのは重々承知している」
本来であれば心痛を分かち合うように労わってやり、どこかで休ませてやりたい。
「もうここまでだ。すべてを退け。……俺たちではどうすることもできないんだ」
堀川の登場に安堵した周囲が、自然と空間を開ける。
堀川はゆっくりと歩みながら暁久の前に立ち、ゆっくりと暁久の瞳を見やる。
「……」
暁久も何か言いたそうに閉じたままの唇を弱々しく動かそうとしているが、それはうまく開かれない。
もしかすると一言も口をきかないのではなく、何か言いたいことがあっても精神的に言葉がまとまらず、心痛に圧し潰されそうな自分を辛うじて支えているのが精いっぱいで、声を発するのも困難なのかもしれない。
紡ぎたい言葉を探すように力なくわずかに目を泳がし、それさえ辛くなったのか、暁久は堀川を見やって影薄く笑む。
それは感情を読まれたくないときの暁久の悪い癖のひとつだった。
「暁久……」
はやく手を伸ばして支えてやらねば。極限までの忍耐を持つ暁久も、もう倒れるかもしれない。
――だが……。
いまの堀川が優先しなければならないのは、心痛の暁久ではなく、その長兄だけを頼りに足にしがみついている一二三の保護だった。
直感でものを言えば、彼らの末弟を出産するために一二三は母たちと彼女の生家にしばらく身を置いている。暁久がわざわざ一二三をこの日のために連れてくるとは思えない。
無論、長兄として父の最期を看取らせようと心理がはたらいても不思議ではないが、それでも本来の暁久であればけっして見せようとはしないはずだ。
もしかすると海軍次官に張りつく蔽九郎とおなじように、一二三のほうから父の最期を見たいと強くせがまれ、連れて行ってほしいと駄々をこねられて、あつかいに困って連れてきた……その線も考えられる。
こちらのほうが濃厚だろうが、それでも本来の暁久ならば、ぜったいに了承しない。
――それを覆す何かが、暁久の心を病的に喰らっている。
どちらにせよ、解決策はいたって単純だ。
見せなければいい。
じつに単純明快ではあるが、――簡単にはいかない。
堀川も思い悩むように目を閉じて、深い一呼吸をして、まずは一二三と視線が合うように膝をつく。
「一二三、悪かったな。見知らぬおじさん……いや、おにいさん……でもない、――大人の人にたくさんかこまれて。怖かっただろう?」
自身にとっても年の離れた弟同然の幼い顔を見やり、目もとを見やると、ここに来るまですでに何度も泣いたのだろう。
目は赤く、涙で潤み、普段のやんちゃぶりを知るかぎり縁もなさそうなほどの不安と緊張で顔がこわばっている。
周囲の異様な気配を察して、ずいぶんと怯えて泣いたのだろう。
――無理もない。
この施設は大の大人たちにとっても異様な気配しか感じられない、無念や怨念、幕末よりつづく歴々の死臭が染みついている刑場なのだから。
堀川は伸ばした手でこわばった表情の一二三をすこしでも安堵させようと、その頬を撫で、眼鏡越しから優しく笑む。
「今日の暁久には、とてもたいせつな仕事がある。おまえがそばにいたら仕事もはかどらないだろうから、暁久の仕事が終わるまで俺が代わりにそばにいてやる」
「……」
「大人にとって仕事は、いちばんたいせつなお勤めだ。それを邪魔することはいけない。これはわかるな?」
「……」
ゆっくり諭すように言うが、一二三は堀川を見たままうなずこうとしない。
同意したらきっと終わりだ。
そんな心理が一二三にもはたらいているらしく、意識的に自分の唇を噛みはじめている。
「暁久がきちんと仕事ができなくて、上官……えらい人に怒られたらかわいそうだろ?」
「……うん」
暁久の虚ろな気配に一二三も呑まれているのか。
堀川から向けられる言葉に返事をしていいものかとかなり迷っているそぶりを見せたが、これ以上長兄が周囲の大人たちに何かを言われるようすは見たくない気持ちが勝り、一二三がようやく小さくうなずく。
――いまは一二三のほうが道理をわかっているな。
と、堀川は安堵する。
せめてこのような場ではなく、せめて事情も異なり、一二三も普段から見せるやんちゃぶりでわがままに騒いでいるのであれば、堀川も遠慮なく頭に拳をひとつ落として、一喝して、まだ充分に抱きかかえられる一二三を担いでさっさとこの場を離れることもできたが、いまは尋常ではない事態だ。
――一二三を騒がして、周囲を……暁久を触発することだけは避けたい。
「ほら、ひさしぶりに抱っこしてやる」
言って、堀川は膝をついたまま一二三に向かい、ゆっくりと両腕を伸ばす。
堀川は一二三が生まれたときから長兄のとなりにいた。
自分の面倒を見てくれている兄同然なのだから、そのしぐさも本来なら安堵できる腕だというのに、……だからといってこのまま素直に従ってもいいものだろうか。
堀川に抱きあげられたら最後、自分はこの建物から連れ出されてしまう気がする。
――そばにいるという言葉は嘘ではないにしろ、いまは近寄ってはいけない。
本能的にそう察したのか。
一二三が堀川から隠れるように、暁久にしがみついたまま長兄の後ろ側にまわってしまう。
「一二三……」
勘のいい一二三に悟られても堀川は苛立つことはせず、距離を詰めず、両腕を下げない。
「だいじょうぶだ、来い」
できるだけ警戒心を解かせるように、普段はがみがみとうるさいようすが嘘のように優しい安堵を目もとに見せるが、
「――一二三は私のそばにいなさい」
離れては駄目だよ、と儚げな優しい笑みを浮かべながら暁久が一二三の身体に手をまわし、しがみついたままの幼い弟を自分に押し当ててしまう。
それは目の前の心友にも渡さないという意思表示でもあった。




