きっと聴こえるよ
一瞬、意識が深い暗闇に沈み、戻ったときには周囲は濃い煙に包まれていた。
視界はほとんど奪われ、周りに何があるのかわからない。
鼻腔を刺す焦げ臭さと、肌を刺す熱気。
思わず息を止めたが、今の友梨奈は実体ではないから息をしていなかった。
匂いや熱気はきっと手を繋いだ相手から伝わる感覚だ。
繋いだ手の先には、小さな男の子。
背丈から見て、幼稚園に通い始めたぐらいかもしれない。
フローリングの廊下に這いつくばり、咳き込んで泣いているように見える。
「ママ……ママ、どこ……」
「大丈夫、この手を離さないで」
声をかけながら、小さな手をぎゅっと握りしめた。
――この子には私の声も姿も届くはずがない。
だが、涙で濡れた瞳が友梨奈をまっすぐに捉え、問いかけてくる。
「おねーちゃん……だれ? ママは?」
驚きに目を見開き、しばらく返す言葉もなく見つめ返してしまう。
小さな子供には、大人が見えないものが見える――そんな話を思い出す。
いつの間にか成長とともにその力は消え、その記憶も失われてしまうらしい。
(私の能力も……そんなふうに消えてくれればよかったのに)
失われたのは大事な幼少期の記憶だけで、呪いのような能力だけが残った。
繋いでいない方の手で、そっと男の子の頭を撫でる。
「ママは後で迎えに来るから。……今はおねーちゃんと一緒に逃げよう」
「なんでだろ……お母さんの声、おばあちゃんの声、みんなの声は聴こえないのに、
おねーちゃんの声ははっきり聴こえる」
(まさか!……耳が聴こえない? それで火事の警報も、人の叫び声も……)
逃げ遅れた理由がわかった。
この場所の不自然な静寂さも。
その時、男の子が激しく咳き込むような動き。
もう考えている余裕はない。
低く姿勢を落とし、手を引いて煙の中を進む。
熱気で頬がひりつき、喉の奥が乾く感覚を感じた。
(……火元の方へは行ってませんように)
部屋の構造はわからない。
今いる階数も方角も見当がつかない。
ただ、立ち止まればこの子は確実に煙に呑み込まれる。
煙は刻一刻と濃くなって、進むごとに視界は閉ざされていく。
それにつれて進む方向への友梨奈の確信は弱まって、前へ進む歩みは
焦る気持ちとは裏腹に徐々にゆっくりになってしまう。
(火元は一体どこ? 情報が無さすぎる……)
(前みたいにあかねと連絡を取ったら?……)
建物の透視が出来なければ、今友梨奈たちがいる階や火元の位置なんて
わからないだろう。
あかねが透視能力を持ってるなんて話は聞いたことが無い。
(もう! 助けに来たっていうのに、何やってんの、わたし。早くどうするか決めないと)
(一人で動き回って出口を探す?)
(……駄目!)
(この煙で手を離したら二度とこの子に会えなくなる……)
繋いだ手を見ると、小さい手の親指の指先が友梨奈の手の甲に少し食い込むぐらい
強く握り返してきている。
(こんなに頼ってくれてるのに、わたしが迷ってどうするの)
頭を振って覚悟を決め、さらに数歩先へ進むと、
ようやく廊下の終わりを示すドアがあるのが煙のわずかな合間から見えた。
その先には希望があるかどうかまだわからない……。
その時右手の感触がさっきまでと違うことに気付き、慌てて繋いだ手の先を見る。
指の圧力を感じないと思ったら、男の子はぐったりして動かなくなっている。
煙を沢山吸ってしまったのかもしれない……。
手に温かみはあるから命の危険はまだ無いと信じたい。
(今だけは、もっと……能力が……欲しい)
「マ、ママ……ママ……」
うなされるようにか細い声で繰り返し母親を呼ぶ男の子。
「……本当にゴメン、私に力が無くて」
突き当たりのドアを開けると、煙で全体は見えないが広い空間が広がっている感じで、
恐らくリビングだ。
だとするときっと窓があってその外はバルコニーになってるに違いない。
もうそれは希望的観測を超えた祈りのようなものだった。
その時突然、煙が一方向へサーーッと音を立てるように流れ始めた。
(……空気が動いた?)
どこかが開いた?
誰かが来たのかもしれない。
「おねーちゃん……」
うわ言で呼ぶ男の子の手を握り直し、その流れに向かって歩き出す。
煙が少しずつ薄くなる。
その中にぼんやりと人影が浮かぶ。
男の子の手を必死に引っ張ってそっちの方へ全力で走る。
つもりだったのだが、消防士らしき人影が視界に入った瞬間、ホッとして膝から
ガクッと力が抜けてしまって、足がもつれてバランスを崩し、
大きく前のめりにつんのめった。
結果、かなりの勢いをつけた感じで消防士の人の腕の中に男の子と一緒に
友梨奈もろともでダイブ。
友梨奈の姿が見えない状態ではそれが相手にどう映っていたのか分からないが、
受け止めた人と隣に立ってる人、両方の消防士がしばらく固まっていたから、
きっとかなり不自然な動きにはなっていたのだろう。
すぐに我に帰り、声を張り上げている様子の消防士たち。
消防士の腕の中にある男の子を見て安心した友梨奈は、意識が遠くなる中で
その子の声を微かに聞いた。
「お姉ちゃん、ありがとう……お姉ちゃん……。
ねぇ、ママの声もお姉ちゃんの声みたいに聴こえるようになるかな?」
きっといつか聴こえるよ、と友梨奈は言いたかったが、男の子が運ばれたことで
握り合っていた手が離れて、繋がっていた意識も遮断されてしまった。
少し離れたベンチに座って待っているあかね。
突然すくっと立って友梨奈の身体の方にすたすたと近づいて行く。
そのタイミングにちょうど合わせたように、友梨奈の瞳に生気が戻り、
その場にぺたりとしゃがみこむ。
大きくため息をつくように息を吐き出して、脱力し俯く友梨奈。
表情が乏しい、というよりほとんど表情が無い友梨奈の顔が、あかねには心なしか
嬉しそうに見えた。
「さすが梨奈ねーちゃん。今度もちゃんと助けられたね。あの子すごく喜んでたよ」
明るくはしゃぐあかねを目線だけで睨む友梨奈。
「もう! 簡単そうに行ってくれるけど毎回ギリなんだからね。
そもそも火事だって分かってたんならもっと早めに情報よこしなさいよ」
「あと! こないだあんたが来た後にあんたのママに、『娘を連れ出すな』って
私が怒られたんだから。今回で最後、もうこういうのでわたしのとこに来ないでよ!」
ノロノロと起き上がり、足元をふらふらよろつかせながらその場から離れていく友梨奈。
くちびるを突き出した不満げな顔で後を追いかけるあかね。
「ねぇ、梨奈ねーちゃん、こっそりやってればママなんかにはバレないからさー。
また一緒に人助けしよ、ねぇってば」




