あの日の少女
10階建の高級マンションの前。
麻由はその玄関の自動ドアを通り、エレベーターホールに向かう。
エレベーター内のコンソールにカードキーをかざすと10階のボタンが点灯し、
エレベーターはドアを閉め上昇を始める。
部屋のドアを開けると玄関の照明が自動で点灯した。
靴が無いところを見るとまだ叔母は帰って来ていないようだ。
M中学に通うために、独身の叔母、愛子の家に下宿させてもらっている。
最初はF市で一人暮らしをするとまで言い出したが、さすがに両親には許されなかった。
叔母の家に下宿するなら、ということでようやく許可が下りたのが今年の夏。
子供の頃から可愛がってくれてた叔母なので、二人の生活は過ごしやすかった。
3LDKの間取りの中で自分に割り当てられた一部屋に入る麻由。
倒れ込んだベッドを含め、部屋の中は、実家から持ち込んだ家具や私物でほとんど
以前の自室と同じだった。
父は、空になった娘の部屋を見て寂しがっているらしい。
両親には申し訳ないけれど、子供の頃に命を救ってくれたあの少女に会えるまでは、
麻由は止まる気は無かった。
あれは確か小学校に上がる前の春休み。
そのお祝いだったのかもだが、麻由は小さかったからその時の両親の意図は全く
覚えていない。
生まれて初めての大きな船での家族旅行。
最初はワクワクで船上のデッキで超はしゃいでいた麻由だったが、
夜には船酔いで動けなくなり、翌朝には船室で寝込んでいた。
寝てても揺れを感じて気持ち悪いなんて。
「もう二度と船なんて乗らない」
そう両親に愚痴を言っていた自分が、少し恥ずかしい。
あれが起こった時刻、麻由は船酔いに疲れて船室のベッドに一人で寝ていた。
半分寝て半分起きているようなぼーーっとしていた状態から、船体を無理矢理
上下左右に揺さぶるような振動とバリバリバリッという大きな破壊音で
叩き起こされた。
直後に部屋が大きく傾いて麻由はベッドから転げ落ちそうになる。
「なに?地震?……って船だから違うよね。お母さん?」
小っちゃい頃らしく、とりあえず困った時はお母さん頼りで呼んではみたものの、
その時は一人で部屋で寝ていたので当然誰からも返答は無い。
さらに部屋が傾き、とうとう踏ん張りが効かず麻由はベッドから勢いよく転げ落ちた。
ドアを通して遠くで多くの悲鳴や叫び声が聞こえて来て、
さらに大きな振動と破壊音が響く。
転げ落ちて打った身体の痛みを感じる余裕も無く、外で起こってることがとにかく
怖過ぎて、部屋のドアをただただ見つめていると、ドアの通気孔から水が流れ込んで
来てるのが見えた。
「これって、まさか沈没?? うそ! お父さん? お母さん? どこ?」
床にしゃがみ込んでいる麻由の周りに徐々に水が迫ってくる。
まだ少量だが、外から聞こえて来る色んな怖い声と音と合わせて麻由はもう
パニック寸前だった。
「パパ! ママ! 助けてー!」
とうとう感情に任せて悲鳴にも似た大きな声を出す麻由。
「ごめんなさい……」
耳元で聞いたことがない涙声がすると思った瞬間、麻由の右手を握った状態で
隣に紅い瞳をした少女が突然立っていた。
身長は麻由と同じくらいで、幼い顔つきからも同じ年頃に見えた。
「あなた、一体どこから?……」
その子の紅い瞳は涙で溢れている。
突然出現したことといい、瞳が紅いことといい、泣いてることといい、
謎だらけで何から訊けばいいのか分からない。
「わたし、みんなは助けられない。ごめんなさい……」
「え? それってどういうこと?」
麻由の質問には答えず、その少女は小さい身体からは想像出来ない強い力で
しゃがんだ麻由の手を引いて立たせると、無言のままその手を引っ張り
部屋のドアへ向かった。
その子がドアを開けると、外の通路にはかなりの水量が流れ込んでいて、
まるで川のようになっていた。
その通路をまるで全く水の抵抗が無いかのように、麻由を引っ張ってずんずん先へ
歩いていく紅い瞳の少女。
「ねぇ、なんで泣いてるの? どうして謝るの? 水は怖くないの?」
どうやら自分を助けてくれる気らしいと分かって、麻由は疑問点を矢継ぎ早に
少女にぶつけてみた。
しかし何を聞いても少女は相変わらず無言で通路をただただ進んで行く。
さらに周りが傾き、水量は二人の胸のあたりまできている。
少女は急に振り返って、紅い瞳で麻由を見つめる。
「いーっぱい息吸って鼻と口から水が入らないようにしてて」
その子が言いながら実演してくれたとおり、麻由は大きく深呼吸して空いている
左手で鼻を摘んだ。
通路が続く先は水で一杯になり、真っ暗で行く手に何があるのか全然見えなく
なっている。
暗闇の世界に吸い込まれそうで凄く怖かったが、その子は全く躊躇なく麻由の手を
引いてその先に進んでいく。
恐怖と水の冷たさで途中の記憶が飛んでいたのだろう。
次に気づいた時は前後左右上下に見境なく荒れ狂う水の流れの中に麻由はいた。
船の中ではなく海の中にいるのは一瞬でわかったが、麻由の手を強く握っている
少女はまるで地面の上にいるかのように普通に海中を歩き、その手を引っ張っていた。
(なんでこの子水の中を普通に歩けるの?)
そんな疑問と共に唐突に息苦しさが麻由を襲って来た。
気が遠くなっていた時間も含めると、息を止めてから結構な時が経っていたのかも
しれない。
「もう少しだから」
海の中でもその少女の声が聞こえる。
不安を打ち消したいがための幻聴だろうか、それとも……
(まさかさっきから私の頭の中でずっと話してたの? こっちの声も聴こえる?)
頭の中で問いかけてみる麻由。
「……ごめんなさい、ごめんなさい……」
返事なのか、それとも独り言なのか分からない。
この少女にはさっきから聞きたいことだらけだが、今はもうただただ息が苦しくて、
空いてる手と両足をバタバタさせ、苦しみに堪えるだけでやっとの状態に陥っていた。
その時、頭上の方から人の声が聞こえて来た。
「女の子だ! こっちに流されてくる!」
「また子供か。さっきから何人目だ?」
「頭を打った男の子の意識がない! 救急要請を急いでくれ!」
引き上げられた救助船の甲板にへたり込む麻由。
大人の人たちが毛布を掛けながら何か話しかけて来ているが、全く耳に入らなかった。
(助かった……あんな状態から……。あの子が引っ張って連れてきてくれたからだ)
そういえば、あの子も一緒にこの船に上がっているはず。
御礼を言わないと。
「あの、わたしと一緒だった女の子はどこですか?」
そばにいた船員らしい男の人に尋ねた。
「君は一人で流れて来たんだよ。船の中で誰かと一緒だったのかい?
もうほとんど浸水してしまっているから無事だと良いが」
そんなわけない。
ずっと引っ張って来てくれてたのに。
周りを必死で探し回る麻由。
しかし救助船の中にあの少女の姿はどこにも無かった。
まさか、そのまままた船の中に人を助けに戻ったのだろうか。
みんなは助けられないと言って泣いていた少女。
今も必死に助けているのかもしれない。
ありがとう、もまだ言えてないのに。




