第六十六話 キックとパンチ
ドアを叩く音は、今にも蝶番が壊れそうなほど激しかった。
リラは椅子からすっと立ち上がり、その指先に魔力の光をまとわせる。
俺は息を殺し、ドアノブを睨みつけた。
──来たか。ついに見つかった。
だが。
「……お願い! 早く開けて!!」
ドアの向こうから聞こえてきたのは、聞き覚えのある声だった。
──シュシュ!?
俺とリラは、ほぼ同時に驚いて顔を見合わせる。
すぐに、別の焦った声が重なった。
「追われてるの! 早くここを開けて!」
──アンジュだ!
俺は慌てて扉の施錠を外そうと、ドアノブのロックに手をかけた。
その瞬間、俺の手の上にリラの冷たい手がそっと重ねられる。
彼女は俺の動きを制すると、ドアの向こうへ冷静に声をかけた。
「シュシュ。念のため、合言葉を言ってください。『勇者の名前は?』」
俺はぎょっとしてリラを見た。
彼女は俺にだけ見えるように、唇の動きで「落ち着いて」と合図する。
「いつもの合言葉ですよ! さあ!『勇者の名前は?』」
一瞬の沈黙。そして苛立った声が返ってくる。
「何言ってるのよ! 追われてるって言ってるでしょ! すぐに開けなさい!」
「合言葉を言ってくだされば、開けます。ヒントは五文字です」
一瞬、戸惑ったような沈黙。
やがて、絞り出すようにシュシュが答えた。
「……シンジロウ」
リラは、こくりと頷くと、俺の手からそっと離れた。
俺はロックを外し、ドアを開ける。
飛び込んできたのは、確かにアンジュとシュシュだった。
「シュシュさん! 無事だったんですね!」
俺が声をかけると、「なんとかねー」と彼女は息を切らしながら答える。
「アンジェリーナも、無事でよかった」
「ええ、ありがとう。二人も無事で何よりだわ」
アンジュも、心なしか安堵したように微笑んだ。
「まあ、でもここならもう安心だ。さあ、座って休んで!」
俺は二人に椅子を勧めるため、背を向け、手をかけた。
その瞬間だ。
背後からアンジュの手が、俺の首筋目掛けて伸びてくるのを、肌で感じた。
俺は掴んだ椅子ごと、振り返りざま、アンジュの顔面に全力で叩きつけた!
金属製の椅子がぐにゃりと歪む。
しかしアンジュは怯むどころか、俺を掴もうと尚も手を伸ばしてくる。
そこに、リラが放った風の魔弾が炸裂した。
偽のアンジュとシュシュは壁まで吹き飛ばされ、その上に倒れ込んだテーブルの下敷きになる。
ぐしゃり、と嫌な音が響いた。
「逃げますよ!」
リラが俺の手を取ると、俺たちはそのまま部屋を飛び出した。
背後からは、瓦礫をひっくり返す音と、二人分の足音が猛然と追いかけてくる。
クソッ、追いつかれる──!
そう思ったとき、通路の先に腕組みをして仁王立ちする人影が見えた。
なんて勇ましい立ち姿だ!
その人影は、俺たちとすれ違う瞬間、高らかに叫んだ。
「くらえっ! 女神キーック!!」
しなやかな脚が宙を舞い、追ってきた偽アンジュの顔面を、強烈な飛び蹴りが打ち砕いた。
「かーらーの! 女神パーンチ!」
勢いそのままに、今度は偽シュシュ目掛けて拳を振りかぶる。
しかし、それが当たるより早く、鋭い風の刃が偽シュシュを壁まで吹き飛ばした。
「ちょっと、何すんのよー! 私が必殺のパンチをお見舞いしてやろうと思ったのに!」
振り返り、ぷりぷり怒るアンジュ。
その視線の先には、手を前にかざしたままの本物のシュシュが立っていた。
「アンジュのパンチなんて、どうせ効かないでしょ。さっきの戦いでも、そうだったじゃない」
間違いない! 本物のシュシュとアンジュだ!
「シュシュさん!」
俺が嬉しさのあまり呼びかけると、シュシュの目がキラリと光る。
「メ・テ・オ……」
物騒な詠唱を始めたので、俺は慌てて訂正する。
「──シュシュ!」
彼女は呪文をやめ、にやりと笑って満足そうに頷いた。
一方、リラは、吹き飛ばされて動かなくなった偽シュシュの前にしゃがみ込み、その体をペタペタと触りながら何やらぶつぶつと呟いている。
やがて、彼女はすっくと立ち上がると、「これは『傀儡人形』ですね」と、謎が解けたように微笑んだ。
「くぐつ……?」
「はい。これで今回の敵が『傀儡師』の類だと分かりました」
アンジュが腕を組み、ふんと鼻を鳴らす。
「まさかとは思うけど、シンはあんな出来の悪い人形が、この私だなんて思わなかったでしょうね?」
「も、もちろん! すぐに偽物だって分かったよ」
「だよねー! あんな不細工!
この超絶美少女女神である私を真似るなら、もっと気合入れろってのよ!」
──いや、見た目だけなら寸分違わずでしたが……。
「でも、二人とも本当に無事でよかったです」
リラが心底安堵したように言うと、「まーねー」とシュシュは軽く手を振った。
「アンジェリーナも、無事でよかった」
俺がそう言うと、アンジュは気味悪そうに俺を上から下まで眺める。
「アンジェリーナって急に……なに、あんた。キモっ。本当にシンなの?」
──間違いなく、この失礼な女神は本物のアンジュだ。
「とりあえず、ここも長居は無用です。移動しましょう」
リラの言葉で、俺たちは再び歩き出した。
ふと、俺はいたずら心を起こしてアンジュに尋ねる。
「なあ、アンジュ。『勇者の名前は?』」
怪訝そうに俺を一瞥し、アンジュは心底どうでもよさそうに答えた。
「……しらんがな」




