第六十五話 ふたり
休憩室の隅で、俺は何度も携帯電話の発信ボタンを押した。
だが、アンテナは一本も立たない。アンジュにも、九頭竜さんにも連絡がつかない。
静かな小部屋に、リラと二人きり。
正直、気まずいやら緊張するやら、いろんな感情がごちゃ混ぜになって胸がざわつく。
こんな絶体絶命の状況だというのに、彼女と二人でいるという事実だけで、頭がいっぱいになりそうだ。
──この感情は、“シン”のものなのか? それとも、“俺自身”のものなのか?
彼女は初めて会った日から、ずっとまっすぐな愛情を向けてくれている。
もちろんそれは“俺”ではなく、かつての仲間──勇者シンに対してだ。
分かっている。分かっているのに……勘違いしそうになる自分がいる。
「……つながりませんか?」
不意にかけられた声に、肩がびくっと跳ねた。
リラは俺の手元の携帯に目をやり、柔らかく微笑む。
「あ、ああ……圏外のままで。こんなモールのど真ん中で圏外なんて、ありえないのに」
「私の“念話”も、先ほどからまったく通じません。通信を阻害する結界が張られているのでしょう」
彼女は顎に指を当て、冷静に考察を巡らせる。
そして、静かに結論を口にした。
「これは事故ではありません。明確な襲撃です。そして、ここまでの規模となると……魔王軍でしょう」
──魔王軍が、もうこんなところにまで。
「でも、今日は勇者のルーリがいないのに、なぜ?」
「魔王が、勇者パーティ全員が揃うまで待ってくれるとは限りませんよ」
リラは、少し呆れたように笑った。
「そんな律儀な相手なら、“魔王”なんて呼ばれてません」
そして、彼女は続ける。
「……あるいは。魔王の真の狙いは、勇者ルーリではなく、もう一人の勇者──シンのほう、かもしれませんね」
そう言って、いたずらっぽく俺を見る。
俺は乾いた笑いを返すしかなかった。
だが、リラはふいに表情を変えた。
愛おしさと、少しの寂しさを混ぜた瞳で、まっすぐに見つめてくる。
「シンは、昔から変わりませんね。良く言えば謙虚、悪く言えば……自己肯定感が低い。それゆえに……すぐそばにある、誰かの大切な想いを、見過ごしてしまうことがある」
彼女はそっと目を伏せた。
その横顔はどこか痛々しく、長い間胸の奥にしまっていた言葉を、ようやく口にしたように見えた。
アンジュから聞いた話が、ふっと脳裏に浮かぶ。
リラは元は王女で、聖なる力を授かった、勇者と並ぶほどの存在だった。
魔王に苦しむ人々を救うため、身分さえ捨てて勇者パーティに参加し、魔王を討った。
そして──
彼女と“シン”は、互いを深く想い合っていた。
魔王討伐の後も、一緒に暮らす約束をしていたのに。
“シン”は何も告げず、突然元の世界に帰ってしまった。
その後、リラは王位継承権を妹に譲り、平和になった世界で、なお残る傷跡を癒すために各地を巡り、人々を助ける旅を続けていたそうだ。
アンジュはさらにこう言った。
『聖女』というのは称号でもスキルでもない。
彼女の生き方と献身が人々の心を打ち、自然とそう呼ばれるようになったのだと。
──なんで、“シン”は、こんな素晴らしい女性を置いていった……?
もし俺がシンだったら。
いや、今の俺は実質シンなんだけど。
絶対に、そんな彼女を裏切るなんてしない。
……いや、待て。本当にそうか?
調子に乗りやすくて、モテ知らずの元・俺。
“勇者”だの“英雄”だの持ち上げられたら──
……いや、ありえなくはない。
そんなくだらない考えに頭を使っている俺を、リラがじっと見つめていた。
「……また、何か良からぬことを考えていませんか?」
目を細めてくる彼女に、俺は慌てて首を横に振った。
「い、いや! その……すみません。俺なんかと二人きりで、こんなことになっちゃって」
いぶかしげな表情のリラに、俺は慌てて付け足す。
「ほら、アンジュとシュシュなら、どんな状況でも打開できそうだし。
九頭竜さんやガース、キリもいるから問題ないでしょうし。
リラだけ……役立たずの俺と一緒で……」
言い終わると同時に、リラは深いため息をつき、悲しげに首を振った。
「……そういうところですよ、シン」
そして俺の目をまっすぐ見つめ、はっきりと言う。
「考えてください。勇者と聖女のパーティですよ?
どう考えても、私たちのチームが最強に決まっています」
「でも、俺は“勇者だった”だけで、今はただの役立たずな──」
そこまで言いかけたところで、リラがすっと立ち上がり、俺の唇にそっと人差し指を当てた。
すぐ目の前。
真剣な瞳が俺を射抜く。
「役立たずな人なんて、この世に一人もいません。
お願いです……そんな悲しいことを、自分に言わないでください」
その声には一片の濁りもなかった。
本気で、心からそう信じている顔だった。
──ああ。
だから彼女は、『聖女』なんだ。
胸が詰まり、何も返せなくなる。
そんな俺を見て、リラはふっと表情を緩めた。
「でも、だからといって……ここで『マグナフォルテ』を振り回すのは禁止ですよ?
火の気が多い場所ですからね」
「し、しませんよ! ていうか、最近あいつ出てきてくれないし!」
「あら、喧嘩でもなさったんですか?」
くすくす笑うリラ。
さっきまで冷たく感じていた休憩室が、いつのまにかとても居心地のいい空間に変わっていた。
リラが笑いながら椅子に腰を下ろそうとした──その時。
ドアの向こうから、複数の足音が一斉に近づいてくる気配。
リラははっと息を呑み、唇に指を当てた。
“静かに”──その目が告げていた。
俺もゴクリと喉を鳴らす。
ドン! ドン! ドン!
ドアが激しく叩かれた。
「開けて!! 早く!!」




