第六十一話 日常という非日常
徐々に空気が冷たくなり、日が落ちるとコートなしでは肌寒い季節になってきた。
吐く息がかすかに白く、街全体に秋の匂いが漂っている。
俺は色づき始めた木々の葉を眺めながら、緩やかな坂道を上っていく。
途中、ふと足を止めて振り返ると、眼下に広がる街の灯りが夜景に滲み、その先には深い黒を湛えた海が見えた。
あの日から、ちょうど一週間。
俺はこの閑静な高級住宅街から、都心の会社まで通う生活を送っている。
通勤時間は電車だけで一時間半。ドア・トゥ・ドアで考えれば、それ以上か。
以前のボロアパート暮らしなら45分の通勤時間が今は倍になった。
とはいえ──。
「……ほっとくわけにもいかないしな」
誰に言うでもなく呟き、やがてたどり着いたのは、巨大な門扉の前だった。
「屋根付きの門がある時点で、もう普通の家じゃないよな」
思わず一人ごちて、重厚な門扉をくぐる。
綺麗に整えられた庭の飛び石を進んでいくと、見えてくるのは純和風の壮麗な屋敷。
今は、各部屋の窓から柔らかな明かりが漏れ、温かな生活の気配を醸し出していた。
耳を澄ませば、母屋の方から賑やかな笑い声が聞こえてくる。
離れにある道場からは、「エイッ」「イヤーッ」という気合いの入った声も響いていた。
「……九頭竜さん、また来てるのか」
この屋敷に移ってからというもの、彼は毎日のように道場へ通い詰め、キリに剣の指南を受けているのだ。
「本当に熱心だよな」
どこか他人事のように呟き、俺は大きな玄関の引き戸に手をかける。
「ただいまー」
と声を上げると、奥からパタパタと軽やかな足音が近づいてきた。
「おかえりなさいませ、シン! ご飯にします? お風呂にします? それとも……?」
悪戯っぽく小首を傾げ、上目遣いでそう言ってくる絶世の美女の言葉を、俺は急いで遮った。
「いや、その昭和の古典的なギャグはいいですから」
俺が冷静にツッコむと、彼女は「ちぇっ」と可愛らしく舌打ちしてみせた。
──リラさん……あなたは聖女様でしょうに。
そのリラの背後から、すっと襖が開いてアンジュが上半身だけをのぞかせた。
手にしたグラスを高々と掲げ、「おー、帰ったか!」と声をかけてくる。
「お先に始めさせてもらってるわよ!」
その実に楽しげな様子に、俺はなぜだか深いため息をついてしまった。
……最初にここへ来た時のことを、思い出す。
▽▽▽
レンタカーを降りて案内された先は、その門構えといい、屋敷の風格といい、どこの高級旅館かと見紛うほどだった。
「別荘」と聞いて、俺が勝手に想像していた瀟洒な洋館とは似ても似つかない。
そこに建っていたのは、重厚な平屋建ての純和風屋敷だったのだ。
平屋といっても、俺の貧相な語彙力ではとても表現しきれない。
強いて言うなら、時代劇に出てくる大名屋敷か、上級武士の武家屋敷といったところか。
中に入ると、さらに度肝を抜かれた。
磨き上げられた床や柱は美しい艶を放ち、使われている木材の一つ一つが、素人目にも分かるほど最高級品だ。
「これは……すごいな。俺の家も、一応は名家として由緒ある屋敷のつもりだが、それ以上だ。
サキコさん、君はもしや、相当な名家のお嬢様なのか?」
九頭竜さんが、感嘆の声を漏らしながら部屋を見渡す。
「そ、そんなことないですよー!」
照れたようにサキコちゃんが返す。
「そういえば、サキコちゃんって、名字が『東龍院』だっけ?」
和泉さんの何気ない一言に、九頭竜さんが目を見開いた。
「東龍院……? まさか、あの?」
慌てたように、サキコちゃんは両手をぶんぶんと横に振る。
「う、うちは本当に大したことないんです! おじいちゃんが、ちょっとだけ有名なだけで……」
「東龍院って?」
俺がぽかんとして呟くと、九頭竜さんが信じられないといった顔で俺を見た。
「山川君、本気で知らないのか? ……いや、まあ、一般庶民には馴染みがないかもしれんな……」
──すいませんね、根っからのド庶民で。
「東龍院家といえば、日本の歴史を陰で動かしてきたとさえ噂される一族だ。正真正銘の名家中の名家だよ」
「へぇー! すごいね、サキコちゃん!」
和泉さんが素直に驚きの声を上げる。
「だ、だから違いますってば!」
サキコちゃんは、さらに必死に手を振った。
「お父さんだって、ごく普通のサラリーマンですし!」
「ちなみに、どこの会社の?」
「会社っていうか……東旗グループの社長、ですけど……」
──もう何から何まで普通じゃねえよ!!
「ほー、これは見事なもんだ」
ガースも感嘆の声を漏らし、異世界組の面々も興味深そうにあたりを見回している。
「木造なのか……。こちらの世界の建物は、住み心地がよさそうだな」
キリが呟けば、シュシュが「いーじゃんいーじゃん! なんか自然って感じ? でも、使えるのはこの部屋だけ?」と尋ねる。
その質問に、サキコちゃんは満面の笑みで首を横に振った。
「いえ! ここは今誰も使っていないので、このお屋敷ぜーんぶ、好きに使ってください!」
「それはありがたいな」
キリが頷き、リラも満足げに微笑む。
「よかったら、ソニアさんとルーリちゃんもご一緒にどうです?」
サキコちゃんの提案に、二人は顔を見合わせる。
「うーん……住みたいけど、バイトがあるからなあ……」
残念そうなルーリ。
「そっかー。じゃあ、お休みの時だけでも遊びに来てくださいね!」
「うん! 絶対泊まりに来るよ!」
話がまとまったところで、「じゃ、俺はレンタカーを返しに行くから、ここらで失礼するよ」と俺が踵を返そうとした瞬間、はしっと袖を掴まれた。
振り返ると、リラが潤んだ瞳で俺を見上げている。
「……シンも、ここで一緒に暮らしてくださいますよね?」
「いや、俺は仕事もあるし、自分のアパートが……」
「山川さん! ここも、一応は通勤圏内ですよ?」
サキコちゃんの、悪気のない笑顔が追い打ちをかける。
断る理由も、そして何より、この異世界の面々を日本の豪邸に放置して帰るという選択肢も俺にはなく……。
こうして、俺の新しい生活が始まったのだった。
▽▽▽
「そういえば、シンは明日休みでしょ?」
皆で囲む賑やかな食卓で、アンジュが唐突に話を振ってきた。
「皆で買い出しに行くから、朝、ちゃんと早起きしなさいよ」
すっかり、この大名屋敷の運転手兼雑用係と化している俺だった。
──魔王討伐どこ行った!!




