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第五十四話 interlude 聖女リラ1/3


【聖女リラ】


 その日は朝から、どこか胸が落ち着かなかった。


 それが自分自身の内なるものなのか、それとも微かに頬を撫でる風のせいなのかは分からない。

 ただ、いつもと違う気配が、辺りを満たしていた。


 ──それが何の予兆なのか、私にはまだ分からなかった。


「聖女様、おはようございます」


 階段を降り、一階の食堂兼雑貨屋の数少ないテーブルに腰掛けると、宿屋の女主人マーシャが声をかけてきた。


「おはよう、マーシャ。今朝は静かなのね」


 見渡せば、広い店内にいるのは私だけ。

 いつもならこの時間、旅の商人や冒険者たちで賑わっているというのに。


「ええ。ちょうど季節の変わり目で、旅人の足も途絶えてしまいましたから。しばらくはこんな感じですよ」


 マーシャは四十路ほどだろうか。

 五年前、ご主人を亡くしてからも、女手一つでこの店を切り盛りしている。

 彼女の笑顔には、いつも静かな強さがあった。


「聖女様は、この後どうなさるのですか? もう、どこかへ行ってしまわれるのですか?」


 マーシャは、テーブルに温かいスープとパンを並べながら、寂しそうに眉を下げて尋ねた。

 その問いには、村人たちの総意が込められているように感じられた。


「いいえ、まだ発つと決めたわけではありません。もう少しだけ、この村の様子を見させてください。何か手伝えることがあるかもしれないから」


 私がそう答えると、マーシャの表情がぱっと華やいだ。


「まあ、嬉しい! 皆、喜びますわ。聖女様がいてくださるだけで、私達はどれだけ心強いか……」


 その笑顔に、ふと五年前の彼女の顔が脳裏に浮かぶ。

 泣き腫らした目で、「やつらを殺して!」と私に縋ってきた、あの日の彼女が。


 あれから五年。

 彼女も、こんなに柔らかい表情で話せるようになったのかと思うと、胸の奥がじんわりと熱くなった。


 五年前、この村は魔王軍の侵攻によって蹂躙され、多くの命が失われた。

 彼女の夫も、その時に亡くなったのだ。


 私達勇者パーティが駆けつけた時には、あまりにも多くの犠牲が出た後だった。

 あの頃は、まだシンが──勇者シンが、私たちと共にいた。


 私は今、こうして被害を受けた町や村を巡り、人々に奉仕する旅を続けている。

 そう。あの日から。

 勇者シンが、私たちの前から姿を消した、あの日から──。


 テーブルに置かれたスープをスプーンで静かにかき混ぜながら、窓の外に目を向けた。

 木々は赤く染まり、厚い雲に覆われた空は、もうすぐ厳しい冬がやってくることを告げている。


 彼が消えてから、何度目の季節だろうか。

 五度目の秋。五度目の冬が、またやってくる。


 魔王を斃し、王都に凱旋したあの日々は、何もかもがまばゆいほどに輝いて見えた。

 これからの未来は、光と希望で美しく彩られていくものだと、誰もが信じて疑わなかった。


 ──その輝きが、たった一瞬にして打ち砕かれるまでは。


 そう、あの日も。

 シンが消えた、あの日も、こんな曇り空だった。



 朝から続く胸騒ぎに駆られ、王家の祭壇へ向かうと、そこには苦渋の表情を浮かべた父──第82代皇帝が、女神アンジェリーナのお告げに静かに耳を傾けていた。


 部屋の隅では、お母様が祈るように手を組んでいる。

 私が入ってきたことに気づくと、「おお……リラ、リラ」と縋るように私の体を抱きしめた。

 その肩は小さく震えている。


「何があったのですか、お父様」


 私の問いに、皇帝は深く俯き、答えてはくれない。

 代わりに答えたのは──人ならざるものだった。


 祭壇の上に、ふわりと光が集まり、女神アンジェリーナがその姿を現す。

 慈愛に満ちたその瞳が、まっすぐに私を見つめていた。


「ユーグリッド・ル・リアーラ。いえ、我が愛しの子リラ。落ち着いて聞きなさい」


 女神は静かにそう言うと、私の前に降り立った。

 その表情に、いつもの優しさはなかった。

 ただ、深い悲しみだけが、そこにあった。


「たった今、勇者シンは……彼が生まれた世界へと、旅立ちました」


 一瞬、彼女が何を言っているのか理解できなかった。

 目の前で荘厳な姿を見せる彼女──女神アンジェリーナも、魔王討伐の旅路においては、気安く冗談を交わすほどの仲だったのだ。


 だから、つい、いつもの癖で問い返してしまう。


「旅立つって……何を言ってるの、アンジュ」


 女神に対する不敬とも取れる言葉。

 しかしアンジェリーナは怒る素振りも見せず、ただ唇を固く引き結び、悲しみに満ちた瞳で私を見つめるだけだった。


 その沈黙が、胸を嫌な予感で満たしていく。

 心臓が、嫌な音を立てて鳴り始める。


「いつ……? シンは、いつになったら戻ってくるの?」


 問いかけに、彼女は静かに首を横に振った。


「彼はもう、戻っては来ません。自分の世界へ……還ったのです」


「嘘よ! だって、ここで一緒に暮らすって、そう約束したの!」


 それでも、彼女は何も答えず、ただただ、悲しげに首を振るばかりだった。


 希望の糸が、ぷつりと切れる音がした。

 ──いや、違う。切れたのではない。引きちぎられたのだ。


「……じゃあ、分かったわ。私を、彼の世界に送って!」


 それまで黙って成り行きを見つめていた父が、「リラ! 何を言うか!」と鋭く咎める。

 けれど、もう私の耳には届かない。


「この国には、妹のサーリアがいます。私がいなくても、きっと国を守ってくれるでしょう。

 だから、お願い、アンジュ! 私を彼のいる世界へ送って!」


 いつしか私は、子供のように泣きじゃくっていた。

 女神の足元にひざまずき、必死に思いの丈をぶつける。


 それでも、彼女の答えは変わらなかった。


「……できません。あなたを彼の世界へ送る、術も、理由も、私にはないのです」


「理由ならあるわ! 約束したの! これからずっと、一緒に生きていこうって! そう、約束したのよ!」


 私の叫びに、アンジェリーナは耐えきれないといったように目を伏せた。

 その頬を、一筋の涙が伝うのが見えた。


 ──女神が、泣いている。


 その涙を見て、悟ってしまった。

 これが冗談でも、悪い夢でもない。紛れもない現実なのだと。


 全身から力が抜け、私はその場にうずくまる。

 あとはもう、嗚咽を漏らして泣き続けることしかできなかった。



 ──あれから、四度の春が過ぎた。


 今も、この胸の傷は癒えることなく、私を縛り続けている。


 スープの湯気が、ゆらりと立ち上る。

 その向こうに見える曇り空が、あの日と同じ色をしていた。


 マーシャが、心配そうに私を見つめている。


「聖女様……? どうかなさいましたか?」


 ああ、また。

 また、あの日のことを思い出してしまった。


 私は首を横に振り、努めて笑顔を作った。


「いいえ、何でもないわ。ただ、少し……昔のことを思い出していただけ」


 そう言って、スープに口をつける。


 温かい。

 でも、どこか遠くに感じる。


 五年前のあの日から、すべてが──少しずつ、遠ざかっていく。

 彼の声も、笑顔も、温もりも。


 忘れたくないのに。忘れてはいけないのに。

 記憶は、少しずつ色褪せていく。


 ──それが何よりも、怖かった。



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