第五十一話 勇者シン
目の前に立ちはだかるのは、異形の化け物たち。
その奥で、狂気に満ちた笑みを浮かべる男——ベンチャー企業の新進気鋭社長、穴臼。
いや、今やその仮面は剥がれ落ちている。
奴の正体は、魔王の配下。
そして、奴の言葉を借りるなら——これは「勇者を狩るゲーム」だという。
——勇者。
ここ数日、何度もその名で呼ばれてきた。
勇者シン。
十五年前、異世界に召喚され、仲間と共に魔王を討ち、世界を救った男。
聖剣を手に、魔獣をなぎ倒し、仲間を信じ、幾多の苦難を越えていった——ただ、世界を救うために。
……そんなの、俺じゃない。
勢いで「戦う!」なんて言ったけど、実際は足が鉛みたいに重くて、一歩も動けない。
胸の奥で、冷たい現実がじわじわと広がっていく。
「……シン?」
隣で、キリが俺のかつての名を呼んだ。
「あ、はい」
間の抜けた返事をすると、キリは訝しげに一瞥をくれ、すぐに前を向いた。
「あの新人勇者が進む道を、俺たちで切り拓くぞ」
そう言って、もう一度だけ俺を見た。
覚悟を問うような、鋭く静かな視線だった。
視線の先では、ルーリが剣閃を閃かせ、アナウスへと肉薄していく。
彼女の横では九頭竜さんが無骨な剣を構え、共に突き進んでいた。
「そっちじゃない、右ッ!」
未来視を使うサキコちゃんの声が響く。
和泉さんが両手を突き出し、光の障壁で二人を援護した。
さらにその二人を守るように、シュシュとガースが前線を張り、敵の猛攻を受け止めている。
——そして、俺は。
ただ、立ち尽くしていた。
何もできず、皆の死闘を見ているだけの傍観者。
世界を救う? 冗談じゃない。
俺を「役立たず」と笑い、のけ者にしてきたこの世界。
毎日をやり過ごすだけで、誰も救ってくれなかった世界。
今さら、そんな世界のために命を懸けるなんて、冗談じゃない。
いや——違う。
俺を笑い、見下し、切り捨てたこの世界なんて、いっそ……壊れてしまえばいい。
胸の奥で、黒い感情が静かに渦を巻いた。
その時、横に立つキリが、ふと俺を見た。
まるで、心の底まで見透かすような目だった。
やがて、フッと息を吐き、前を向く。
「背中は任せた。先に行くぞ」
その言葉と同時に、キリは駆け出した。
変異グールを一刀のもとに斬り伏せ、前線へと消えていく。
呆然と立つ俺の肩に、そっと手が触れる。
振り向けば——リラの肩を借りながら、アンジュが立っていた。
「ここで応援してましょ。みんななら、きっとやってくれるわ」
アンジュは、俺の肩にそっと腕を回した。
その声は、どこか震えているように聞こえた。
▽▽▽
戦況は——勇者たちが、確かに押していた。
伝説の勇者パーティが、変異グールを次々となぎ倒していく。
今はルーリと九頭竜さんが、アナウスを追い詰めていた。
だが、奴の背から伸びる無数の黒い触手が、二人の猛攻をことごとく捌き取っていく。
腕も肩も、血に濡れているのが遠目にも分かった。
「そこ、右に避けて!」
サキコちゃんの絶叫と同時に、ルーリと九頭竜さんが横に跳んだ。
コンマ数秒前まで二人がいた場所に、大理石の床を抉るほど鋭い触手が突き刺さる。
ルーリは即座に体勢を立て直し、ルーガライガを振るう。
だが、その刃すら別の触手に阻まれた。
「ハッハーッ! 人間の“星読み”ごときが、私の未来視に敵うとでも思ってるのか!」
アナウスの触手が、今度はサキコちゃん本人を狙って殺到した。
標的変更——完全に不意を突かれ、誰も動けない。
そこへ、飛び込む影がひとつ。
「させるかッ!」
キリだった。
剣が触手をいなし、サキコちゃんの前に壁を作る。
「シュシュ! もう一発、ぶち込んでやれ!」
キリの声に、シュシュが詠唱を開始する。
「いくわよッ!」
大気が震え、光が収束していく。
——アストラル・ノヴァ!
天井に太陽のような光球が現れ、灼熱の閃光がアナウスを照らす。
「面倒ですねぇ」
アナウスは不快そうに呟き、床に転がる死骸を触手で絡め取った。
そして、それを閃光の中心へと放り投げる。
「この大技、触媒を吸収すれば無力化できる……でしたよね?」
歪んだ笑み。
「チッ!」
シュシュは咄嗟に詠唱を止め、光を霧散させた。
その一瞬の隙を突かれ、ルーリと九頭竜さんが吹き飛ばされる。
壁に叩きつけられ、二人のうめき声が響いた。
アンジュの手が、俺の肩を強く掴む。
「やっかいね、あいつの先読み。このままじゃジリ貧だわ……」
アンジュがぽつりと呟く。その目は祈るように戦況を見つめていた。
壁のくぼみから、ルーリが体を引きずり出した。
血に濡れた体で、剣を杖のように突き立てる。
それでも、瞳は決して揺れなかった。
口の端を吊り上げて、不敵に笑う。
——なぜ戦う?
この世界は、君の世界じゃないはずだ。
滅びようが、人が死のうが……関係ないはずだろう?
不意に、ファミレスでのあの言葉がよみがえる。
『誰もいなくなっても、たった一人になっても、私は戦います』
——この世界を救いたいから。
サキコちゃんの声が、重なる。
『勇者だから世界を救うんじゃない。世界を救いたいって気持ちが勇者なんだと思う』
ルーリが再び飛び出し、触手が彼女を弾き飛ばす。
九頭竜さんが身を挺して受け止め、ガースが仁王立ちで追撃を弾いた。
アンジュが教えてくれた——青臭い理想を掲げた勇者シンの言葉。
『この世界を……誰もが笑って暮らせる場所にしたい』
そして、決戦の前夜。
彼はこう言ったという。
『仲間ができた。守るべき使命ができた……ありがとう』
——結果じゃない。資格でもない。
どれだけ弱くても、叶わなくても。
その“想い”こそが、勇者の証だ。
ルーリが再び立ち上がり、前へ進む。
無数の触手が迫り、九頭竜さんが切り払い、和泉さんが障壁で受け止める。
——戦う意思。
ゴクリと、喉が鳴った。
ドクン、ドクンと、心臓がうるさく胸を打つ。
体の奥から、熱が噴き上がる。
燃えるような衝動が、血を、骨を、魂を震わせた。
「……シン?」
アンジュが息を呑む。
リラも、静かに俺を見つめている。
言葉が、自然に口からこぼれ落ちた。
「ルーリが戦ってる。九頭竜さんも、和泉さんも。サキコちゃんも必死に。
……ガースも、キリも、シュシュも。リラだって、ずっと戦ってくれてる」
その名を、一つひとつ噛みしめるように呼ぶ。
そして、最後にリラを見つめた。
彼女は——昔と同じ微笑みで、頷いた。
「キリ! 刀を返すぜ!」
俺は叫びながら、手にした双剣の一本をキリへと投げ返す。
キリは変異グールを斬り捨てながら、それを受け取り、ニヤリと笑った。
「お前はいつも、来るのが遅いんだよ!」
——その言葉が、最高の合図だった。
俺は呼んだ。
いや、心の底から、魂の全てを込めて叫んだ。
「来たれ、我が相棒」
——マグナフォルテ!!
体中の血液が沸騰し、右腕に集束していくような灼熱感。迸る光が、その腕から溢れ出す。
ズン、と右手に伝わる確かな重み。
ひどく懐かしい、俺の半身とも言えるこの感覚。
俺は、ゆっくりと右手を掲げる。
そこには——燃え盛る炎をまとった聖剣。
振り返り、アンジュとリラを真っ直ぐに見つめる。
「行ってくる」
「ああ、頼んだ」
アンジュの頷き。
そして、リラが微笑んで——
「行ってらっしゃい、シン」
懐かしい声が、心の奥に火を灯した。
俺は右足に力を込め、仲間たちが待つ戦場のど真ん中へ駆け出した。
——今度こそ、迷わない。




