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第四十八話 おわりのはじまり


「アンジュッ! アンジェリーナ!!!」


 俺にかぶさるように、彼女が倒れ込む。

 その肩から胸にかけて、血に濡れた黒い触手が無機質に突き出ていた。


 そこから噴き出した真っ赤な血が、俺の頬を熱く濡らす。


「……アハハ。ちょっと、ドジった、かな……」


 彼女は弱々しくも、いつものように笑ってみせた。

 だが次の瞬間、ごほっと激しく咳き込み、唇の端から鮮血が溢れ出す。


「……いいから、走りなさい。……さあ、早く……」


 その声に、俺はただ首を横に振ることしかできなかった。


「無理だ……。アンジュを置いてなんて、行けるわけない……」


 ふっと、彼女は力なく笑う。


「……私、言ったでしょ。死ぬまで、諦めるなって……」


 そして、俺の頬にそっと、冷たくなり始めた手を添えた。


「……ごめんね、シン」


 ——な、にが……?


「……私が……。私が、あなたを勇者になんてしなければ……」


「何言ってるんだ……! 今、そんなこと、どうでもいいだろ!」


 彼女は俺の言葉を遮るように、静かに首を振った。

 その金色の髪が、俺の頬をかすめる。


「……ずっと、謝りたかった。あなたの人生を……メチャクチャにしちゃったこと……」


「でもね……シンは、言ってくれた。あの決戦前の夜に。

 “仲間ができた。守るべき使命ができた。ありがとう”って……」


 彼女は荒い息を繰り返しながら、必死に言葉を紡ぐ。


「……ありがとうね、シン。たくさん後悔したけど……

 あなたを勇者に選んだことだけは、一度も悔やんだりしてないわ……」


 そう言って、彼女はまた激しく咳き込んだ。

 肩から黒い触手がずるりと抜け落ち、再びそこから熱い血が噴き出す。


 彼女の温かい血が、俺の頬を伝っていった。


 アンジュは気を失ったのか、完全に脱力し、俺の腕の中でぐったりと倒れ込む。


 俺はその小さな体を、ただ抱きしめた。

 急速に、何かが奪われていくように——

 彼女の体温が、冷たくなっていくのを感じる。


「アンジュ……! アンジュ……!」


 俺は繰り返すことしかできなかった。


「おやおや。間違えて、女神の方を殺してしまいましたか」


 遠くで、穴臼が心底愉快そうに笑っていた。


「クソッ……! クソォッ!! 俺のせいで……俺のせいで彼女が……!」


 俺には何もできない。

 誰か! 誰か、アンジュを……!


 必死に周囲に助けを求めた。

 だが、仲間たちは皆、床に倒れ、ピクリとも動かない。


 ソニアを探す。

 彼女はすぐ近くで、うつ伏せに倒れていた。


「ソニア! アンジュを助けてくれ! このままじゃ……!」


 叫んでも、叫んでも、彼女が顔を上げることはなかった。


 ダメだ。

 俺が——俺が無力なせいで、アンジュが死んでしまう……!


 冷たくなっていく彼女を、俺はただ強く、強く抱きしめた。


 何が勇者だ。

 俺は、ただの無力な男じゃないか。


 その時だった。


 彼女が言っていた言葉が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。

 決戦前の、あの夜の光景が鮮やかに蘇る。


 ——『仲間がいる。守るべき世界がある』


 俺の、仲間……。


 そうだ。かけがえのない、俺の仲間たち。


 記憶の奥の奥で、頼もしいあいつらの顔が次々と浮かんでくる。

 命を預け合い、幾度もの死線を共に越えてきた。

 助け、助けられ、心の底から信じ合っていた。


 その笑顔が浮かんでくる。


「……助けてくれ……! アンジュを……アンジェリーナを!!」


 俺は叫んでいた。


「リラッ! アンジュを、助けてやってくれ……!」


 その名前を。

 俺の、かけがえのない仲間。


 あらゆる傷を癒し、何度も俺たちを死の淵から救ってくれた、

 あの聖女の名を。


「リラ! 頼むっ……!」


「……やっと。……やっと、呼んでくれましたね」


 その声は、水面を渡る風のように、清らかで澄み切っていた。


 目の前の空間に、青い光がぽつりと灯る。

 それは床へと広がり、美しい青の魔法陣を描き出した。


 溢れ出す光。


 その中心に——

 純白の衣をまとった一人の女性が、長い銀髪を靡かせながら現れる。


 両手を胸の前で祈るように組み、静かに目を閉じていた。

 やがて、彼女はゆっくりと目を開け、俺を見つめる。


 どこまでも青く澄んだ、その瞳で。


「……シン」


 まるで愛おしい宝物を見つめるかのように目を細め、

 彼女は俺の名を呟いた。


 そして、一歩、また一歩と近づき——

 俺と、腕の中のアンジュの前で静かに膝をつく。


「……大丈夫。あなたはもう、一人じゃありません」


 彼女はアンジュにそっと手をかざした。


 そして、凛として、優しい声で呟く。


「エクストラ・ヒール」


 その手の周りに、無数の金色の粒子が生まれた。

 それが魚の群れのように泳ぎながら集まり、一筋の光の流れとなって、

 アンジュの傷口へと注がれていく。


 見る見るうちに、抉られた肩の傷が塞がり、

 元の美しい素肌へと戻っていった。


 俺はただ、アンジュと彼女の顔を、呆然と見比べていた。


 すっかり傷が消えたのを確認すると、彼女は俺に視線を向けて微笑んだ。


「……シン。あなたは、いつも助けを呼ぶのが、ちょっとだけ遅いんですよ」


 そして、本当に嬉しそうに、にこりと笑う。


「今度は、もっと早く呼んでくださいね。……シン」



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