第三十九話 逃走
俺はいつしか、まるで子供に戻ってしまったかのように、声を上げて泣いていた。
誰もいないかのような静寂。
けれど、隣に座る彼女の視線だけが、針のように突き刺さる。
体の感覚がすべて凍りついたみたいで、指一本動かせなかった。
……逃げる。
その言葉の甘い響きと、同時に押し寄せる罪悪感が、胸の奥でぐしゃぐしゃに絡み合う。
心臓が早鐘のように打った。
「……でも、女神チャンネルに映ってるんですよね。俺……」
やっと絞り出した声は、自分でも驚くほどか細かった。
そんな俺を、アンジュは呆れたように見つめる。
「大丈夫よ。どうせ私のフィルターを通して配信してるんだもの。あなたの姿なんて、後からどうとでも修正できるわ」
彼女はひらひらと手を振って続けた。
「それに、そんなことより命の方が大事でしょ。死んでしまえば、何もかも終わり。……生きてさえいれば、何とかなるものよ」
そう言って、彼女は本当に優しく微笑んだ。
——分かってた。最初から、答えなんて。
「逃げるべき……、なんでしょうね」
俯いたまま、自分に言い聞かせるようにもう一度口にする。
「……逃げます。俺には、何もできないんだから」
そう告げると、アンジュは少しだけ悲しそうに、だけど心の底から安心したように、ふっと笑った。
「……うん。そうしなさい」
彼女は静かに頷いた。
迷いはない。
冷静に考えれば、これが一番合理的で正しい選択だ。
俺はもう勇者シンじゃない。ただの、山川新次郎だ。
仲間とか、世界とか——そんな大層なものに縋る資格なんて、ない。
それを通せば、待っているのは死のみだ。
分かってた。俺は現実を知っている、ただの社会人なんだ。
ハンドルに手を置き、アクセルに足を乗せる。
頭がぼんやりして、視界の端が滲んだ。
まるで、隣のアンジュまで消えてしまったかのような、奇妙な静けさ。
ゆっくりとハンドルを回し、Uターンを切ろうとした——その時。
耳元のインカムから、ノイズが走った。
『……シン様? シン様、聞こえますか?』
俺はどうしていいか分からず、思わずアンジュを見た。
彼女は静かに首を横に振り、「……出ちゃダメ」と唇の動きだけで告げた。
『シン様ー? あれー? これ、繋がってないのかなぁ?』
無邪気なルーリの声。
俺はぐっと唇を噛んだ。
インカムの向こうでは、仲間たちの笑い声が混ざっている。
『シン様って何だよ、ヤマさんだろ』と、茶化すような九頭竜さん。
『あ、その呼び方、私も気になってました』と、和泉さん。
『んー、なんか電波が届いてないのかも?』サキコちゃんが答える。
『シン様! 聞こえてますかーっ!?』
ルーリが、何度も、何度も俺を呼ぶ。
俺は思わず、耳元のインカムに指先で触れてしまった。
隣でアンジュが、深いため息をつくのが見えた。
『あ、繋がった!? シン様?』
「……はい。聞こえてます」
『あー、良かったー! なんだか電波の状況が悪くて、繋がりにくいみたいですね!』
「…………」
『シン様? 大丈夫ですか?』
「……はい。大丈夫、です」
『えっとですね! 今、こちらは突入地点に到着しました! あとは、シン様のタイミングで突入をお願いします!』
応えようとしても、言葉が出ない。
隣では、アンジュが顔を覆って黙り込んでいる。
『シン様? 聞こえてますか?』
「……ごめんなさい」
『……はい? 少し電波が悪いようで……。すみません、もう一度、お願いします』
俺は、目の前のハンドルに、拳を叩きつけた。
「ごめんなさい! 俺は行けない! ずっと練習したんだ! だけど、もう剣も出ないんだ! そんな俺が行けば、足手まといになるだけだ! すぐに殺される!」
『え……』
「だから、ごめん……! 俺は逃げる! みんなと一緒には戦えない……!」
叫び終えても、インカムからは何の音も返ってこなかった。
次に聞こえてくるのは、きっと罵声だろう。
失望、怒り、拒絶。
そのすべてを受け止める覚悟は——もう、できていた。。
『……そっか』
それは、ルーリの小さな呟きだった。
『うん。分かりました。……残念、だけど。仕方ない、です』
一瞬の沈黙。
インカムの向こうで、彼女が何かを飲み込むような息遣いが聞こえた。
『シン様は、もともとパーティメンバーじゃなかったですもんね。この前も、飛び入りで助けてくれただけ。……うん、仕方ない!』
「……ルーリ……」
『大丈夫です! 私たちだけでやってみます! ……また、帰ったらちゃんと報告しますから!』
いつもの彼女だ。はつらつとした、元気な声。
『山川さん』と、九頭竜さんの低い声が続く。『色々迷惑かけたな。……後は俺たちに任せてくれ』
『私も! 背中を押してくれてありがとうございました! またみんなでお茶してくださいね!』
『あー! その時、私も絶対行きますから! じゃ、ヤマさん、帰り道、気を付けてくださいね!』
和泉さんとサキコちゃんが、笑いながら言う。
『じゃあ、シン様!』
最後に、ルーリのどこまでもまっすぐな声が響いた。
『私たちの勝利報告、楽しみに待っていてくださいね!』
——プツリ。
通信が切れた。
俺はハンドルに頭を打ちつけた。
情けない。
恥ずかしい。
悔しい。
そんな感情がぐちゃぐちゃになって溢れ出してくる。喉の奥から、嗚咽が込み上げた。
隣でアンジュが、何かを言おうと口を開きかけたのが見えた。だが、彼女は結局何も言わず、ただ静かに俺の肩に手を置いた。
その優しさが、余計に胸を締め付ける。




