第三十二話 戦友へ
その日は、朝から冷たい雨が降っていた。
俺は会社の薄暗い在庫置き場にこもり、契約切れで回収された製品のリストアップを、ぼんやりとした頭でこなしていた。
昨夜、あのファミレスで起きた出来事が、頭から離れない。
配膳ロボットを乗っ取り、突如として現れた“魔王”。
気を抜くと、奴の最後の問いが頭の中をぐるぐると回り始める。
──今、何を目的に生きている?
俺は、頭を強く振り、意識を目の前のバインダーへと戻した。
「山川さん! 山川さん、います!?」
突然、扉が勢いよく開き、同僚の加藤さんが大声で俺を呼んだ。
「は、はい! いますけど」
「良かったー!」
彼女はずかずかと入ってくるなり、早口でまくしたてる。
「いま高坂君から連絡があったの! 彼、部長のコネで契約した“大外商事”に行ってるんだけど、社内LANがダウンして、うちが納品した複合機が動かないんだって! もう、彼パニックで! 今すぐヘルプに行って!」
「俺が行っても、意味なくないですか? メーカーの保守に連絡を……」
「もうしてるわよ! でも、回線が混んでて、すぐには来れないって! とにかく、頭を下げる要員でいいから、早く行って!」
俺の言葉にイラついたのか、加藤さんはヒールで床をバンバンと踏み鳴らす。
「……分かりました。では、加藤さんもご一緒にお願いします。頭を下げる要員は、多い方がいいでしょう?」
一瞬、鬼のような形相で睨まれたが、やがて盛大なため息をつき、「……分かったわよ! すぐ準備して!」と吐き捨てて部屋を飛び出していった。
大外商事は、会社から車で三十分ほどの場所にある。
厳重な入館手続きを済ませ、俺と加藤さんは目的のコピー室へと向かった。
ドアを開ける前から、甲高い女性の声と、高坂君の泣きそうな謝罪の声が聞こえてくる。
俺はドアを開けるなり、腰を直角に折った。
サラリーマン生活で培った、必殺スキル──“有無を言わさぬ先行謝罪”の発動だ。
「この度は多大なるご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません!!」
そこには、半泣きの高坂君と、腕を組んで仁王立ちするキャリアウーマン風の女性がいた。
女性は一瞬俺を見て「あ……」と小さく声を漏らし、高坂君をひと睨みすると、「……すぐ戻りますので」と言い残して部屋を出ていった。
その立ち姿に、どこか見覚えがある気がしたが──。
「山川さーん!!」という情けない声に、その思考はかき消された。
▽▽▽
高坂君が泣きそうな声で状況を説明する。
どうやら社内LANの環境更新作業で、全部署の複合機のIPアドレスが吹き飛んだらしい。
しかも、原因不明の不具合も重なり、完全に沈黙状態だという。
「さっきの方、秘書課の人なんですけど……“一時間後の役員会議に資料が出せないじゃない!”ってカンカンで……」
「メーカーの保守は?」
「他社でもトラブル多発で、すぐには来れないそうです……」
──なるほどな。
それで、何の解決能力もないうちみたいな代理店に、怒りの矛先が来たってわけか。
その時、さっきのキャリアウーマン風の女性が、書類を手に戻ってきた。
顔を見た瞬間、俺はようやく思い出す。
そうだ。あの作戦会議の時、「月末は決算で……」と言っていた──藤堂さん!
気づいた時には遅く、思わず「あっ」と声が漏れる。
彼女も俺に気づき、気まずそうに小さく会釈すると、高坂君に書類の束を突きつけた。
「一時間後までに、これを三十部! 何とかしてください!」
「は、はぁ……そ、その……」
高坂君が詰まる。
今どき会議資料が紙ベースというのも珍しいが、そういう会社なのだろう。
書類はA4のカラー印刷。……これなら。
「恐れ入ります。データの入ったノートPCを、お借りすることは可能でしょうか」
俺が尋ねると、彼女は「それは社外秘なので……」と口ごもる。
「でしたら──」と、俺はビジネスバッグから、こんな時のために忍ばせておいた、未開封の新品USBメモリを取り出した。
「もしよければ、これにデータを一時的に移していただけませんか? 使用後は、そちらで破棄していただいて構いませんので」
USBを渡しながら、続ける。
「ここに代替プリンターをスタンドアロンで設置します。それで出力しましょう」
「そんなもの、どこにあるのよ!」という加藤さんの甲高い声に、俺は答えた。
「先日回収したプリンターが、まだ会社のバンに積んだままなんです」
──アンジュに、感謝だな。
あの日、彼女に帰社を邪魔され、無理やり連れ出されたおかげで、回収したプリンターは、営業車に残ったままだった。さっき、車に乗った時に、見かけて、そういえば、と思い出したのだ。
しかも、あのオンボロ営業車は普段俺しか乗らない。
──これも、女神の加護ってやつか。
「高坂君、一緒に搬入を手伝ってくれ! 加藤さんは、今すぐメーカーの保守担当に連絡! 『今すぐ手配しないと、うちの部長から正式にクレームを入れる』と、脅してください!」
俺はそう言うと、まだ涙目の高坂君の腕をつかみ、走り出した。
▽▽▽
全ての書類を印刷し、ファイルに綴じ終えたころ、きっかり四十分が経っていた。
藤堂さんが急ぎ足で部屋を出ようとし──一瞬、足を止める。
俺の前まで来ると、小さな声で呟いた。
「……ヤマさん。ごめんなさい」
そう言って、深く頭を下げ、出ていった。
彼女が何に対して謝ったのか。
もちろん、この印刷騒動だけじゃない。
──みんな、色々抱えて、戦ってるんだよな。
俺が、彼女の去っていったドアを、ぼんやりと見つめていると、高坂君と加藤さんが、にじり寄ってきた。
「……あの、山川さん。さっきの人、お知り合いなんですか?」
二人が、好奇と困惑が混ざったような目で、俺を見つめている。
俺は、静かに、こう答えた。
「……ああ。ちょっとした、戦友だよ」




