第二十六話 瓦解
部屋の空気が、一気に凍り付いたようだった。
いつも、屈託のない物言いと、そのやんちゃな振る舞いに、ついアンジュの存在を軽く見てしまいがちだった。
だが、やはりこの人は神なのだ。その力は、優しさも残酷さも、等しく併せ持っている。
彼女の機嫌を損ねれば、俺など塵芥のごとく消し飛ばされるだろう。
——今まで殺されずに済んだ幸運を噛み締め、感謝し、敬おう。
「シン。水、お代わり」
「ありません。後で買うから、今は我慢してください」
チェッ、と舌打ちするアンジュ。
——感謝できねー
先の言葉に金縛りにでも遭ったかのように固まっていた鏡室長が、我に返り、一枚の書類をこちらへ差し出した。
書類には、住所と「オークランドベル株式会社」という社名、そしてその会社の取引実績らしき文字列が並んでいた。
「……これは?」
俺の質問には、後藤が答えた。
「我々が予測する、次の接敵候補地です」
そう言って、彼はにこりと微笑む。「我々も、魔王の存在に迫るべく、努力はしているのですよ。ね、室長」と鏡室長に視線を送るが、彼女は完全に無視を決め込んでいる。
「この会社……たしか、新興のITベンチャーじゃありませんでしたか?」
以前、会社の経済新聞で見た記憶がある。
「ええ、よくご存じで。山川さんのおっしゃる通りですが、どうにもその背景が、おぼろげでして」
「おぼろげ、ですか。ずいぶん、もやっとした言い方ですね」
「いえ、文字通り『ぼんやり』するのです。登記簿や決算報告書は完璧で、優良なベンチャー企業という印象しかない。しかし、その事業内容を具体的に調べようとすると、まるで『これ以上近づくな』と言わんばかりに、こちらの思考が『ぼんやり』としてくるのです」
——それは、どう考えてもおかしい。
「こちらが、その『ぼんやり』と戦いながらも、何とか集めた資料です。これを勇者様にお渡しください。実行プランが固まりましたら、ご連絡いただけると助かります」
「後藤さんが、直接渡せばいいじゃないですか」
「それは、少々……」
そう言って、後藤は鏡室長にちらりと視線を向けた。彼女は相変わらず、素知らぬ顔で別の資料に目を落としている。
一方、アンジュは空になったペットボトルを、ペコペコと鳴らして遊んでいた。
「……分かりました。責任をもって、渡しておきます。ただ、それを見てどう判断するかは、勇者様次第ですので、ご了承ください」
「ええ、重々承知しております」と、後藤は安堵の笑顔を浮かべた。
その時だった。
資料から目を上げた鏡室長が、何でもないことのように、そっけなく言った。
「言い忘れていましたが、今後、『求道家連盟』と『神明国教会連盟』は、勇者パーティの活動に一切協力しない、と先ほど連絡がありましたので」
——は?
「……ちょっと待ってください。それ、どういう意味ですか」
「意味などありません。ただの事実です。ですから、実質、勇者パーティの戦力は、勇者本人と、バイト枠の数名……そして、新参のあなた達だけ、ということになるのかしら?」
そう言って、鏡室長は、心底楽しそうに、いやらしい笑みを浮かべた。
「……どうして、そんな急に……」
これでは、今まで必死に頑張ってきた、ルーリの努力が水の泡ではないか。
「あなたの存在、でしょうね」
鏡室長が、ぼそりと呟いた。
——俺の!?
後藤が、後を引き継ぐように説明を始めた。
「もともと、『求道家連盟』と『神明国教会連盟』は、勇者パーティ内での主導権を争っていました。……まあ、それが攻略の足を引っ張っていた要因の一つでもあるのですが」
彼は、一口水を飲み、喉を潤してから続けた。
「そこへ先日、彗星のごとく現れた新戦力。……あなたです、山川さん。その規格外の戦力に、自分たちの主導権が奪われると感じたのでしょう。『このまま戦果を挙げられても、良いように利用されるだけだ』、一方、『万が一、壊滅すれば、非難を免れない』。……ならば、今のうちに手を引こう。そんなところでしょうね」
「そんな……! 魔王との戦いを、政争の具にしてるってことですか!? 主権争いだなんて……!」
愕然とする俺を、鏡室長は、心底楽しそうに見ている。
——なんで、あんたは、そんなに嬉しそうなんだ!
「魔王より、怖いものがあったようね。……まあ、その件も含めて、今後どうするのか、勇者たちとじっくり話し合った上で、また連絡をちょうだい。この後藤の方に」
こちらへ、と後藤が名刺を差し出してくる。
俺は、思わずポケットから自分の名刺入れを取り出し、勤め先である「立川商事」の名刺を渡して、深々と頭を下げそうになるのを、必死でこらえた。
「……あの、大丈夫ですか?」
後藤が、俺の動揺を察して声をかけてくるが、俺は何も言えず、返事ができなかった。
その隙に、アンジュが口を挟む。
「委細承知したわ! じゃあ、撤収しましょうか、シン!」
そう言って、彼女はすっくと席を立つ。
「それとさー、これからは、ちゃんとアポを取ってからにしてちょうだいね! こっちも、色々と忙しいんだから!」
アンジュは、わざとらしく肩を揉み、首をコキコキと鳴らした。
「……まあ、もう会うこともないかもしれないけど」
「ええ。こちらこそ、あなたのような無礼な輩と、二度と顔を合わせずに済むことを祈っているわ」
「祈るって? 誰に?」
「さあ……。魔王、かしらね」
「「ワハハハハハハ!」」
けたたましい笑い声が、部屋に響く。
だが、二人の目は、全く笑っていなかった。
「それではごきげんよう、さようなら! ゲロッパ!!」
アンジュは、最後にそう大声で叫ぶと、颯爽と部屋を出ていった。
——最後の最後まで、カエル語かよ!!




