第二十三話 指パッチン
車の車種は分からないが、車内は広々としていた。柔らかな革張りのシートに身を沈めると、微かに高級な香水の匂いがする。
アンジュは、長い脚をゆったりと組んで、ふんぞり返るようにシートに深く座っていた。
「道が混んでいて申し訳ありません。窮屈ではありませんか?」
助手席に座った後藤が、こちらを振り返って尋ねる。
──この車で窮屈だったら、もうどんな車にも乗れないよね。
「ええ、窮屈だわ。それに、退屈。ねぇ、音楽でも流してちょうだい!」
──アンジュさん!
俺の心の叫びも虚しく、運転手が慌ててラジオに手を伸ばす。
しかし、そんな運転手を制するように、後藤は完璧な笑顔で言った。
「大丈夫です。これから私が、皆様を飽きさせない、楽しい会話で盛り上げますので」
「あら! どんなお話かしら? 期待しちゃうわね!」
この二人、高度な心理戦を繰り広げているのか、それとも、ただの条件反射で会話しているだけなのか。
正直、俺としては後者に一票だ。
「確か、ソニア様とは現在ご同居されているとか。もしよろしければ、当方で一流ホテルのスイートルームを押さえますが、いかがです?」
アンジュが、なぜか俺を指さす。
「いや、俺じゃないでしょ!」
慌てて首を振ると、アンジュは「あら、私?」と今度は自分を指さした。
──「ソニア様と同居」って言ってるんだから、あんたに決まってるだろ!
「そうねぇ……。悪くはないかもだけど、なくもないかもなくない、かしらね」
──どっちだよ!
「一流ホテルなんて興味ないわ。あー見えて、ソニアのご飯は美味しいのよ」
そう言って、アンジュは親指をぐっと立て、ニッと笑った。
「ほう……。それは、意外な情報でした」
後藤は、感心したように頷くと、手帳を取り出して何かをメモし始めた。
アンジュさん、ソニアさんにご飯作らせてるんだ……。
俺はただただ感心する。というか、女神が作るご飯って、一体どんな味がするんだろう?
「……ていうか、普通、居候の方が作るもんじゃないんですか?」
俺が素朴な疑問を口にすると、アンジュはニヤリと笑い、「なによ。あたしの手料理が食べたいわけ?」と、俺の肩を人差し指でツンツンとつついた。
「いやいや、それは非常に興味がありますね。是非!」
助手席から、後藤がぐいっと身を乗り出してくる。
──おい! お前の言う「楽しい会話」って、これかよ!
「そうねぇ……じゃあ、芋焼酎をロックで!」
アンジュが、なぜか得意げに胸を張った。
──それ、もう料理ですらねぇよ。
「かしこまりました」
後藤は、胸に手を当て、執事のように恭しくお辞儀をした。
この、どこにも着地点のない「楽しい会話」を繰り広げているうちに、車は静かに大きなビルの地下駐車場へと滑り込んでいった。
車を降りた俺たちは、後藤に案内されるままエレベーターに乗り、三十二階へ。両側を無機質な壁に覆われた長い通路を通り、一番奥の部屋に通された。
二十人は入れそうな広い会議室。
中央には大きなテーブルと、それを挟んで五脚ずつの椅子が置かれている。
せっかくの高層階だというのに、その部屋には窓が一つもなかった。
ただ、部屋の四隅で、監視カメラのレンズが、こちらを無機質に睨んでいるだけだった。
「殺風景な部屋ね」と、アンジュが呟く。
「すみません。色気も何もなくて」
後藤が笑いながら言うと、「色気はいらないけど、安らぎが欲しいわ」とアンジュは返した。
──会議室に安らぎを求めるなよ。
そのわがままっぷりが、実に彼女らしい。
「何かお飲み物でも」と後藤が言った瞬間、アンジュが「じゃあ、芋……」と言いかけたので、俺はすかさず「水で結構です」と遮った。
フン! とアンジュが鼻を鳴らし、椅子にどっかりと腰掛けて足を組む。
「では、上席を呼んでまいります」
後藤が部屋を出ると、入れ替わるようにスーツ姿の女性が、ペットボトルの水とグラスを二つずつ、お盆に乗せて入ってきた。
……後藤の指示を受けてから用意したとは、到底思えない早さだ。
女性は、俺たちの前に水とグラスを置くと、無言で頭を下げて出ていこうとする。
「あの、すみません」
俺の声に、女性は、「なんでしょう」と冷たい視線を向けてきた。
ついこの間までの俺なら、こんな美人に睨まれたら、どぎまぎして何も言えなくなっていただろう。
だが、綺麗とかいう次元を超えた女神たちに振り回され続けたせいか、今や、何も感じない自分に驚く。
「そこのカメラですが、切っていただけませんか。俺たちは、後藤さんにお願いされて、『しぶしぶ』ここへ来たので」
俺の言葉に、彼女は、呆れと憐れみが混ざったような目で、じっとこちらを見ている。
「申し訳ありません。防犯上の理由で……」
「それは、そちらの事情ですよね。さっきも言いましたが、俺たちは『しぶしぶ』来ているんです」
「申し訳ありませんが、構造上、この部屋のカメラだけを切ることはできませんので」
彼女の目は、完全に厄介なクレーマーを見るそれに変わり、しかも、どこか俺を小馬鹿にしたような嘲笑すら浮かんでいた。
その時だった。
「じゃ、代わりに私が切ってあげるね」
アンジュが、パチン、と優雅に指を鳴らした。
すると、部屋の四隅のカメラから、バチッ! という乾いた音がして、白い煙が上がった。 それだけではない。俺たちの頭上にあった、小さなスプリンクラーのような突起からも、次々と火花が散った。
「あと、念のため、この建物の記録チップとサーバー、ついでにクラウド上のバックアップデータも、私たちの部分だけ綺麗にデリートしといてあげたわよ」
アンジュは、こてんと首を傾げ、悪戯っぽく微笑む。
「お礼はいいから。早く、後藤ちゃんと、その『上席ちゃん』を呼んできてちょうだい」
彼女はそう言うと、ペットボトルのキャップを、ポンッ!と小気味良い音を立てて開けた。




