第二百十三話 ふたたび彼方
徐々に空が白み始める。
ひんやりとした朝霧が、足元から音もなく辺りを包み込んでいった。
視界が真っ白に染まり、やがて光が引く。
ちゃぷり、と。
スニーカーの下で、微かな水音が響いた。
「げっ、なにここ! 水浸しじゃん!」
隣で町田が素頓狂な声を上げた。
見渡す限り、一面に広がる青い水面。くるぶしほどの深さしかない静かな水鏡の向こうに、赤い布がたなびく鳥居が立っている。
俺がこの理不尽な世界へ放り込まれる直前に見た、あの境界だ。
「あれ? でも靴、全然濡れてないよー」
町田がバシャバシャと足踏みをしてはしゃぐ。水しぶきは上がらない。
ふと視線を上げると、鳥居の向こうに人影が佇んでいた。
「なに、あの爽やかなお兄さん?」
──お兄さん?
俺の目には、以前会った女性の姿に映っている。見る者によって、その姿を変えるらしい。
「……前に見た、この異界の神様だ」
「げっ! 神様!?」
町田は血相を変え、水面へ勢いよく正座をして両手を合わせた。
「ごめんなさいごめんなさい! あの時はまだ子供で、つい出来心で……」
神様の前に出ると途端に卑屈になる癖、なんとかならないのか。
俺は小さくため息をつき、手招きする『彼女』の前へ歩み出た。
「和魂の彼方、だったか」
『君がそう呼びたければ、私はそうなのだろうね』
曖昧な物言い。
きっとこの存在にとって、人間が付ける名前など記号でしかないのだろう。
その顔は、水面のように揺らいで定まらない。
精悍な男の顔つきになったかと思えば、あどけない少年へ。深い皺を刻んだ老婆になったかと思えば、絶世の美女へと万華鏡のように変貌していく。
やがて、以前会った時のたおやかな女性の顔でピタリと止まった。
『どうやら、あなたの抱く神のイメージは、ずいぶんと優しい母性のようですね』
神が、クスリと悪戯っぽく笑う。
「……やっぱマザコン」
背後で懺悔を終えた町田がボソリと呟いた。
──聞こえてるぞ、残念秘書。
『私に連なる者が、迷惑をかけたようね。あの子は、迷い子を見るとすぐに手を貸してしまうから』
──カルト村の村長を『あの子』扱いか。神のスケールは計り知れない。
『ずっと気にしていました。この境界で、良からぬ思いが横行していることを。ただ、我々は人の事は人に任せることにしているのです。……助かりました』
和魂は静かに微笑み、真っ直ぐに俺の目を見つめた。
『お礼として。もし望むのなら、私が統べる領域の隅に、あなたが支配する世界を作ることもできますよ。どうしますか?』
「それって、俺がその世界の神様になるってことか」
『ええ。ある意味、その通りです』
もし本当なら、とんでもない提案だ。
老いることも飢えることもなく、人間を泥人形のように作り変えられる。
好みの女だけを集めて、ハーレムを作ることだって自由自在。絶対的な権力者だ。
振り返ると、背後に立つ町田と目が合った。
俺の視線に気づいた町田は、なぜか両手で己の胸元を隠し、「エッチ! 見ないで!」と親の仇のように睨みつけてきた。
──こいつは俺をなんだと思ってるんだ。
ふと、考える。
俺が作った世界に、俺にとって都合のいい『町田』がいたら。
俺の言うことを素直に聞き。
文句一つ言わず。
決して俺を軽蔑しない町田。
……いや。
それはもう、町田じゃない。
ただの人形だ。
俺がくだらない妄想を振り払う間も。
和魂の彼方は、その底知れぬ瞳でじっと俺を観察していた。
『どうしますか?』
にっこり微笑み、小首を傾げる。
「ありがとう。でも帰るよ。俺がいたところに」
どう考えても、神様ごっこの方が楽に決まっている。
だが、これは俺が俺自身であるための矜持だ。
「やることがあるからな」
『あなたの世界から逃げてきたんじゃなくて?』
痛いところを突く真っ直ぐな問いに、俺は短く息を吐いた。
「……逃げてきたさ。だけど、逃げたまんまじゃ駄目なんだと思う」
ただ元の世界に戻って、また同じようにすり減るだけじゃ意味がない。
俺には、俺の意志でケリをつけなきゃいけないことがある。
『そうですか』
神の声が、ふわりと温かく響いた。
『ですが、門を開くことはできても、私だけでは肉体を持つあなた達を元の世界へ戻すには、少々力が足りませんでして……』
困ったように眉を下げる彼方。
と。不意に彼女は視線を遠くへ向けた。
『あら、あらあら』
目を丸くして、小さく声を上げる。
「どうした?」
『今、別の神から、あなたたちを帰すために力を貸したいと申し出がありました』
「別の神? さっき会った道祖神か?」
彼女はゆっくりと首を振る。
『いいえ、あちらの異界の神です。……あなた、ずいぶんと過保護にされているんですね』
俺をじっと見るその瞳の色が、一瞬だけ別人に変わった気がした。
そう。
見覚えのある、あの吸い込まれそうな青い瞳に。
『それでは健闘を祈りましょう……野良勇者さん』
彼女がクスリと笑う。
途端、俺たちの意識は真っ白に途絶えた。




