第二百十二話 迷い道
「おい、ムッシュ。本当にこの方向で合ってんだろうな?」
『私の計算に狂いはありません。このまま直線距離を進むのが最速の最適解ですー』
「直線って、お前……」
俺は深くため息をつき、目の前の壁を見上げた。
どう見ても道ではない。切り立った数十メートルの岩壁に、太い蔦がびっしりと絡みついている。ロッククライマーでもなければ登れないような、完全な絶壁だ。
『さあ山川さん、気合でよじ登りましょう! 電波のピークは真っ直ぐこの壁の向こうを指しています!』
「バカ言え。こんなもん登る前に死ぬわ」
「私も絶対ヤダ! 虫とかいそうだし!」
俺と町田の猛抗議に、ムッシュが言い返す。
『このままダラダラ歩いても時間が過ぎるばかりです。正直申しまして、私のバッテリーも心許ない。少々の痛みや犠牲は仕方ないことと割り切ってください』
黙殺しようとすると、ムッシュはピコンと電子音を鳴らした。
『そうだ! あの炎の剣でこの崖を一刀両断できないものですかね。物理現象を無視したあの大剣と、勇者というあなたの存在なら、一丁ありなのでは?』
言われてみて、少しだけ悩む。
その間にも、町田が「こんにゃろ、こんにゃろ」と、むき出しになった岩肌をスニーカーの先でてしてしと蹴り続けていた。
乾いた音が響き、頭上からパラパラと小石が落ちてくる。
「おい、やめろ」
俺は慌てて、岩肌を蹴り続ける町田の腕を引いた。
直後。
ちょうど蹴り上げていた辺りの岩肌が崩れ落ち、土埃が舞う。
抉れたような岩の奥から、古い祠が姿を現した。
膝の高さほどの、小さな丸い石像が転がっている。
苔むして顔の輪郭もよくわからない、寂れた道祖神だ。
「にゃにこりゃ! にゃにこりゃ!」
後ろへ下がった拍子に尻もちをついた町田が、バグった言葉で騒ぎだす。
極度に驚いた時に必ず起こる現象だ。
『ほっほ。からくり箱の言う通り、真っ直ぐ行けば一番近かろうて』
石像が喋った。
苔むした口は動いていない。だが、その表情を確かに感じる。
しわがれた老人のような声が、頭の中に直接響く。
「喋っちゃ! 何、こにょ石!」
「……この辺りの土地神か?」
『いかにも』
石像は愉快そうに笑った。
『じゃが若者よ。鳥や光ならいざ知らず、人の身で直線を往こうなどと傲慢が過ぎるわい』
『昔から道祖神とは、道そのものを守る神ではない。分かれ道で迷う人間を見守る神じゃ』
夜風が吹く。
苔むした石像は微動だにしない。
だがその声だけが、不思議と胸の奥へ染み込んでくる。
『どちらへ進むか。何を捨てるか。何を選ぶか、人は迷いの中でこそ己を知る。無駄な遠回りの中でしか育たぬ魂もある。一直線に転がるだけの人生など、崖から落ちていく石塊と変わらんよ』
──自分は崖に埋もれていたくせにな。
胸の内でこっそり毒づく。
『騙されてはいけません山川さん!』
ムッシュが即座に割り込んだ。
『立ち止まればその分、目的の達成は遅れます。落ち着いて考えてみてください。それに何の意味がありますか? そんな非論理的な不確定要素より、私の計算を信じるべきです!』
『ほっほ』
石像が笑う。
『余白を切り捨てるその理屈が、どれほどの人間を壊してきたことか』
『最短の道が、最良の道とは限らぬ。人はな。間違えた道で出会った誰かに救われることもあるのじゃ』
──余白を切り捨てる理屈。
数字と効率に追われていたかつての俺なら。
あるいは『勇者』の役割に縛られていた頃の俺なら、ムッシュに賛成していたかもしれない。
『からくり箱には「迷う」ことの価値がわからんようじゃのう』
『迷う価値などゼロです! 効率こそ正義! 山川さん! そんな石塊の言葉は無視して──』
小さな石像とからくり箱が、俺の足元でくだらないレスバを始める。
「ねえ、あんた神様の類なの?」
落ち着きを取り戻した町田が、ぺたんとしゃがんだまま石像ににじり寄る。
『神か……そう呼ばれた時もあったかの。今は見ての通りの、ただの石塊じゃて』
まるでその有様を楽しんでいるように、石像はクククと笑った。
「ねぇ、神様の力でこの崖を何とかしてくんない? 私たち向こうに急いで行かなきゃいけないの」
『ほぉ、おぬしら彼方に呼ばれておるのじゃな? 安心せよ。彼方は急いでおらんぞ』
こいつ、彼方のことを知っている。
「でもねー、ほら。この人四十近いから一秒でも無駄にできないのよねー。急いであげてほしーナ」
大変失礼な言いようだが、当たってはいる。
『そうじゃの』
石像はしみじみと呟いた。
『人の命は短い。神から見れば朝露ほどの時よ』
『じゃが短いからこそ尊い。誰かに決められた道ではなく、自分で選んだ道を歩く。それが人の生ではないかの』
「あーわかってないよなー、おじいちゃんは」
町田は呆れたように両手を上へ向けた。
『しかし、おぬしが他人を気遣う気持ちは好ましいのう。駄賃に飴ちゃんをやろう』
ぽふっ。
小さな音がして、町田がキャッと声を上げ、自分の掌を見つめた。
紙の両端がねじられた、昔ながらのキャンディ包みの飴玉が三つ乗っている。
「……ありがと」
町田がなぜか神妙に呟くと、石像は「よいよい」と笑って見せた。
石像から小さな光の玉がふわりと浮き出し、崖の右側へ続く獣道を促すように、点々と灯っていく。
『右の道を行け。少しばかり遠回りじゃが、歩きやすい安全な道じゃて』
光の瞬きが夜の闇を優しく照らす。まるで昔からそこにあった帰り道のように。
『もし迷ったのなら、もう一度最初に戻ってみるのもよい』
『人は道を間違える。じゃがな、間違えたからこそ見える景色もあるのじゃ』
『己が道を歩くことに、誰が文句を言うだろう。そう思わんか』
俺は迷わず、右の獣道へ歩き出した。
『山川さん! 時間がもったいない!』
ムッシュが叫ぶ。
「もったいないのは、ここに立ち止まってることだ。俺はこっちを歩く」
「オッサンの言う通りね。こんな崖登るより、遠回りでも安全な方が百倍マシだわ」
町田も足早に俺の後を追う。
俺は歩き出す直前、もう一度石像の前にしゃがみ込んだ。
ポケットから潰れかけた煙草を一本取り出し、火をつけずに石像の頭の上へポンと乗せる。
「助かったぜ、じいさん。おしゃべりAIよりよっぽど役に立つナビだったよ」
そう言い残し、俺たちは獣道を進み始めた。
歩きやすくなだらかな道だ。これなら膝への負担も少ない。
『……おい、人間よ』
不意に。背後から響いた声に、俺と町田はピタリと足を止めた。
先ほどまでのしわがれた老人の声ではない。重く、冷たく、世界そのものを震わせるような圧倒的な神威。
振り返る。
あの小さな石像が、天を衝くような巨大な光の柱となって夜の森を照らしていた。
森が揺れる。空気が震える。ただそこに存在するだけで、世界の法則そのものが跪いているようだった。
『その供物、確かに受け取った。久方ぶりに「人間」から供物を捧げられたわ』
言葉の一つ一つが、物理的な質量を持って鼓膜を打ち据える。
花魁の神を前にした時とは比較にならない。格が違う。存在の階梯そのものが違う。
やっくんが恐怖で完全に固まり、棒立ちしている。
「な……ッ!?」
町田が腰を抜かし、へたり込む。
俺も冷や汗が吹き出し、重力に押さえつけられたように一歩も動けない。
『我は【境界を拓く者】』
『道の始まりに在り。道の終わりに在り。全ての分岐を見届け、全ての次元の交差を司る大祖神なり』
光が脈動する。一瞬だけ、無数の世界と無数の道が、その背後に重なって見えた気がした。
『お前たちの行く末に、我が加護を与えよう』
光の柱がふっと収縮する。再び、ただの苔むした小さな丸い石像へと戻った。
『気をつけて往けよ、若者。……からくり箱よ、お前もな』
『……ッ!!』
プツン、と。
ムッシュの電源が強制的に落ちる音が響いた。
静寂が広がる。
夜の森には、ただ風の音だけが響いていた。
「…………」
「…………え?」
俺と町田は顔を見合わせた。
「え、ちょっと待って! 今の何!? なんか『全ての次元を管理する大祖神』とか言ってなかった!?」
「あ、ああ……」
「そんなラスボスみたいな存在を、あんたさっき『じいさん』呼ばわりして、タバコ一本お供えして頭ポンポンしたの!?」
「……悪気はなかった」
「ギャアアアアア! 絶対バチ当たる! ちょっと、戻ってもう少しマシなお供え物してこようよ! コンビニスイーツとかないの!?」
「あるわけねえだろ!」
パニックに陥り、俺の肩を前後に揺さぶって発狂する町田。
再起動すらできないムッシュを胸元に抱えたまま、俺は疲労で限界に近い頭を抱えた。
「だから、道端の神様には気をつけろって言ったろ……」
「言ってない! あんた一言も言ってない!」
町田は怒鳴った後、ぎゅっと握りしめていた右の掌をじっと見つめた。
「……ところで、この飴玉って賞味期限切れてるよね」
ぽつりと呟く。
帰還のゲートまでの道程は、想像以上に前途多難になりそうだった。




