第二百十話 境界の神
崩れた壁から外へ出ると、夜風が火照った身体を冷やしてくれた。
村の中央広場では、まだ篝火の残骸が燻っている。
神威という名の重圧から解放された村人たちが、ぽつぽつと家から這い出してきていた。
誰もが呆然としている。
ある者は泣き崩れ、ある者は自分の手を見つめながら震えていた。
「洗脳が解けたのかなー」
隣を歩く町田が、少しだけ安堵したような声を漏らす。
俺は立ち止まり、蠢く村人たちを冷めた目で見渡した。
「洗脳、か」
ポケットを探る。
最初の公園で逃走が始まって以来、ずっと突っ込んだままだった潰れかけの煙草とライターを取り出し、火をつけた。
一瞬、町田が「あー、まだ持ってたんだ」と責めるような声を出すが無視する。
深く吸い込み、紫煙を夜空へ吐き出した。
「本当に、村長一人の洗脳でこんな社会が出来上がると思うか?」
「え……?」
「あの村長は、ただの引き金に過ぎないと思うぞ」
俺は煙草の先で、共生棟の脇に広がる農場を指した。
広々とした畑には青々とした作物が実り、農場に沿うように立派な用水路まで整備されている。
澄んだ水が絶えず流れていた。
たぶん、あの泉から引いている水だろう。
本当にこの村が飢えていたのか。
今となっては疑わしい。
「この地は痩せていた。食料も足りなかった。そこに村長が『生贄』という解決策を差し出した」
村人たちの泣き声が、どこか空々しく鼓膜を叩く。
「問題は、その後だ」
煙を吐く。
「生きたい。でも、自分の手は汚したくない。だから『神の意志だ』ってことにした」
村人たちへ視線を向ける。
「全部村長に押し付けて、見ないふりをして、考えないふりをしてきたんだ」
「それって……」
「この村を狂わせたのは神の呪いじゃない」
俺は吐き捨てるように言った。
「ただの人間だよ」
静かな夜風が吹く。
「──俺たちと同じな」
町田は何も言わなかった。
静かな夜風だけが吹き抜ける。
「責任を負いたくない。波風を立てたくない。今の暮らしだけは失いたくない」
村人たちのすすり泣きが聞こえる。
「そういう弱さが積み重なった結果だ」
「私は違う!」
町田は泣き崩れる村人たちを睨みつけた。
両拳が小さく震えている。
「私はあいつらとは違う。誰かに全部丸投げして、見ないふりなんかしない……っ!」
痛みをこらえるように叫ぶ。
「そうありたいと思ってる! でしょ?」
自分自身に言い聞かせるような、ひどく切実な響きだった。
「そもそも現実世界から逃げてきた連中だ。自分に都合のいい理屈を探すのは得意なんだろうな」
──そういう俺たちも、逃げてきたクチだけどな。
胸の内で苦笑する。
被害者みたいな顔で泣き崩れる彼らは、俺がいた世界で責任から逃げ続けていた連中とどこか似ていた。
会社で保身に走っていた上司や同僚。
そして、かつての俺自身にも。
その中には、呆然と立ち尽くす岡田の息子の姿もあった。
「同情はしない」
俺は煙草を携帯灰皿へ押し込む。
「でも、これからは自分たちで背負うしかない」
踵を返す。背後では、巨大な八咫烏が静かに待っていた。
「行こう」
ここにはもう用はない。
「俺たちは俺たちの道を行く」
狂った社会の残骸を背に。俺は夜の闇へ歩き出した。
▽▽▽
「さっき、やっくんの背に乗って空を飛んだ時さ」
夜道を歩きながら俺は言った。
「あの森の向こうに、海に浮かぶ大鳥居が見えたんだ」
「海?」
「ま、海っていうか水辺か。ほら、俺が最初この世界に来た時、広大な水辺にいたって話したろ?」
「あー、それ。寝落ちして見た夢の話ね」
──だから夢じゃねぇって。
思わずツッコミそうになるのを堪え、わざとらしく咳払いする。
「そこに行けば、何かわかる気がするんだよ」
そう口にした直後だった。
ふわり。
白粉を思わせる甘い香りが鼻先をかすめる。
俺と町田は同時に足を止めた。
暗闇の中、足元から白い光が静かに湧き上がる。月光を束ねたような淡い輝きが地面を照らし出した。
光の中に姿はない。
だが、鼓膜ではなく、直接頭の中へ響くような声が聞こえた。
『長きに渡る人の穢れ。よくぞ祓ってくれやした』
艶やかで、どこか人をからかうような声。
『おかげで妾も、ようやく本来の眠りにつくことができそうさね』
「あんたが……ここの神様か」
問いかけると、声はくすくすと笑った。
『それはどうでしょう』
その一言だけなのに、言葉の奥から伝わってくる存在感は圧倒的だった。
やっくんはすでに地へ伏せ、頭を垂れている。
俺も自然と背筋を伸ばしていた。
『何か困ったことがあれば力になりましょう』
香りが少しだけ強くなる。
『道に迷う子供は嫌いじゃありんせんから』
その時。神様がふと夜空を見上げたような気配がした。
『おや?』
声色がわずかに変わる。
『妾が目覚め、荒魂が浄化されたことで……あなたたちをこの世界へ喚び出した"対"の存在から通信が届いたようさね』
「俺たちを呼んだ奴……?」
脳裏に浮かぶ。この理不尽な世界へ放り込まれる直前。精神世界で出会った、あの神の姿。
『あの御柱も、随分と探していたようでありんす』
神様は面白そうに笑った。
『帰り道の"ゲート"を開いて待っているから、そこまで来い……とのことさね』
思わず町田と顔を見合わせる。
帰り道。その言葉だけで胸の奥がざわついた。
『迎えに来ることは叶わないようですが』
白い光が揺れる。
『向こうもこちらへ干渉できる範囲は限られているようでありんす。妾のネットワークを経由して、座標だけは送ってきやした』
ほう、と。吐息のような余韻が空気に溶けた。
『あとは自分たちの足で歩きなんし』
ふっと香りが薄れる。
光も静かに消えていった。
今度こそ。気配は完全に夜の闇へ溶けていく。
後に残ったのは静寂だけだった。
「……道に迷う子供、だってさ」
隣を見ると、町田がニヤニヤしている。
「四十近いオッサン捕まえて子供扱いとか。神様ってスケール違うわね」
「まったくだ」
苦笑しながら頭を掻く。
それでも不思議と悪い気はしなかった。
胸の奥に沈んでいた重い澱が、少しだけ軽くなった気がする。
ピポン。
胸元で電子音が鳴った。
『山川さん』
ムッシュの声だ。
『未知のプロトコルから長距離座標データを受信しました。恐らく先ほどの神様が言っていたゲートの所在地です』
「……そうか」
俺は夜空を見上げる。
あの神。人を勝手に異世界へ放り込んでおいて、自分はゴール地点で待っているらしい。ずいぶん偉そうな話だ。
「聞いたか、町田」
思わず口元が緩む。
「帰りの切符が手に入ったぞ」
「本当!?」
町田が飛び上がる。
「よっしゃあ! あとはそこまで出張して、文句の一つでも叩きつけてタイムカード切るだけね!」
「出張か」
思わず笑った。
「随分と遠い現場になりそうだがな」
見上げた夜空は高い。
その先に続く道もまた、果てしなく遠いのだろう。
だけど、今はもう迷わなかった。




