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第二百七話 それでも


 その日は、決戦を明日に控えた夜だった。


 月が照らすさざ波。

 湖の向こうには、魔王城が暗く沈んでいる。


「アンジュ。俺に、魔王は倒せると思うか?」


 誰かが呟く。


 聞き覚えのある声。


 いや。


 ひどく純粋で、透き通った──疑うことを知らない、あの日の“俺”だ。


「あなた以外に、誰が倒せるっていうの?」


 後ろに立つ女神が言う。


 俺はバツが悪そうに俯いた。


「一人じゃないでしょ? 剣のキリ、魔導のシュシュ、斧のライデンに盾のガース……そして、聖女リラもいる。あなた達パーティが揃えば、魔王だって敵じゃないわ」


 その言葉に、強張っていた表情が少しだけ緩む。


 輝く星々を見上げ、呟いた。


「そうだな」


 その声には、今の俺が失ってしまったものが、すべて詰まっている。


 自信も、信じるものも。


「この世界を……誰もが笑って暮らせる場所にしないとな」


 若き日の俺は言う。


 女神の目を見つめ、屈託のない笑顔で。


「仲間ができた。守るべき使命ができた。……全部、アンジュのおかげだ」


 これは、誰の記憶だ。


 過去の自分?


 まだ、希望だけで生きていけた、あの日の自分──。


 ▽▽▽


 意識が浮上していく。


 頬に伝わる、冷たくて硬い木の感触。


 あー、俺は……。


 途端、泥のような睡魔の底から、最悪の現実が一気に引き摺り出された。


 飛び起きて引き戸に手をかけようとした俺を、静かな声が制止した。


「ダメだよ。それ、僕が張った障壁だから」


 見渡す。


 薄暗いあばら家だ。


 俺の周囲には、薄緑色の透明な膜が鳥籠のように張られている。


 結界の向こう側で、若者が一人、俺を見下ろしていた。


『山川さん、おはようございます。バイタル安定。ただし状況は最悪ですね。意識を失ってから一時間が経過しています』


 胸ポケットの中で、ムッシュが平坦な声で告げる。


 町田の姿はない。


 やっくんの姿もない。


「町田は……。やっくんは!?」


 緑の障壁に顔を近づけ、若者に叫ぶ。


 彼は壁を背に膝を抱え込んで座り込み、首を振った。


「あなたと一緒にいた女性だね。共生棟に連れていかれたよ。黒い魔獣は知らない。どこか飛んでいっちゃった」


 若者は目を合わせようともせず、口ごもるように言った。


「可哀想だとは思うけど。僕らはルールを守らなきゃならないんだよ。父さんも母さんも……僕も、こうしてここで生きてるんだ」


「父さんも母さんも?」


「会ったろ? ここに来た時に一緒にいた」


「岡田夫妻か……。君が、成人した息子さん?」


「成人した……か。嫌な言い方だな」


 彼は自嘲するように、薄く笑った。


「僕はね、会社でドジ踏んじゃってさ。皆に罵られて、辞めたんだよ」


 語りだす若者。


 一刻も早くここを抜け出したい。


 逸る気持ちを抑え、耳を傾けた。


「いつの間にか外には出られなくなって、ずっと家に閉じこもって……いわゆるヒッキーってやつ?」


 微かに肩を揺らす彼。


「ただね、この世界では違った。この世界は、イメージする力が現実を変えるんだ。僕は魔法のコンテンツばかり見てたからね。ここに来たら、その力を手に入れたんだ」


 彼は緑の膜をコンコンと叩き、「これもその力の一つ」と笑った。


「この力のおかげで、僕はこの社会で生きていける。この力で、社会と繋がっていられる」


「……」


「これがなければ、僕は生きていられなくなるんだ」


 初めて真っ直ぐに俺の目を見た彼は、ひどく弱々しく笑っていた。


『この障壁は物理法則を完全に無視した構成となっていますねぇ。彼の言う通り、その想いと神威によって具現化しているみたいです。厄介な障壁だ』


 ポケットから響くムッシュの声に、若者が反応する。


「それ面白いね。ロボット? なんでこの世界で通信が通じてるの?」


『わたしは超絶ジーニアスで唯一無二なAIですから。こんなことぐらい、ちょちょいのちょいです』


 ──AIのくせに、語彙力……。


「その力が気に入ってるのは分かるよ。俺も昔はそうだったからな」


 俺は後ろへ三歩下がる。


「だけど、気づいてしまったら見て見ぬふりはできない。いや──見て見ぬふりはしないと決めたんだ」


 俺は助走をつけ、右肩から緑の障壁に思い切り突っ込んだ。


 ゴキリ。


 嫌な音が響いた。


 ──いっっつてー!!!


 肩の関節が悲鳴を上げ、脳髄に痛みが走る。


 ここで怯むわけにはいかない。


 こいつの前で、やせ我慢は絶対に必要だ。


「おじさん。無駄だと言ったでしょ」


『物理攻撃は得策じゃありません。説得をお勧めしますよ』


 ムッシュの忠告を聞き流す。


 若者は壁を背にしたまま、「説得されてもやめられないよ。気の毒だと思うけど」と目を背けた。


 俺は拳を握る。


 殴る。蹴る。殴る。


 何度も、何度も殴りつける。


「おじさん、必死だな……。死ぬと分かってれば必死になるのも分かるよ。でも、その障壁は破れないって」


 上からの、憐れみの声音。


 それでも俺は殴り続けた。


 息が続く限り。


 ドスッ、ドスッという鈍い音。


 目の前の緑の膜に、べったりと赤い血がこびりつく。


 拳を見る。


 皮が破れ、真っ赤な血で濡れた自分の拳。


 すでに感覚はない。


 その生々しい血痕から、若者はさらに目を背けた。


「ごめん。今の僕には、おじさんを救う立場がないんだ。気の毒だけど……」


「……なに言ってんだ」


 上がる息を抑え、絞り出す。


「なに?」


 若者が聞き返す。


 俺は血に染まった拳を障壁に叩きつけ、叫んだ。


「なに言ってんだって言ってんだよ!!」


 びくりと、若者の肩が跳ねる。


「そうやって『立場がない』だの『ルールのせいだ』だの言い訳して……今まで何人の死にゆく姿を、見て見ぬふりしてきたんだ!!」


 岡田の息子は、完全に顔を伏せた。


 自分がただの「気の毒な被害者」ではなく、人殺しのシステムに加担する「加害者」であることを突きつけられ、震えている。


 俺は荒い呼吸を整え、障壁越しに彼を見据えた。


「いいか。オヤジの特権で、少し説教させてもらうぞ」


 ゆっくりと、息を吐く。


「俺の命なんてどうでもいい。畑の肥やしにでも何でもするがいいさ。でもな──黙って大人しく肥料になってやるつもりはねぇぞ」


 血まみれの右拳が、内側から異常な熱を持ち始める。


「社会と繋がる? 力が必要とされてる? くだらねぇこと言ってんじゃねえよ。他人に依存した居場所なんて、他人の都合で一瞬で吹き飛ぶんだよ!」


 右手の指をゆっくりと開き、再び強く握り込む。


 骨の髄から滾り上がる熱を、その掌で確かめるように。


「誰のためにその力を使ってんだ。村長か? 親か? 村の連中か? そいつらの顔色窺って、お前自身はいつ救われるんだよ!」


 青年は、唇をわななかせて言葉を失っている。


「お前は、お前のために生きてるのか? お前は、お前のために死ねるのか?」


 掌の熱が、べっとりと張り付いた血と混じり合う。


「俺はな、俺のために、俺が信じたやつらと共に抗う。どんな結果になろうと、俺の意志で変えてみせる!」


 熱は眩い赤光を放ち、明確な『形』を成していく。


「だから叫ぶ。中年オヤジの魂の叫びだ!!」


 ──顕現せよ、マグナフォルテ!!


 俺は、滾る熱のすべてを目の前の壁に叩きつけた。


 轟音。


 緑色の障壁が、ガラスのように無数の亀裂を走らせ、粉々に砕け散る。


 粉塵の中。


 砕けた結界の向こう側で、岡田の息子が呆然と立ち上がる。


「……見たか。これが年の功ってやつだ」


 炎の大剣を肩に担ぎ、俺はニヤリと笑った。


 ──わがままな中年が、社会を変えるぞ。


 

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