第二百三話 境界の中
「霧が出てきたね」
隣を歩く町田がぽつりと零した。
視界が、じわじわと乳白色に塗り潰されていく。
前を行く男女の背中も輪郭を失い、白の奥へ溶けかけていた。
足元に気をつけながら進むうち、纏わりついていた霧がすっと晴れる。
まばらになった木々。踏み固められた一本の獣道。
湿った土と青臭い草の匂い。
ふと、耳障りなほどの静寂に気づく。
いつの間にか、森の虫たちの声が消えていた。
「ほら、すぐそこが村の入り口です」
先導していた男が、前方へ顎をしゃくる。
丸太を粗雑に組み上げただけの門が、道を塞ぐように立っていた。その前には、身の丈ほどの棒を握った男が一人。鋭い目でこちらを見張っている。
「やあ、岡田さん。ずいぶん早かったね。薬草は見つかったかい」
「ほらこれ。大収穫よ」
女性が手に提げた籠を高く掲げ、ホクホク顔で笑った。
「で、こっちの連中は?」
「『心の泉』で会ったのよ。神楽さんに送られてきた人たちだと思う」
「神楽さんに……」
門番の男が言葉を切る。
頭のてっぺんから爪先まで、俺たちを値踏みするように眺め回した。
「あんたら、名前は?」
「山川です。こっちが……」
俺が町田の方へチラリと視線を送る。
彼女は、スッと一歩前に出た。
「妻の恵子です。こっちは息子のやっくんです」
愛想良くぺこりと頭を下げる。
──そういえば、恵子って名前だったな。
唐突に思い出して一瞬言葉に詰まる。それ以上に、息をするようにスラスラと嘘を並べる図太さには舌を巻いた。
息子を「やっくん」呼びってのは……ま、今どきっちゃ今どきか。
門番は町田と、彼女の背後に隠れるやっくんを何度も見比べる。
「子連れで来るなんて。あっちは相変わらず、業が深いな」
呆れたように鼻で笑う。
「あら、私たちだって親子で来たわよ」
「岡田さんとこの息子さんは、とうに成人してたでしょ」
笑い合う門番と岡田夫人。
その無駄話に、先導していた旦那が苛立たしげに足元の土を蹴り飛ばした。
「おしゃべりはいいから、とっとと門を開けてくれ。村長のとこに行きたいんだよ」
「へいへい。今開けますよ」
重々しい音を立てて、丸太の門が押し開けられる。
ギギギ、と湿った木の軋みが響いた。
門をくぐった瞬間。
背後の気配が、不意に遠のいた。
振り返ると、分厚い白い霧が立ち込めているだけだった。
開かれた先には、どこまでも続く一本の土の道。
両脇に、家らしき建造物が点々と並んでいる。
歪な木材やトタンの切れ端を継ぎ接ぎしたような外観。どの家にも、異様な手作り感がある。
漂ってくる生々しい生活の匂い。
誰かが、ここで確かに暮らしている。
ねっとりとした視線。
家と家の隙間。薄暗い窓の奥。
確実に、誰かがこちらを見ている。
俺は岡田夫人に声をかけた。
「お二人は、ご夫婦なんですね」
「そうよー。オタクらもご家族なのね」
朗らかに笑う夫人。
その言葉を遮るように、岡田氏が横から口を挟んだ。
「お前は先に帰っておれ。この三人はわしが村長のとこまで連れてくから」
「あら、そうね。じゃまた後でね」
夫人は小さく手を振り、建物の間へと消えていった。
「ここに来てから、長いんですか?」
岡田氏がジロリとこちらを見据え、プイと前を向く。
「いらんことは聞かんでよろしい」
ぶっきらぼうな背中。愛想がいいのは奥さんだけのようだ。
探りを入れる俺の横で、町田は完全に観光客気分だった。
「やっくん、見て見て! あれ面白いねー」
あちこち見回してはしゃぐ。特に、道端の白い彫像を見つけた時はひどかった。
「なにあれ! 神様かなー? 男? おんな?」
遠慮のない大声が、静まり返った村に響く。
岡田氏の肩がピクリと跳ねた。
「おい、あんた。ちょっとは静かにできんのか」
「ごめんなさーい」
口を尖らせて謝る町田。まるで悪びれていない。取りようによっちゃ、完全に馬鹿にしている。
岡田氏はフンッと鼻を鳴らし、歩調を速めた。
その背中を追いながら、俺は改めて周囲へ視線を巡らせる。
家々の窓。軒先。建物の隙間。
あちこちから視線を感じる。
腰の曲がった老婆が一人、物陰からこちらを見ていた。
俺と目が合った瞬間、気味が悪いほど素早く身を隠す。
歓迎はされていない。
それ以上に──異物を観察するような目だ。
すぐに村長の家は見えてきた。門からすでに見えていた。村の中心に居座るような、ひときわ大きな家だ。
岡田氏は、そのドアをドンドンと荒々しく叩く。
「村長! おるかな!」
すぐにドアが開き、ちょび髭を生やした頭の寒そうな爺さんが顔を出した。
「なんだい。岡田さんじゃねーの。真昼間から何の用じゃい」
顔を手でべろんと撫で、だるそうに返す。
「さっき、『心の泉』でこの人らと会ってね。神楽さんが送ってきたみたいだ」
「聞いとらんぞ。わしは」
爺さんが、しわくちゃの目で俺たちを下から眺め回す。
不意に、町田の顔を見つけると──ピクリと片眉を上げ、だらしなく口角を歪めた。
わかりやすすぎる反応だ。
ただ、あの目つきは女を見ているというより──
品定めだ。
粘つく視線に、背筋の奥がじわりと冷える。
この村社会自体が、そういう空気なのか。
「ま、ええわ。入らんせ」
ドアを大きく開け放つ。
嫌な予感しかしない。ここまで来て引き返せる空気でもなかった。
「お邪魔しまーす」
町田の場違いに明るい声に背中を押されるように、俺たちは家の中へ足を踏み入れた。




