第二百二話 境界の住人
怪しく黒光りする鎖は、今も湯気のような瘴気を放っているように見える。
視界の端で、やっくんがサッと町田の背中へ隠れた。
「どうせ電池切れで、もう動きませんて」
──これ、電池で動いてんのかよ!
無言でグイグイ押し付けてくる男に根負けし、袋ごとポケットの奥へ突っ込んだ。
部屋の中は、いつの間にかひどく甘い香りで満たされている。さっき丸眼鏡が焚いた香のせいだろう。
「では、行ってらっしゃい。お気を付けて」
踵を返す丸眼鏡の背中へ、慌てて声を飛ばす。
「ちょいちょい! どこ行くんだ。俺たち、『彼方』へ一時避難するんじゃなかったのか?」
男は立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
「避難?」
口角だけを吊り上げ、静かに首を振る。
「さよなら」
スパンッ。
有無を言わさず、襖が閉められた。
言葉を失う俺の横で、町田が「さようならー!」と呑気に手を振っている。
文句を言おうと口を開いた、その瞬間。
視界が、ぐにゃりと歪む。
甘い香りが脳髄を直接溶かしていくような感覚。
膝から力が抜け、俺はそのまま深い闇の中へ落ちていった。
▽▽▽
森の匂いだ。
青々とした草木に、湿った土の匂いが混じる。
「起きて。ねぇ、起きてください」
さわやかで凛としながら、どこか丸みを帯びた声。
長い髪が頬に触れ、くすぐったい。
──そうか。王都を出て、まだ旅の途中だったんだ。
「リラ、頼むよ。あと少しだけ寝かせてくれ」
妙に体が気怠い。召喚されて訓練を始めたばかりの頃みたいに、手足が鉛のように重かった。
「リラ!? やっくん、ちょうどこのあたり! みぞおちを思いっきり蹴っちゃってください!」
そう。思いっきりね……ん?
──やっくん!?
慌てて跳ね起き、声の方を振り向く。
仏頂面で腕を組む町田と、俺の腹めがけて片足を振り上げたやっくんがいた。
「誰がリラじゃ!」
町田が、ジト目でこちらを睨み下ろす。
やっくんは突然の俺の目覚めに行き場をなくし、振り上げた足をそっと下ろした。
辺りを見回す。
鬱蒼と茂る、見知らぬ森の中。
俺たちは巨大な樹木の根元にできた洞の窪みに、身を寄せて寝転がっていた。
「……水がない」
「水? 何言ってんの。見渡すは〜、緑の木々と〜、ふわふわ土のじゅうたんばかり〜。字余り〜、ごめん」
リュックから取り出したお菓子の箱を、指揮者のタクトみたいにフリフリ振っている。
やっくんが、おかしそうに肩を揺らした。
「前に来た時は、一面が水だったんだ。そこに立つ鳥居をくぐると、神様がいた」
「なんで水の上に鳥居なんて立ってるの?」
「くるぶしくらいまでの深さだ。ただ、果てしなく広かった」
「ふーん。変なの」
さして興味もないらしく、お菓子の箱を開け、やっくんと一緒に棒状のスナックを頬張り始める。
俺は立ち上がり、腰についた土を払った。
「とりあえず周囲を探索してみる。二人はここで待っててくれ」
「ダメです。こういう時、無計画に一人で出歩く人は必ず殺人鬼にやられます。第一被害者です」
「ドラマか?」
「映画です」
「だから探索は団体行動でお願いします。迷子になりますよ」
そそくさとリュックを背負い、やっくんと手を繋いでずんずん歩き出す。
──迷子になるのは絶対お前だろ。
呆れた溜め息を吐き、俺はその後を追った。
▽▽▽
「やっぱ虫だけは勘弁だわー。なんかここ、色々いそうで」
周囲をキョロキョロ見回しながら、森の中を進む町田。
「やっくんも、むやみに木を触っちゃダメよ。葉っぱの裏とかも絶対ダメだからね」
やっくんは、こくこくと素直に頷いている。
──この三人の中で一番強いのは、間違いなくやっくんなのでは?
至極真っ当な疑問を飲み込みながら、俺も前へ進む。
しばらく行くと、小さな池のある開けた場所へ出た。
半分ほどが石で組まれ、一部は祭壇のような形になっている。
「鳥居じゃないね」
町田が祭壇の周囲をうろうろと覗き込んで回る。
俺は池の縁へしゃがみ込み、水面を覗いた。
透明度は高い。底で水草がゆらゆらと静かに揺れていた。
「だれだ! お前ら!」
唐突に響いた野太い声。
反射的に顔を上げる。
町田がビクッと肩を震わせ、固まっていた。やっくんはサッと彼女の背中へ隠れる。
正面に、声の主らしき大柄な男が立っていた。
「ちょっと、そんな聞き方したら驚いちゃうでしょ」
奥から、中年の女性が姿を現す。俺と同じくらいか、少し上程度だろうか。
二人とも、麻色の貫頭衣みたいな服を腰紐で縛っている。
見ようによっては、歴史の教科書に出てくる原始人そのものだ。
女性が柔らかく笑いながら、町田へ問いかけた。
「あなた達、もしかして日本から来たの?」
町田が、こくこくと何度も頷く。
俺は慌てて二人の隣へ並んだ。
「すいません。俺たち迷子で……ついさっき、日本のとある旅館からここに来まして」
「あー」
二人は納得したように顔を見合わせた。
「神楽さんとこから来たのね」
「じゃあ、こっちについてきて。村に案内するよ」
二人は妙に手慣れた様子で、森の奥へ歩き出す。
耳元で、町田がこっそり囁いた。
「ここ、ホントに彼方?」
俺は何も答えられず、ただ肩をすぼめることしかできなかった。
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ずっと、大切に抱えていた物語がありました。
去年、季節が移ろう中で書き上げた、16話・約6万字の逃避行の記録。
あまりに自分の中で感情が熱すぎたからか、公開するのが少しだけ恥ずかしくて、ずっと書庫の奥に隠していました。
けれど、もう季節は巡ります。
この「熱」を、誰かと分かち合いたいと思いました。
<a href="https://ncode.syosetu.com/n2288lp/">『『きみが未来を知らないなら』</a>
「残酷じゃない人生なんて、ある?」
そんな問いかけから始まる、少し大人で、ちょっと不器用な夏のボーイ・ミーツ・ガール。
【公開スケジュールについて】
すでに物語は完結しています。
これから「毎日21時10分ごろ」に、新しい話数を更新していきます。幕間もいくつか添えて、ふたりの逃避行を丁寧に見届けていただけたら嬉しいです。
あなたに届くことを、ひそやかに願っています。




