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第二百一話 境界のかなた


 ガタン。

 

 戸口から、何かが乱暴にぶつかるような嫌な音が響いた。


「来ていますね」


 丸眼鏡が唇に人差し指を当て、じっと耳を澄ます。


「……武装部隊か?」


「はい。でも、ご安心を。中には入ってこれませんから」


 まっすぐ俺を見据えたまま、男は平然と告げる。

 曰く、この旅館自体が強固に神域化されているらしい。

 招き入れられた者以外、この建物の敷居は跨げない。


 ──それでか。


 到着した時、この男が不自然なほど丁寧に「いらっしゃい」と頭を下げた理由が、ようやくわかった。

 あれは単なる接客の挨拶ではない。

 境界を跨がせるための、明確な儀式だったのだ。


「だったら安心。あいつら入ってこれないんでしょ?」


 町田が大きく息を吐き、胸をなで下ろす。

 丸眼鏡の言葉が、その安堵を容赦なく切り裂いた。


「入ってはこれませんが、こちらから出ることもできませんよ」


「……へ?」


「出た途端、捕まって解剖されますね」


「ヒッ!!」


 町田が引き攣った悲鳴を上げ、その場で固まる。

 丸眼鏡は彼女の反応に微塵も動じず、ぼんやりとこちらを見つめていた。

 冗談を口にする時だけ、こいつの眼鏡の奥の瞳がスッと冷たくなる。


 俺の視線に気づいたのか、丸眼鏡が淡々と問いかけてくる。


「で。どうされますか?」


「ちょっと確認したいことがある」


「なんでしょう」


「あんたんとこの御神さまは、いい神さんなのか?」


「神様に、善悪の概念などあるのでしょうか?」


 ──ま、それもそうか。


「さっき会った時、自分たちも古き者たちが作り上げた『AI』だと言っていた。あれはどういう事だ?」


 丸眼鏡の動きが、ピタリと止まる。

 思考を巡らせているのか。

 それとも、どこか別の次元と繋がっているのか。


「……からかわれたのではないでしょうか」


「どうかな。そんな軽々しい感じには見えなかったが」


 フム。男はこめかみに指を当て、軽く叩いた。


「御神様が、敢えて『古き者』と言ったのが気になりますね」


 眼鏡の奥の瞳が、静かに俺を射抜く。


「きっとそれは……人間ではないのでしょう」


「あ! 知ってるよそれ、宇宙人のしわざでしょ!」


 町田が勢いよく身を乗り出し、息を吹き返す。


「もともとお猿さんだった人間に、知識を与えたのも宇宙人なんだよ」


「またドラマの知識かよ」


「ブッツブー。UFO特番二時間スペシャルよ!」


 隣で、やっくんが無関心に大あくびをこぼす。

 丸眼鏡はそんなカオスな様子をマイペースに眺めながら、小さく呟いた。


「まあ、そうなのかもしれませんが……」


 なんだそりゃ。


「今はその知識も、あまり役に立ちませんね。で、どうしますか?」


 逃げ道はない。

 残る選択肢は、ここで死ぬか。

 彼方へ賭けるか。


「行くよ。彼方へ」


「わかりました。準備します」


「準備って、随分と手慣れてるな」


「そりゃまあ、それが私の仕事でもありますから」


「他にも人を送ってるってことか?」


「はい。ときどき」


 こともなげに言い切る。


「ここに泊まりに来る人の多くが、それを希望してらっしゃいますから」


 それなら、多少は安全なのか。

 俺が少しだけ肩の力を抜いた、その直後だった。


「ちなみに、過去に百人以上の人を送ってきましたが……」


 丸眼鏡が、心底どうでもよさそうに言葉を続ける。


「帰ってきた人は、一人もいません」


「まるで生贄じゃん!」


 町田の鋭いツッコミに、丸眼鏡は不思議そうに小首を傾げた。


「本人たちの希望ですから」


 希望、ねぇ。

 さっき俺が彼方の空間へ行った時は、あの御神体しかいなかったはずだ。

 送られた百人は、一体どこへ消えたというんだ。


「それでは、準備してまいります」


 丸眼鏡は静かに頭を下げ、部屋を出ていった。

 ぼんやり立ち尽くす俺とは対照的に、町田はやっくんへ指示を飛ばしながら、手際よく布団を片付け始める。

 今さら放っておけばいいものを。

 こんな極限状態でも、自分の中の常識に従って動ける彼女の図太さには、妙な感心すら覚える。


 ガタンガタンッ!


 戸口を叩く音が、さらに激しさを増す。

 再び部屋のドアが開き、丸眼鏡が戻ってきた。

 抱えていた大きな段ボール箱を、畳の上へドカリと置く。


「焦ってますね。外の方々も……」


 箱の中から、曲がりくねった奇怪な木の塊や、旅行用の大容量リュックを取り出しながら、ぽつりと零した。


「ちなみに、俺たちが出ていったあと、あなたはどうなるんです?」


 丸眼鏡の、常に一定だった瞬きがピタリと止まる。


「なんか、まずいこと聞いたか?」


「いえいえ。このタイミングで他人の心配をされる方、今まで一人もいませんでしたから」


 一拍置き、柔らかく笑う。


「私のことなら、お気になさらず。何とでもなりますので」


 そう答える彼は、珍しく心底楽しそうだった。


「ねぇ、このリュックは?」


 町田が、やっくんにリュックを背負わせながら尋ねる。


「皆さん、何の準備もされていませんでしたので。旅館にあった避難用バッグをお持ちしました」


「え!? 荷物って持って行けるの?」


 目を丸くする町田に、丸眼鏡は「たぶん」と頷く。


「送った後は何も残っていませんから。身に着けている物は、一緒に送れるみたいですね」


 その言葉を聞くや否や、町田は卓上のお茶菓子や備品のタオルを次々とリュックへ詰め込み始めた。

 

 さすがの丸眼鏡も止めるかと思いきや、逆に「これなんかもどうぞ」と、旅館の手ぬぐいや細々したサニタリーグッズまで差し出してくる。

 

 最後には備え付けの冷蔵庫の飲み物まで押し込み、いつしかリュックは、はち切れんばかりに膨れ上がっていた。

 もちろん、一番パンパンで重いリュックを背負う羽目になったのは俺だ。


「ふ〜〜。物足りないけど、ここまでのようね」


 町田が腰に手を当て、大げさに息を吐く。

 丸眼鏡は部屋の四隅に香を焚き、妙な置物をあちこちへ配置する作業を終えていた。


「では、そろそろ」


 丸眼鏡が俺を見る。

 小さく頷くと、彼は「あ」と思い出したようにポケットから袋を取り出した。


「なにこれ?」


 中を覗くと、さっきやっくんから引っぺがした例の鎖だった。


「いらんわ、こんなもん」


 突き返す俺に、「置いていかれても困るんで」と強引に押し戻してくる。


「なんかのアクセサリー代わりにでも……」


「なるかい、そんなもん!」


 

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