第二百話 包囲網
スッ……。
微かな摩擦音とともに、襖が横へ滑る。
息を殺し、右手に力を込めた。
鉄橋で脅してきた男たちか。
それとも、あの蛇のような男か。
いずれにせよ、ここで捕まるわけにはいかない。
眠る二人を背に庇い、立ちはだかる。
背筋を、冷たい汗がひと筋伝った。
ゆっくりと開く、暗闇。
そこから現れたのは──。
「丸眼鏡……?」
肺に溜めていた息が、細く漏れた。
右手に集めていた熱を散らし、肩の力を抜く。
男もまた、俺と目が合うとわずかに片眉を上げた。
「……起きていましたか」
「ああ。ちょうど今な」
「そうですか」
男は音もなく襖を閉める。
寝ぼける町田と、彼女の服を引っ張るやっくんへ一瞥を送り、その場に静かに正座した。
背筋を伸ばし、まっすぐ俺を見据える。
「──会いましたね?」
一瞬、意味がわからなかった。
すぐに気づく。さっきの『彼方』のことだ。どうやら、夢ではなかったらしい。
俺は黙って頷いた。
「この地は、古くより神域とされてきました」
男は、まるで台本でも読むように語り始める。
「その境界線の上に、この旅館は建てられているのです」
「……さっきの人は、神様なのか?」
男は、眉を上げた。
「そう呼ぶ者もおります」
クイ、と中指で眼鏡を押し上げる。
「もっとも、私はお会いしたこともありませんし、その御名すら存じません。ただ──古よりこの地に住まう御神として、恐れられ、敬われてきた存在です」
男の目が、すっと細められた。
「少なくとも──勇者や魔王などという、人の都合で名付けられたものとは無縁の存在でしょう」
──言ってくれる。
「会ったこともないのに、そこまで言い切れるのか?」
「代々この地を守る者として、お告げを賜っておりますので」
すました顔で答える。
お告げ。サキコの予知能力に近いものだろうか。少なくとも、この男は神の存在を露ほども疑っていない。
「なになに、なんかあったの?」
背後で、布の擦れる音。
ようやく目を覚ました町田が、やっくんに手を引かれながら身を起こし、丸眼鏡を見つけてビクッと肩を揺らした。
「げっ、変な術使う奴! ……あ、でもさっきの夜食、すっごくおいしかったです。ごちそうさまでした!」
ぺこり、と勢いよく頭を下げる。
こんな状況でも、妙なところで礼儀正しい。
「お粗末さまでした」
丸眼鏡もまた、生真面目に頭を下げた。
「……で。何か用があって来たんだろ」
俺が本題を促す。
まさか神様に会ったか確かめに来ただけではあるまい。
「そうでした」
丸眼鏡が、思い出したようにぽんと手を打つ。
「現在、この旅館の周囲を武装した部隊が包囲しています」
「……は?」
「おそらく、お客様を捕らえるためでしょう。ざっと見て、四、五十名ほどかと」
先ほどから、宿の監視カメラや暗視装置に映っているらしい。
「先方も、包囲していることをあえて見せつけているのでしょうね」
丸眼鏡が淡々と分析する。
「それは困ったわね」
町田が、他人事のように腕を組む。
「はい。困りましたね」
丸眼鏡も真顔で深く頷いた。
なんだ、こののんきコンビは。
「じゃあとりあえず、無事に逃げられる秘密の抜け穴を教えてちょうだい」
真顔で問う町田に、丸眼鏡は表情ひとつ変えず首を振った。
「そのようなものはございません」
「えっ!? ないの!?」
「逆に、なんであると思ったんだよ」
呆れて問うと、町田はふんすっと鼻息を荒くする。
「ドラマじゃあるのよ! こういう時は、絶対に!」
絶対の根拠がドラマかよ。
頭が痛い。
「じゃあダメじゃん! 捕まっちゃうじゃん! どーすんのー!」
さっきまでののんきさはどこへやら。
たちまち涙目になり、頭を抱えてその場にうずくまる。
やっくんが彼女の腕を掴み、不安そうにその顔を覗き込んだ。
「おそらく、ここへ繋がる県道も封鎖されているかと」
丸眼鏡が、平然と追い打ちをかける。
「ふえーん。捕まって解剖されるんだー」
勝手な妄想を膨らませたまま、町田は顔を伏せたままだ。
やるしかないか。
無駄なあがきでも、万が一に懸けて突破するしかない。
右手に熱を集め、覚悟を決めた──その時だった。
「秘密の地下道ではありませんが」
丸眼鏡が、静かに口を開く。
「抜け穴が、ないわけではありません」
「……あるのか?」
思わず身を乗り出す。
丸眼鏡は、ゆっくりと頷いた。
「ほらー! やっぱあるんじゃん! もう! そうやって盛り上げようとするんだからー!」
涙目のまま抗議する町田を完全に無視し、丸眼鏡は淡々と告げた。
「──『彼方』へ」
眉をひそめる。
「……彼方?」
「はい。先ほど、行かれましたよね」
「意識だけだ。肉体ごと行けるわけがないだろ」
「いえ」
丸眼鏡は即答した。
「おそらく、可能です。一度あちらへ足を踏み入れた以上、道は繋がっている」
眼鏡の奥で、冷たい光が揺れる。
「もっとも──」
わずかに、口元が動いた。
「帰ってこられる保証はありませんが」
意味を理解するのに、一拍かかった。
「おい!」




