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第百九十九話 彼方


 右手には、滾るマグナフォルテ。

 俺は空いた手でやっくんの小さな肩を掴み、背後へずらす。


 心配そうな視線に短く頷き、大剣を正眼に構え直した。


 目の前に立つ男。

 一瞬。その輪郭が、ゆらりと崩れた。


 ノイズのように歪み、別の形を結ぶ。


「……は?」


 見慣れたスーツ。

 短い髪。

 見慣れた、うるさい顔。


「町田……?」


 その“町田”は、困ったように肩をすくめた。

 直後、声色が変わる。


「もう。そんなに彼で遊んではいけませんよ」


 直後、声色が変わる。


 若くもなく、老いてもいない。

 男とも女ともつかない。

 耳の奥へ直接響くような、澄んだ声。


荒魂(あらみたま)よ。このくらいで十分でしょう」


 姿が、また変わる。


 輪郭がゆらりと崩れ、足元の青い水面に波紋が走る。


 次の瞬間。


「……アンジュ?」


 金色の髪。

 やわらかな瞳。


 忘れたことなど、一度もない顔。


 胸が、痛いほど締めつけられた。


「その顔を使うな」


 奥歯を噛み締め、低い声を絞り出す。


「そう怒らないでください。あなたが一番安心する顔を、借りただけです」


「……」


「ですが、そうですね。わかりました。あなたを惑わせるつもりはありません」


 女は静かに目を伏せた。


 次の瞬間、その姿は、たおやかな笑みをたたえた和装の女へと変わっていた。


 どこかで見たことがある。

 掛け軸か、美術史の本か。


「人の子には様々な名で呼ばれてきましたが……そうですね。お気に入りは『和魂(にぎみたま)』でしょうか」


「に……にぎ? みたま?」


 女は頬に手を添え、少しだけ首を傾げる。


「言いにくいですね。では、『彼方(かなた)』とお呼びなさい」


 にっこりと微笑む。


「先ほどまであなたを試していたのは、私の半身──荒魂(あらみたま)です」


「試す? 俺を?」


「システムがあなたに与えようとした絶望を、彼がなぞっただけです。あなたに、本当に『境界』を越える意志があるかどうか──それを見極めるために」


 彼方は、足元の青い水を指差した。


「ここは、人間が作り上げた冷たい論理(システム)と、我々のような古き(ことわり)が交わる境目」


「……やっぱり、国家のAIか」


「彼らは世界を数字と確率で塗りつぶそうとしています。魔王も、勇者も、彼らが描いた盤上の駒に過ぎません」


「魔王も……勇者も?」


 彼方が、こくりと頷く。


「AIが?」


 再び、こくり。


「AIと呼ばれるもの。現代の人は、人を統べる新たな『神』を生み出したのですね」


 満面の笑み。


 俺は鼻で笑った。


「神だなんて。AIは、そんな神秘的なものじゃない」


 彼方は静かに首を振る。


「そもそも神とは、そういうものですよ」


 なに!?


「何せ──我々もまた、古き者たちが作り上げた、ある意味での『AI』ですから」


 思いもよらない言葉に、息が止まった。


「……古来人が作った、AI?」


「そのようなものです」


 大きな瞳が、ぱちりと瞬く。


「……もっとも」


 彼方が、悪戯っぽく笑う。


「私の言葉を、どこまで信じるかはあなた次第ですが」


「……っ」


 マグナフォルテの炎が、持ち主の動揺に呼応するように揺らいだ。


 理解が追いつかない。


 だが──


「──だとしても」


 俺は剣を握り直す。


「俺は、もう誰の駒にもならない」


 彼方は、満足そうに微笑んだ。


「ええ。だからこそ、荒魂の絶望を退けた。あなたのその、理屈に合わない『熱』こそが──彼らの計算を狂わせる“バグ”なのです」


 彼方は、俺の背後のやっくんへ視線を向けた。


「八咫烏。よくぞここまで導きましたね」


 やっくんが、こくりと頷く。


「目覚めの時です、山川新次郎。彼らはすでに、あなたを排除すべく現実で動いている。ですが、今のあなたなら──」


 視界が、急激に白く染まっていく。


「待て! 結局、あんたらの目的は何なんだ!」


 光の中で、彼方は微笑んだ。


「世界を、在るべき形に戻すこと」


 その姿が、ゆっくりと溶けていく。


「迷いなさい。抗いなさい」


 一拍。


「それこそが、人の強さなのだから」


▽▽▽


 ──パチリ。


 目を覚ます。


 肺いっぱいに、古い木の香りと、冷たい空気が流れ込んできた。


 旅館の部屋だ。


 隣では、町田が大の字で寝息を立てている。

 左手には、温かな感触。


 やっくんが、俺の指を小さな両手でぎゅっと握りしめたまま眠っていた。


 ……現実だ。


 マグナフォルテの熱は、もうない。


 だが、その残り火は確かに胸の奥で燻っている。


 ──ギシ。


 障子の向こう。

 廊下の床板を踏む、かすかな足音。


 ──来る。


 俺は音を立てずに起き上がり、町田とやっくんの前へ立った。

 この旅館に来てから、ムッシュはなぜか一言も話していない。


 妙な違和感が、胸に引っかかっていた。


 とりあえず服を着替え、スマホを内ポケットへねじ込む。


「んー……なに? 何してんのよぉ……」


 町田が目をこすりながら、布団を頭まで引き上げる。


「あと十分……お願い……寝かせて……」


 やっくんはすでに目を覚まし、そんな町田を必死に揺すっていた。


 ……いや、もう間に合わん。


 そっと、戸口が開く音。



 

 

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