第百九十八話 俺が俺のために
──俺が、なんだって?
「言っていることが、わかるかい?」
目の前の『俺』が、薄く笑う。
誰だ、こいつ。
俺は、こんな笑い方はしない。
「それはそうだろう。私は、君じゃない」
思考を読まれたのか。
無意識に、一歩後ずさる。
「心を読む必要などない。ここは、すべて私だから」
叫び出したい衝動を噛み殺し、深く息を吸う。
周囲を見渡した。
モノクロの空。
足元の青い水。
他には、何もない。
そして──目の前の男。
鏡写しのような、くたびれた中年。
間違いなく、俺の顔だ。
だが、纏う空気がまったく違う。
無機質で、冷たく、底が知れない。
「……お前、誰だ」
「俺は山川新次郎だ。しがないサラリーマンで、少し前まで嫌々ながら周囲の都合で『勇者』をやらされていた、ただのオッサンだ」
「違う。それは俺だ」
「ほう。自分のことを、そう思っているのか」
低く笑う男。
「お前は記憶がないのだろう?それでも、自分が自分だと言えるのか?」
「記憶はある。ないのは、ほんの一部だけだ」
「そうかな?」
男が、小さく首を傾げる。
「名前。記憶。感情。それらすべてが、後から刷り込まれたものだとしたら?」
脳髄を、氷の刃でかき回されるような感覚。
足元の水が、不気味に波打った。
「ふざけるな」
あれほど自分に絶望し、孤独に苛まれた日々すら、刷り込まれた記憶だと?
そんな残酷な冗談があってたまるか。
「その『ただのオッサン』という設定──よくできていると思わないか?」
偽物の俺が、面白そうに笑った。
「社会の歯車として目立たず、自己犠牲の精神だけはインプットされている。エラーを起こした『魔王』を処理するための、完璧なカウンター・プログラムだ」
──プログラム。
奴は、確かにそう言った。
「十五年前の異世界。あんな、おとぎ話のような世界が、本当にあったとでも?」
男は肩をすくめる。
「君も薄々、気づいていたはずだ。あれは、記憶を失っている間に脳が描いた『処理層』に過ぎない」
喉の奥が、カラカラに乾いていた。
「……そう思ったことは、ないのか?」
何度も、疑ったことだ。
いや──違う。
実際に仲間がいた。
あいつらは、確かに隣にいた。
「本当に?」
男は感情のない目で俺を貫く。
「こう考えたことはないのか?これは夢の続きで、君は今も病院のベッドで眠っているのだと」
足元の水が、やけに冷たい。
膝の力が、抜けそうになる。
「ハハハ。楽しいな。結局、お前は自分の存在すら信じられていない」
ひとしきり笑い終えた男は、コホン、と咳払いをひとつした。
「まあ、いいだろう。ここからが本番だ」
片手を腰に当て、もう片方の手を掲げる。
「勇者も、魔王も。すべては社会というシステムを最適化するため、誰かが仕組んだマッチポンプだ。君たちは箱庭の中で“勇者ごっこ”をさせられていた、ただの掃除屋に過ぎない」
「……黙れ」
「君が大切にしている『仲間』への想いも、そういうふうにコードを書かれただけだ。悲しいね。君の魂は、最初から空っぽなんだよ」
「黙れって、言ってんだろ!!」
青い水しぶきを上げ、胸ぐらを掴もうと手を伸ばす。
──すり抜けた。
奴の体がノイズのように揺らぎ、俺の手は空を切る。
バランスを崩し、水の中へ膝をついた。
俺が、作り物?
アンジュにもらった温もりも。
仲間と流した血も。
ルーリを助けたいと願った焦燥も。
全部、誰かが書いた『設定』だというのか。
寒気がした。
自分の輪郭が、足元の水に溶けて、どろどろと崩れていくような錯覚。
俺は──誰だ。
俺は、本当に存在しているのか。
視界が、暗く沈んでいく。
もう、立ち上がれない。
そう思った、その時だった。
──ぎゅっ。
左手に、小さな熱を感じた。
はっとして、顔を上げる。
やっくんだ。
小さな男の子の姿をした神様が、俺の大きな手を両手でしっかりと握りしめていた。
「ぱぱ」
澄んだ声だった。
システムも、コードも、何の計算もない。
ただ、そこにある圧倒的な熱。
──そうだ。
俺の手には今、こいつの体温がある。
さっき食った朴葉味噌の、甘辛い匂いも残っている。
隣でギャーギャー騒ぐ、うるさくてチョロい秘書の顔も焼き付いている。
それが偽物かどうかなんて、どうでもいい。
俺が今、ここにいて、こいつの温もりを感じている。
それだけで──十分だ。
膝に力を込め、ゆっくりと立ち上がる。
偽物の俺が、わずかに眉をひそめた。
「俺が誰の作り物だろうと、知ったことか」
やっくんの手を握り返し、まっすぐに前を睨み据える。
「他人の人生に勝手に役割を押し付けて──」
一歩、踏み出す。
「安全な場所から見下ろしてるお前らにな」
もう一歩。
男の顔に、苛立ちが走った。
無造作に、その手を俺へと向ける。
その瞬間、やっくんが俺と男の間に割って入った。
男が、目を見開く。
「八咫烏よ。なぜ、その男をかばう」
やっくんは答えない。
ただ、じっと男を見つめ返す。
俺は、長く深い息を吐いた。
もう、振り回されるのはごめんだ。
ゆっくりと右手を上げ、強く握り込む。
「さっきから俺がどうだとか、記憶がどうだとか──訳の分からないことばかり言いやがって」
右手から、ズルリと灼熱の剣が生まれる。
足元の青い水面がマグナフォルテの赤に染まり、激しく沸騰し始めた。
剣を握る手に、もう迷いはない。
「……俺は、俺のためにここにいる」




