第百九十七話 夜食
部屋に戻ると、机の上には三つの小さな御膳が並んでいた。
丸眼鏡の姿は見えない。用意だけしてさっさと引っ込んだらしい。
呼べば応える気配すらない。
まるで最初から、存在しなかったように。
町田は、やっくんに浴衣を着せている。
あーでもないこーでもないと講釈を垂れながら、ひどく楽しそうだ。
彼女にとって、やっくんは既に八咫烏様ではなく「やっくん」なんだろう。
──そうでなけりゃ、神に講釈なんて恐れ多かろうに。
彼は彼で、町田のされるがままになっている。
彼女の言葉にコクンコクンと頷いているところを見ると、今の自分の立ち位置にも納得しているのだろう。
窓の外に目を遣る。
部屋の中の騒がしさが嘘のように、空気が静まり返っている。
障子の向こうで、山の夜が深く深く沈んでいた。
▽▽▽
木の盆の上には、湯気の立つ味噌汁と香の物。艶やかな握り飯が二つ。
傍らの小さな焼き台では、大きな朴の葉がかすかに熱を帯びていた。
葉の上に乗せられた味噌が、ちりちりと小さな音を立てて焦げている。
甘辛い味噌の匂いと、炙られた枯れ葉の野趣あふれる香ばしさ。それが温かな湯気と共に、ふわりと鼻腔をくすぐった。
派手さはない。ただ、芯から冷え切った身体の奥底まで届くような、ひどくホッとする見目だった。
「なにそれ、おいしい予感するー!」
町田はさっさと箸を取ると、勢いよく味噌を口に運んだ。
「んー! なんか、懐かしい味する! なにこれ」
おにぎりと交互に口へ運び、もごもごと咀嚼する。
「……朴葉味噌」
ぼそりと呟いた瞬間、既視感が胸をかすめた。
「それって、新幹線で言ってたやつだね!?」
うーん、なるほど。と、まるで美食家のように味わったかと思うと、頬をおさえてうっとりする。
「う〜ん、おいしい!」
町田がニッコリと笑う。
そんな様子を呆然と見るやっくんに、彼女は笑いかけた。
「やっくんも! これね、こうして、こうして」
かいがいしく大きな握り飯に味噌をチョンと乗せ、「これ、パクンと一緒に食べるとおいしいよー」と差し出す。
その様子をきょとんと見つめる八咫烏様。
小さな手をそっと伸ばしてそれを受け取り、パクリ。
「……おいし」
女の子のような細い声で呟き、ホッペを膨らましモグモグと咀嚼する。
「もー、きゅんきゅんするー!」
もだえる町田が、八咫烏様の口元についた米粒をつまんで自分の口に入れる。
「いや、神様だからね。あんまり失礼のないようにだな」
「だからー、そうやって言うのやめない? 今は三人しかいないんだからね」
そう言うと、「ほら、やっくん! 言ってあげて」と肘でツンツンと小突く。
なにやら、お風呂で仕込んだネタでもあるのだろうか。
やっくんは、俺を見てにっこり笑った。
「ぱぱ?」
「よく言えたねー」と、頭を撫でる町田。
やっくんはくすぐったそうに目を細めている。
不意に顔を上げ、今度は町田を見つめてポツリ。
「まま?」
固まる町田。
次の瞬間、ギュッとやっくんを抱きしめた。
やっくんもまんざらでもなさそうに、抱きしめられたまま目を細めている。
なんだろう。この感じ。
まるで今、この世界に、三人だけしかいないような気がした。
寂しくもあり、同時に胸の奥の方からじんわり温かな何かが体を満たしていく。
俺は残りの味噌汁を啜り、箸を置いた。
その瞬間。
どこか遠くで──
ごウッ──
山が、息をした。
▽▽▽
眠気は、突然きた。
十二時間ぶりの食事のせいか、あの静寂のせいか。
机に突っ伏しそうなほどに、まぶたが重い。
いや、違う。
疲労とは別の、抗えない眠気だ。
「ちょっとだけ……横になる……」
隣で町田が呟き、そのまま布団へ倒れ込んだ。
やっくんもふらふらと後を追い、潜り込む。
何かおかしい。
気づいた時には、もう指先に力が入らない。
立ち上がろうとして、畳に手をつく。
体が、重い。
そのまま、うつ伏せに倒れた。
眠い。
ただ、ひたすらに。
目を閉じると、意識が薄れていく。
その底で、声がした。
「――来なさい」
▽▽▽
水辺に、立っていた。
くるぶしまで水に満たされた場所。
色が、ない。
空も、遠くの砂浜も、すべてが白と黒で塗り潰されたモノクロの世界。
ただ足元を満たす水だけが、ぞっとするほど鮮やかな青色をしていた。
ぴしゃり、ぴしゃり。
音を立てて歩く。
自分でも、どうして歩いているのか分からない。
ただ足が勝手に動いている。
気づけば、鳥居の前にいた。
朱色の、大きな鳥居。
支柱のあちこちから、呪文のような文字が記された細長い布が、風もないのにゆらゆらとたなびいている。
「こっちだよ」
──さっきの、声だ。
前に進むべきかためらい、開かれた鳥居の前で足を止める。
その時、スッと俺の手を握る者がいた。
小さな手。
やっくんだった。
ぐい、と引かれる。
少年の力ではない。
抗う間もなく、鳥居をくぐる。
白い霧。
その中心に、人影が立っていた。
見覚えがある。
ありすぎる。
「……ルーリ?」
「遅かったね、新次郎」
彼女が笑う。
違う。
まず、彼女は俺を「新次郎」とは呼ばない。
それに──目が、違う。
何千年も前から俺を知っているような、古く冷たい瞳だった。
「そうだね。私は違う」
女が微笑んだ瞬間、足元の水が波紋を広げた。
輪郭が、ノイズのようにブレる。
瞬きをした覚えはない。
なのに次の瞬間、そこに立っていたのは──町田だった。
「こっちの方が、話しやすいか?」
町田の顔なのに、町田じゃない。
その姿が次々と変わっていく。
少女になり。
老婆になり。
男になり。
獣になり。
そしてまた、ルーリの姿へ戻る。
「お前には、この顔が一番話しやすいだろう?」
背筋を、冷気が這い上がった。
「では問おう、勇者」
足元の水面が、大きく波打つ。
気づけば、その姿は──俺だった。
「お前は──いつから、自分を"自分"だと思っていた?」




