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第百九十六話 彼方、そして境界


「ホエー……」


 町田が奇妙な声を漏らし、きょろきょろと辺りを見回す。

 ついさっきまであれほどビビり散らかしていたくせに、一歩中へ入れば、もうすっかり上機嫌だ。


 古びた外観とは裏腹に、旅館の中は驚くほど清潔だった。どこか気持ちを落ち着かせる木の香りが漂い、妙に居心地がいい。

 平屋建て、部屋数はわずか五部屋。経営が成り立っているのか余計な心配がよぎったが、今は大きなお世話だろう。


 案内されたのは西の端にある彼方(かなた)という部屋だった。

 旅館にしては妙な名前だ。そう思った俺に、丸眼鏡の男が無表情で補足する。


「西の端ですから。彼方です」

 それから、わずかに声のトーンを落とした。

「向こう側に、一番近い」


 男が引き戸を開ける。

 そんな不安など忘れてしまうほど、広々とした十畳の空間が広がっていた。奥の寝室スペースには、布団が三組きれいに並べられている。


 受付ではひと悶着あった。

 男女で分かれるか否か。町田の言い分は、こうだった。


「男女で分けると、やっくんは男チーム?」

「いや、まだ子どもなんだからそっちでいいだろ」

「だよねだよね。私、一人部屋は絶対に嫌」

「分かった。じゃあ俺が一人部屋を取る」


 丸眼鏡が受付の手続きを済ませようとした瞬間、町田が慌てて割って入ってきた。


「待った! やっぱり同じ部屋にいよう! ちょっとさ、ほら、色々あったからさ」


 結局、三人一緒の部屋に泊まることになった。


 部屋に入るなり、町田が人差し指を突きつけてくる。


「いい! 絶対に野暮なことすんな!」


「──するかよ」


 ぶっきらぼうに返す。まあ、この程度の軽口で済むなら上等だ。

 

 丸眼鏡の男が部屋の説明をひと通りしてくれた。

 露天風呂は二十四時間入り放題らしい。

 さっそく町田が歓声を上げる。


「やっくん、一緒に入ろ!」

「やっくんは男湯だろ」

「やっくんは神様だから関係ないモーン」


 おい! と突っ込みかけたが、丸眼鏡はそんな会話など聞こえていないかのように説明を続けていた。

 

「本日のお客様はあなた方だけですので、三人で入ろうが貸し切りにしようがお好きにどうぞ」

 そのまま男が無表情で続ける。

「お腹がすいているようでしたら、簡単なものでよければ夜食をご用意できますが、いかがですか」

 

 柱の古時計を見ると、日付が変わろうとしていた。

 昼に蕎麦屋で食べたきり、何も口にしていない。


 人生変わるほどの事があれだけあって──まだ十二時間!?

 そんな時間しか、経っていない。


 返事すら忘れ呆然とする俺に代わり、町田が再び歓声を上げる。


「いいんですか!? お腹すいちゃって!」


「では、簡単なもので恐縮ですが、用意してまいります。お風呂はこちらです」

 男はそのままさらりと部屋を出ていった。


「じゃあねー!」

 町田は手を振って、やっくんを連れていそいそと風呂場へ向かう。


 一人残された俺も、結局はやることもなく別棟へ向かった。

 

 通路の表札によると、東の奥に脱衣所があるらしい。


 長く薄暗い通路を一人で歩く。

 右手には大きな窓が点々と並んでいる。

 

 途中の窓から見えた山の稜線が、一瞬だけ水平線──海に見えた気がした。

 思わず足を止める。

 もう一度見た時には、ただの夜の山だった。


 ▽▽▽


 脱衣所は、薄ぼんやりとした灯りに照らされていた。

 静かすぎて、自分の衣擦れの音だけが妙に響く。

 上着を脱いだ、その時だった。


「キャッ!?」


 壁一枚隔てた隣から、町田の短い悲鳴。

 脱衣所を飛び出す。


「どうした!」


「ちょっと……! あ、いいよ、来て来て! 早く!」


 躊躇なく引き戸を開けて踏み込む。

 コートを羽織ったままの町田が、やっくんの前で膝をついていた。


「見て見て!」


 指さした先、やっくんの左腕。

 いびつな形の黒い鎖が、ぐるぐると巻き付いている。

 血流が止まっているのか、小さな手が青黒く変色していた。


 ──あのツバサに絡みついてた鎖か……


「ひどくない? これ何?」


 触れた瞬間、ぞわりとした。

 生温い、生き物の皮膚のような感触。

 中央のソケットに貼られた「鎮」の一文字を指先で剥がすと、紙ははらりと落ちた。

 現れたのは神代の文字ではない。ひどく見慣れた、現代の英数字。


「……KT-01?」


 軽く引っ張ると、鎖がヌルリと蠢いた。やっくんが顔を歪める。


「ダメだ。これ以上やると、逆に──」


「どうかしましたか」


 背後から、丸眼鏡の声。

 男はずかずかと踏み込み、無造作にやっくんの左手を掴み取った。


 「チッ」と短く舌打ちしたかと思うと、人差し指と中指を立てて結印し、低い声で素早く呟く。


「……畏み畏み申したてまつる。国津の御名において──」


 指先が、鎖を鋭く一閃する。


 ドクン──鎖が激しくのたうち、腕から滑り落ちた。


 男が逃げる鎖を踏みつけ、容赦なく拳を叩きつける。

 金属音。そして、ひしゃげたソケットから火花が散った。


 彼はそれを、ゴミを拾うかのように掴み上げる。


「処分しておきます」


 それだけ言い残して、とっとと出ていった。


 俺たちは唖然として背中を見送る。


「斎人」


「なんて!?」


 声に振り返り、驚く。

 そこにいたのは、左手をさするやっくん。


「……今、喋った?」


 町田と顔を見合わせる。


 眠たげに「ぱぱ?」と呟いたことはあった。

 でも、今のは違う。


 声の質そのものが、別人。


 それ以上、やっくんは答えない。

 ただ、廊下の奥を──じっと、見つめていた。



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